2024/12/30

ヴァリューアップとソリューション

 今日も通信教育をやりながら考えたことを徒然に書き連ねます。

 商工会議所の創業セミナーでのお話しと同様に、この通信教育でも、お店のコンセプトを文書化して明確にすることが求められています。お店に来る「お客様」は、その店に向かう段階で、何かその店についてのイメージと期待を持っているはずです。そうでなければ店に足は向きません。そうしたイメージを定着させることができなければお客さんは来ない。だから、お店の方から「こういうお店です」というコンセプトを簡潔な言葉で明確に示す必要がある、というのです。

 通信教育のテキストによると、このコンセプトを打ち出す方法には2通りあるというのです。

 ひとつが「ヴァリューアップ法」。参考となる既存の店や既存の事例に付加価値をプラスして、より価値の高いお店をつくるという発想です。例えば「本の庵」であれば、スターバックスの「サード・プレイス」という考え方に「脱・コミュニケーション」という価値を付加する、とか、インターネットカフェに本が持っている知的なイメージを付加する、といったコンセプトの作り方です。

 もうひとつが「ソリューション法」。お客さんのニーズというのは、既存の店では満たされない何らかの不満・不足・不安があって、それを解決するところに商機がある、という発想です。「本の庵」の場合、本当はこっちがメインなのだろうと思います。「本の庵」が解決したいのは、社会的な閉塞感だとか、人間が人間として扱われないことによる疎外感だとか、そういった問題です。けれど、これは共感を得るのはかなりハードルの高いテーマです。そういう閉塞感や疎外感は、誰もが感じているかもしれないのですが、正面切ってそれを話題にすることは普段はありません。どちらかというと避けておきたい話題に属するようにも思います。プロモーション戦略としては、そこはいったん引っ込めて、「ひとりになることで自分を取りもどす時間」といったコンセプトで関心を持ってもらい、何度か通ううちに、自分の周りにある閉塞感や疎外感、息苦しさや生き辛さに気付いて、「本の庵」がそういった問題を解決する場所だと気付いてもらう。そうしないと、私の価値観の押し付けになってしまうと思うのです。多少遠回りかも知れませんが、私から明確にコンセプトを示すのではなく、利用される方の「気付き」を待つしか「本の庵」のコンセプトに対する共感は得られない。けれど、こうしてコンセプトを理解してくださった方は、「本の庵」のコアな利用者になってくださると思うのです。その人が月に何回「本の庵」を利用してくださるかなんてことは大きな問題ではありません。もちろん経営的には大きな問題なのですが、そんなことよりも、ヴァリューアップ法で提示されるコンセプトの影に隠れた本当の創立意図をどれだけ深く理解してくださるのか、そこに「本の庵」の存在意義があると思うのです。



2024/12/29

尖れ

 会社が年末・年始の休みになり、家の掃除や近所の溝に溜まった落ち葉の掃除なんかをしつつ、しばらく出来ていな通信教育の課題に取り組んでいます。「カフェ講座」と銘打って、前半はコーヒーの種類や美味しい淹れ方について、後半は店のプロモーションや開業までの手続きについて学ぶコースで、夏休みに前半をクリアしたのですが、そのあとがなかなか時間が取れないまま数か月が過ぎてしまいました。

 こういう通信教育ですから当然なのですが、いかにすれば商業的に成功するかを知ることが最終的な獲得目標です。商業的な成功というのはゴールがありません。お店がそこそこ知れ渡り、毎日多くの来店客が来るようになったからといって、それがゴールではなく、そしたらアルバイトを雇ってもっと回転率を上げるとか、客単価を上げるためにメニューのグレードを上げるとか、その店舗だけで売り上げがそれ以上は伸びないことが分かったら2店舗目を出すとか、なにか終わりのないロールプレイングゲームのようです。このゲームには4種類のキャラクターがいるそうです。

  • 業界ナンバーワンの「リーダー」:差異化しようとする2位以下を取り込んで同質化しシェアを守る。
  • ナンバー2グループの「チャレンジャー」:リーダーの同質化圧力に抗って差別化を図り、市場シェアを獲得する。
  • これに追随する「フォロアー」:模倣によって利潤を獲得しようとする。
  • 専門性の高い隙間を狙う「ニッチャー」:特定の分野に集中して、その分野での名声と利潤を獲得しようとする。

 キーになる考え方は「差別化」。トップブランドと何が違うのか、何がすぐれているのかを打ち出して、それが消費者に受け入れられる水準まで進めていくことが大切なんだそうです。それは、コーヒーという商品の味や提供の仕方だけではなく、消費者の共感や納得感から消費行動を生起させる広告の出し方といったところも大切だというのです。

 このキャラクターでいうと、「本の庵」は差し詰め「ニッチャー」ということになるでしょう。尖った戦略で徹底的に差別化していかないとフォロアーに紛れてしまい、競争に巻き込まれてしまいます。トップブランドと何が違うのか。そこをしっかり出していかなければいけません。カフェの世界でいうトップブランドとは、例えばスターバックスのようなところでしょうか。私も時々利用しますが、最近は「ご利用は2時間までにしてください」などという注意書きがあったりして、あまり長居することは歓迎しないという意思をはっきりと出しておられます。私はたいていひとりで利用しますが、周りを見ていると、何人かでやってきて楽しくお喋りをしている人もたくさんいます。こういうところは「本の庵」と決定的に違うと思うのです。「本の庵」はお喋りお断り。ひとりで来てください。シートチャージはいただきますが、コーヒー1杯で何時間いていただいても結構です。というコンセプトです。徹底してひとりになる場所なんです。

 ひとりになる場所と言えば、ネットカフェやパチンコ屋もそういう場所かもしれません、という話を以前の記事でしましたが、「本の庵」には本があります。私が読んだ本ですから、そんな難しい本ではありませんが、パチンコをしているときよりは、これらの本を読むときの方が知的なイメージがあります。この知的なイメージをどれだけ伝えられるか。そこが広告の出し方などプロモーションの差別化ということになるのだと思います。例えばホームーページで本の紹介をする。そんなウィットに富んだ気の利く文書が書けるわけでもありませんが、そんなところから知的なイメージを醸し出すのも必要かもしれません。

 戦略の要は、とにかく「尖る」ことだと思うのです。通信教育をやりながらこんなことを言うのは変ですが、そこに書かれている「成功の秘訣」みたいなものをなぞって、みんなと同じようなカフェを作ったのでは、競争に埋もれてしまいます。そもそもカフェをやりたいのではなく、私設図書館をやりたいのであって、そこにより来訪しやすくする仕組みとしてカフェの機能を併せ持った私設図書館にしよう、というのが出発点です。そんなことを考えている人は、日本中を探してもそれほど多くはいません。それだけで十分に尖っているじゃないですか。その尖っているところを出す。それがこの通信教育の課題の答えかも知れません。



2024/12/05

競合調査

 商工会議所のセミナーで入手した「創業計画書」の書式を使って、自分がやろうとしていることを客観的に分析しています。今日は「競合調査」について。

 商店街の中に作るわけではないので、競合調査など必要ではないようにも思えるのですが、通りすがりに寄るところではなく、わざわざ遠くからここに関心を持って来てもらうというコンセプトなので、電車で1時間ぐらいの範囲によく似た施設があれば、それは全部「競合施設」ということになります。ただ、競合施設と「客を奪い合う」という関係ではなく、競合施設があることによって、むしろ、こういう施設があるのだということに関心が向けられるのかも知れません。例えば、公共図書館が拡充され、従前のような貸出中心主義の運営から、滞在型への転換が図られることは、私が作ろうとしている私設図書館の役割が公共図書館で代替されることになるという意味ではマイナスです。しかし、本や図書館に対する関心が高まり理解が深まるという意味ではプラスにも作用します。近隣に大型書店が出店され、カフェが併設されるというようなことを考えたときも同じです。

 それでは、すぐ近くに私の Cafe & Library と同じような読書カフェが開店したらどうでしょう。ここと同じように、館長が選書した数百冊から千数百冊の本があって、静かに本が読めて、自分だけが知っている隠れ家的な魅力があって、知的なイメージがある。資本力も経験も知名度もないけれど、館長の思想がそこはかとなく現れていて、そこに惹かれて人が集まってくるようなところ。これもプラスとマイナスの両方があると思いますが、直感的には圧倒的にプラスの方が大きいように思います。雰囲気は似ていても、並べられている本は同じではありません。そこには館長の思想が色濃く反映していますから、隣のコーヒーがちょっと安いからとか、サンドウィッチがちょっと美味しいからといって、お客さんを奪われるとは思いにくい。むしろ、それぞれが相手を自分のところの「分館」みたいに思っていれば、本の選択肢も増えることになりますし、相乗効果でそこに来る人が増えていくのではないかと思うのです。

 読書カフェではなく普通のカフェだったら。これはもう有難い話で、こちらはお喋りが出来ないところなので、カップルやグループで来られた場合は、すぐそちらの店を案内することができます。それだけ、このお店の「純度」を高めることができ、それがお店の魅力になっていくと思うのです。

 では、スターバックスのような大手のカフェが近くにできたらどうなるでしょう。公開されている情報から推測すると、1店舗当たりの年商は1億2千万円ほど、1日500人の来店者がいて、客単価は650円ぐらい。資本力と知名度があり、誰もが使っているという安心感とハイソサエティなイメージを持っているこうしたチェーン店が来ると、個人で細々とやっているところはひとたまりもありません。

 あるいは、快活クラブのようなネットカフェがやってきたら。こちらも資金は潤沢で知名度もあります。ひとりになれる場所、という意味では Cafe & Library と共通するところもあります。ただ知的なイメージはあまりないかもしれません。ひとりになれる場所、という意味では、パチンコ屋さんも競合施設かも知れません。あまりやったことがないのでイメージでしかありませんが、パチンコをやっているときって、あの喧騒の中で自分の殻に閉じこもり、周りとのコミュニケーションを断っている状態じゃないかと思うのです。読書カフェとは対極的な場所なのですが、あるいは共通点もあるのかも知れません。

 資金力のあるところは、店の規模も大きいですし、作りもしっかりしているうえに、価格も安めに設定できます。しかし、そこには「こんな店を作りたい」という思いが見えない。そこが、私のような個人でもこんな大資本に伍していける分野ではないかと思うのです。他のところにはない尖ったところをどれだけ出せるかがポイントなのかもしれません。他のお店よりも美味しいコーヒーを出すとか、他のお店よりもお洒落な雰囲気を作るとか、そんなふうに他のお店と比べてどうかという基準でしか語れないのなら、こんなことをやる意味はないのかも知れません。他の誰もがやっていないことをする。そこをどれだけアピールできるのか。

 「創業計画書」から大きな課題が見えてきました。

本質的な提供価値

 今日は、商工会議所のセミナーで配られたタイトな「創業計画書」書式を埋めていく中で考えたことを、つれづれに書いていきます。

 まず、この Cafe & Library の本質的な提供価値と、ほかにない新しさについてです。

 本質的な提供価値を書く欄には「何屋?」という注釈があります。何を問われているのかを考えるにあたって、マクドナルドを例に考えてみます。マクドナルドが提供している価値の本質は何でしょう。美味しいハンバーガーでしょうか。たぶんそうではないと思うのです。マクドナルドがターゲットとしているのは、おそらく小さな子供でしょう。ハンバーガーに付いてくるちょっとした玩具を目当てに来る子供もたぶんいると思います。そう考えると、マクドナルドが提供している本質的な価値は、子供を喜ばすこと。子供にとって楽しい空間を作り、子供が喜ぶような飲食物を提供する。ここが本質だと思うのです。

 そうだとすると、私がやろうとしている Cafe & Library は何なのか。「図書館」なのか「カフェ」なのか。美味しいコーヒーを提供するのが本質なのか、珍しい本を読めることが本質なのか。どちらも違うと思うのです。

 この Cafe & Library の新奇性は、「意図的にコミュニケーションを避けることによって、現代社会が求める過度なコミュニケーションからの解放を目指しているところ」だと思うのです。現代社会では、なかなかひとりにはなれません。ひとりになったつもりでも、情報が一方的に次々と自分に向かって流れ込んできます。良質なコミュニケーションや良質な情報は、人間が人間として生きていくうえでどうしても必要なものですが、過度なコミュニケーションや情報は、ときに息苦しさ・生き辛さの原因となってしまいます。そこから解放される場所、というのがこの Cafe & Library の本質だと思うのです。会社帰りのサラリーマン、休日のOL、過度なコミュニケーションに疲れた学生が、ひとりでいられる時間と空間を求めてやってくる。「今日は会社で嫌なことがあった」という日にここに立ち寄って、少しでも自分を取りもどしてから帰宅する。それが、ここで提供しようとしている価値の本質のように思うのです。

 そうだとすると、これまで考えていたよりも少し遅い時間まで営業した方がいいのかもしれません。お酒を出すと静かな環境が維持できませんので、お酒は出しません。ただ、その時間にカフェインを摂ることに抵抗を感じる人もいるかもしれません。ハーブティの勉強をして、そういうメニューを追加した方がいいのかもしれない、などということを考えたりします。

 お酒を飲んで愚痴を聞いてほしい方は、同僚を誘って居酒屋に行けばいい。会社とは無関係な趣味のコミュニティに逃げ込める人は、それもいいと思います。でも、そういったコミュニケーションが重荷になっている人も少なくはないでしょう。そして、その中でも、自分自身の閉塞感を現代社会の矛盾と結び付けて克服していこうという知的な指向を持った人たちであれば、きっとこの Cafe & Library の本質的な価値を分かっていただけるのではないかと思うのです。

 では、その価値をどのように伝えていくのか。過度なコミュニケーションや情報を負担に感じている人たちに、あるいは、そこから逃れることによって自分を取りもどしていきたいと思っている人に、この Cafe & Library が提供しようとしている本質的な価値を伝えていくにはどうすればいいか。言葉にして書いてしまえば、ホームページを軸にして、SNSなども活用した広報戦略を考えるということなのですが、そこで、私自身が「触媒」の役割を十分に果たしていかないと、伝わるものも伝わらないのではないかと思うのです。

 「創業計画書」の話は明日も続けます。


2024/12/04

創業セミナー

 会社を1時間ほど早めに早退して、商工会議所の創業セミナーを受講することにしました。1回きりの無料セミナーなので、そんなに気負うことはないのですが、結構たくさんの受講者がおられました。飲食店ばかりではなく、それぞれいろいろな思いを持って事業を始めたいと思っておられるようです。

 このセミナーは受講してよかったと思います。学生向けの就職セミナーのようなものです。学生の中にもいろんな人がいますが、多くの学生は、いまの大学に入学するために何か特別なことをしているわけではありません。教えられた勉強をやって、入学試験を受けて、合格したら所定の手続きをする。そのプロセスで「何からやったらいいかわからない」というような場面はあまりないように思います。みんなと同じように、ただ、他のみんなよりは真剣により多くの努力をしていれば道が拓ける。そういう道を歩んできた学生が、これから就職活動をしましょう、というときに初めて「何からすればいいのか分からない」という場面に直面します。いまから思えば、大学でガイダンスもあるし、就職部の職員がいろいろサポートしてくれて、いまなら就活サイトに登録して、そしたらいろんな情報が入ってきて、周りの人と同じようにやっていれば、大きく道を外れることはないと分かっているのですが、当事者にとっては初めてのことで分からないことだらけ。それはいまの私も同じことです。あとから思えば何でもないことと思うかもしれませんが、本当に「何からやったらいいのか分からない」という状態なのです。そういう中で、こうして創業までの道筋を指し示してくれるセミナーのなんと有難いことか。

 セミナーでは、心構えから具体的な資金計画の立て方まで、2時間半にわたってお話を聞くのですが、創業までにやるべきことを列挙した To Do リストのようなものも配られて、これがまた参考になりました。その中に「商品とサービスのウリを言語化する(なぜ、お客様があなたを選ぶのか)」というチェック項目があるのですが、これはまさに、ウェブ相談で「そのカフェの何がいいんですか」と言われたことそのまま。

 そのほか、全11ページにもなる「創業計画書」の書式も提示されたのですが、これはまるで就職活動のときに書くエントリーシートのようなもの。屋号や業種などの創業概要、創業者のプロフィール、具体的な事業内容、市場調査、競合調査、販売計画、人員計画、資金計画、収支計画を、かなり細かく書く書式になっています。これまでこのブログにいろいろ書いていくうちに、かなり煮詰まっているように思っていたのですが、いざこうして書こうとすると、簡単には書けない項目がいくつもあります。例えば、創業概要のうちの「創業の目的」「将来の目標」「創業の動機(諦めない理由)」などは、他人が読んで納得するかどうかは別として、自分としてはきちんと書けていると思うのです。しかし、創業者のプロフィールを書くところでは、「過去の事業経験」「事業に必要な技術・ノウハウ・スキル」などが問われます。事業内容を書く際は、その事業の本質的な価値は何かや、他にない新しさは何かといった項目が設けられています。市場調査を書くところには、例えば少子高齢化の深刻化といった社会の変化がこの事業にどんな影響を与えるのかを説明することが求められていて、競合調査の欄では、具体的な競合店や競合する業種と比べて、商品・サービスの特徴、価格、品質、コスト、納期・スピード、資金力などの強みと弱みを分析するようになっていて、販売計画、資金計画、収支計画も、かなり具体的に書くことを求められています。

 この事業計画書を書くことによって、自分になりが足りないのかが具体的に分かってきます。明日以降の記事で、事業計画書を書きながら考えたことを、つれづれに書いていこうと思います。


2024/12/03

そのカフェの何がいいんですか

 Cafe & Library 構想を実現するために、何か公的な支援プログラムがないか。そんな情報を求めて商工会議所のウェブ相談を申し込みました。ネットの向こうにおられるご担当者は40歳前後と思しき男性。まずはどういうことをやりたいのかを説明する。あらかじめどんな説明をしようかと、頭の中で考えていたとおりに話す。学生の就職活動もこんな感じなのかもしれません。

 儲けることに固執したくない。だから月々の固定費を抑えたい。だけど自己資金が潤沢なわけではない。「おひとりさま」相手に長居をしてもらう店なので、駐車場を用意するのは間尺に合わない。だから駅近がいい。だけど、通りすがりの人に入ってもらうというよりも、何かでこの店のことを知ってわざわざ遠くから来るような人をターゲットにしたいから、駅前の商店街というより住宅地の中のようなところがいい。どうやってそんな物件を探せばいいですか。

 まず「空き家バンク」のような公的な支援を受けられるかについては、知る限りでは「ない」とのこと。会員の中から不動産屋さんを紹介してもらえないかとお願いすると、「こうやって探したらいいんですよ」と探し方をご教示いただく。言われた通りに探すと、自宅の近くで個人でされている小さな不動産屋さんが見つかる。この不動産屋さんにはこのあとものすごくお世話になるのですが、あるいはそれを見つけさせることを意図されていたのではないかと思うぐらい、絶妙な相性の不動産屋さんでした。

 相談全体を通じて、ご担当の方はとても親身になって相談に応じてくださいましたが、脇の甘いところは容赦なく攻めてこられました。「その構想いいじゃないですか」なんてことは一言も仰いません。
忖度なし
タイトルにあるような「そのカフェの何がいいんですか」などという厳しい質問もされたりします。つまり「お客さん」は何が良くてその店に行くのか。それが説明できなければ自己満足にしかなりません。いろいろ説明してみるのですが、果たして分かってもらえたのかどうか。

 儲けることに固執しない、という考えに対しても批判的な様子。それはお立場上そうかもしれません。商工会議所の会員さんは趣味でお店をされているのではなく、どなたも生活と人生を賭けて取り組んでおられる。そこに新参者が「儲けなくてもいい」などと寝言のようなことをいって参入してくるのは、その人たちに失礼といえば失礼なことかもしれません。「何とか1日1万円」などという小さな目標じゃなくて、これで家賃も生活費も稼いでいくぐらいの覚悟があるのかを問うってこられます。

 不動産屋さんのことについても、大手のところでは相手にしてもらえないかカモにされるだけ、などと手厳しいのですが、それでも、結果的には自宅近くで個人でされている方とご縁を繋いでくださいました。

 厳しい指摘を受けて、自分の考えの甘いところも明らかになったのですが、最後には、商工会議所が主催される「創業セミナー」のご案内をいただきました。少し軌道修正しないといけないのかなとか、そんなことも思いつつ、それでも変えてはいけない根幹の部分は何なのかとか、そもそも自分がやりたいことは何なのかとか、そんなことをより真剣に考えるきっかけになったとウェブ相談でした。

 あしたは創業セミナーのお話しです。


2024/12/02

商工会議所に相談する

 しばらく更新が出来ていなかったのですが、その間に Cafe & Library 構想がずいぶん具体化してきました。具体化したからこそあまり詳しく書けなかったのですが、開館までのプロセスを記録するつもりで、ここまでの経緯をまとめておこうと思います。同じようなことをしようとしておられる方は、何か参考になるかもしれないと思って読まれるかもしれませんが、真似なさらないことをお勧めします。金銭的に成功する話ではありませんので。

 Cafe & Library 構想を具体化するにあたって、これまでは「店」のコンセプトをあれやこれやと考えてきました。これからカフェを開業する人向けの実用書などを読めば、どの本にも「創業動機」をしっかり文書化することが大切だと書いてあります。けれど、コンセプトがしっかりしているからといって開業できるわけではありません。少々飛躍した言い方ですが、創業動機なんて何もなくても、場所があっておカネさえあれば開業は出来ます。ただ、それでは続かないのですが。

 これまで、コンセプトについてはいろいろ考えて、自分なりに深めてきました。だから、構想を実現すれば、そこそこ続けられるかもしれません。けれど、最初に実現するためには場所とおカネが必要です。おカネはけっして潤沢にはありませんが、そこそこに退職金は入ってきます。ただ、妻のために老後資金は残しておかないといけませんので、初期投資はそこそこに抑えたい。どこか物件を借りれば初期費用は抑えられますが、月々の支払いが追いかけてきますから、ある程度の売り上げを上げないといけない。けれど、カフェを作りたいのではなくて、作りたいのは私設図書館。カフェはおまけなので、あまり儲かるとは思えません。

 それで目を付けたのは、最近、社会問題になっている「空き家」。少子化が進み、身寄りのない独居老人が増え、そういう方が亡くなった後の家を相続する方もなく、放置されてしまうことが問題になっています。そういうのを安価で手に入れてリノベーションし、そこで Cafe & Library をやろう。「負動産」とまで言われて処分に困っている物件を購入して、そこを、現代社会で息苦しさや生き辛さを感じている人が自分を取りもどせるような場所にしていく。
なんて価値のあることだろう
社会問題をふたつも同時に解決していける素晴らしいアイデア。こんな社会的にも価値のある素晴らしいことをしようとしているのだから、何か公的な支援があるのではないか。そう思っていろいろ調べてみるのですが、世の中そんなには甘くありません。けっしてタダで物件を手に入れようとか、何かの補助金をもらおうとかいう訳ではありません。例えば、そういう物件の情報が公的にまとめられているとか、そういうことならあってもいいような気がするのです。調べてみると、確かに、移住してくる人に空き家を紹介する「空き家バンク」というような取り組みがあるようなのですが、それはあくまでも「移住者」向け。紛いなりにも商売をやるという人を支援してくれるような取り組みではありません。商売ではなくて図書館なんだ、といったところで、そんなことを支援するなどというような取り組みなんて、役所の誰も思いつくはずもありませんから、もちろんありません。

 そこで思い立ったのが商工会議所で情報を収集すること。知り合いに会員がいるので訊いてみると、親切に対応してくれますよとのこと。オンラインで相談もできるみたいなので申し込んでみました。

 さて、結果は如何に。


2024/09/12

再び此岸と彼岸について

 奈良県東吉野村で私設図書館を運営されている青木真兵さんの著書『手づくりのアジール:「土着の知」が生まれるところ』(青木真兵著. 晶文社, 2021)から(以前の記事から再掲)。

ぼくが「彼岸」という言葉を使っているのは、すべてが数値化の結果を受けて序列化され、それに基づいて価値付けが行われてしまうような現代社会を「此岸」としたときに、そうではない世界としての「彼岸」が必要なのではないかという思いがあったからです。(p.3)

そして、島根県隠岐郡海士町の図書館で拝聴した青木さんの講演では、おカネを得るためにしている仕事と、自分が自分らしくあるための活動のそれぞれを「此岸」と「彼岸」に例えながら、それを行ったり来たりすることを提唱されていました(これも以前の記事で紹介しています)。この「此岸」と「彼岸」という考え方を取り入れることで、「主体性」とか「主体的」という悩ましい問題に、解決の糸口を見いだすことが出来るのではないかと思っています。

 最近の記事で、会社という組織あるいは社会全体に蔓延している似非「主体性」が、良識のある人を苦しめているのではないかということを述べました。役職には就いていなくても、身分と待遇が保証された正社員ならば、立場上は非正規で働く人よりも強い立場にいます。非正規雇用の人たちと同様に立場の弱い業務の委託先や取引先からすれば、正社員は「お客様」ですので、いつも大切にされます。周囲にそういった立場の弱い人がいれば、上司からの指示に含まれている矛盾を、その人たちに転嫁する場合も少なくありません。傍で見ていると、そういう社員は、自分が責任を転嫁していることに気が付いていないのです。しかし、それは責任転嫁だと気づいている人にとっては、自分の良識がそんな責任転嫁を許さないのです。そうやって逡巡していると、上司は平気で「そんなの派遣さんにやってもらったらええんや」などといいます。

 会社というところに勤めていて、そういうことにはほとほと疲れました。定年を迎えたら、もうこんなことで悩みたくない。こんな会社はさっさと辞めて、言われたことを言われた通りにすればいい仕事を黙々とやって僅かなお給料をもらって生活の糧を得る。夢も何もない世界ですが、それこそが私にとっては「此岸」なのです。そこに「やり甲斐」などというものは求めない。自分の労働力を売って、あるいは自分の時間を売って対価を得る。労働力や人格、「やる気」さえも商品として流通する「現代社会」の中でも、売るのは労働力だけ。けっして人格は売らない。そこに「やる気」だとか「やり甲斐」だとかを持ち込まない。ある意味で「此岸」の中にあるユートピアのような世界だと言えます。

 これに対する「彼岸」が Cafe & Library だと思うのです。そこはすべてを「主体的」に考えていかなければいけない世界なのです。似非「主体性」とは違って、答えは自分の中にしかない。その答えを求めて悩み苦しむのだけれど、そこには生きる価値だとか意味だとかがあって、自分が悩み苦しむ必然性があって、そしてそうやって悩み苦しんだことが何かの形で報われるかもしれないという希望がある。そういう「彼岸」の世界があるならば、「此岸」もまた希望のある世界かもしれません。

 カフェの収入で生計を立てるのはどれだけたいへんかは、カフェオーナーの育成を謳う通信教育でもよく分かりました。ひとりで運営する店で1日1万円を売り上げるところまで店を育てていくのに何年かかることか。そして、そこまで育てることが出来ずに廃業する店がどれだけ多いことか。それに、私が本当にやりたいのはカフェではなくて私設図書館なのですから、そもそも儲かるはずがありません。Cafe & Library を週3日開けて、1日はお休みにし、残りの3日間はアルバイトのような仕事に出て、黙々と言われたことだけをやっておカネを稼ぐ。いまや最低賃金でも8時間働けば1万円近い収入になります。けれどその仕事に身を捧げることはしない。本業は私設図書館の館長。副業はカフェのオーナー。アルバイトはカネを稼ぐだけのためにやっている。けれど、収入の大半はアルバイト。カフェも少し収入になるけれど、私設図書館はおカネが出ていくばかり。でもいいじゃないですか。それがやりたいことなんですから。まるで、役者を目指して専門学校に通うためのおカネを稼ぐために、アルバイトに精を出す若者みたいなものです。

 そう思うと、少し気が楽になってきました。いろんな意味で。



2024/09/11

主体的に行動するために

 きのうの記事では、世間でよく言われる「主体性」とか「主体的」ということが、実は「まやかし」ではないのかということを述べましたが、本当の意味での「主体性」とか「主体的」というのは、人間らしく生きていくうえでとても大切なことだと思うのです。いま私が Cafe & Library 構想を実現しようとしていることは、まさに主体的な行動です。誰かから強制されたり、何かに盲従しているわけではありません。衝動的というところは多少あるかもしれませんが、それでも、いままでの人生の中で、いちばん自分の主体性が試されているように思うのです。いまや人生の最終コーナーを駆け抜けようとしているこの段階で、これまでの人生の全体が試されているようなものです。

 人生の前半期には、就職活動という大きな転機がありました。ここでもきっと「主体性」が問われたのだと思いますが、私自身は、就職活動誌の情報に踊らされて、大きな流れの中で就職を決めました。いまの学生さんなら、終活アプリが就職活動を支援してくれますし、恋愛や結婚でさえも、何か決められたレールの上を流されていくように答えが用意されているのかも知れません。「最近の若者は」と言いたいわけではありません。私自身も、大きな流れに盲従して、どこかに用意された答えに安住して生きてきました。人生の最終コーナーも、そうやってレールに乗っかって曲がり切ろうと思ったのです。最初に乗っかろうとしたのは転職サイト、次はカフェ学校でした。でも、どちらも乗り切れない。枠組みそのものに何か違和感がある。それで今日に至る、なのです。

 いま Cafe & Library のことを考えている時間は楽しい。その時間だけは、日ごろの仕事への不満を忘れることが出来ます。それは、その時間が「主体的」に何かに打ち込んでいる時間だからだと思うのです。しかし、本当に主体性を持って主体的に行動するには、自分が意思を持ち判断を下せるだけの知識や能力も必要です。そうした知識や能力に裏打ちされた信念を持って、周囲の人たちを動かし、その理解も得ていかなければいけません。どうすればその Cafe & Library 構想を実現させれるのか。先が見通せないのは不安ですし、苦しく思うときもあります。何をいまさらと思われるかもしれませんが、そういう悩みに年齢は関係ないと思うのです。

 

 


2024/09/10

強いられた主体性

 私たちは、子供の頃から「主体的」に生きることを強いられてきました。小学校の学芸会でクラスの出し物を決めるときもそうでしたし、クラブ活動もそうでした。きのうの記事では、立場の強い人が立場の弱い人の仕事を理解しないまま、仕事の指示を出したり、日々の仕事で生じる問題を解決していく責任を立場の弱い人に転嫁しているという話をしましたが、立場の弱い人からその矛盾を突かれたときの常套手段に用いられるのは、「あなたはどうしたいの」とか「じゃ、どうしてほしいの」というような主客逆転の台詞です。弱い立場で、言われたことを言われるままにしていたところに、いきなり「主体性」が持ち込まれるのです。こういうときは高度なコミュニケーション能力が試されます。言葉通りであれば、自分の意見が求められていて、その意見が取り入れられる余地があるように思えます。しかし、たいていの場合は答えは決まっていて、ただ、それを言っている人が答えを知らないだけなのです。答えを間違えると不興を買い、答えられなければ、それはそれで不興を買う。世の中に主体的にやっていいことなんて、ほとんどないのです。

 そもそも私たちが信奉する「主体的」とか「主体性」という言葉はどういう意味なのでしょうか。ほとんどの大学の図書館には JapanKnowledge という事典や辞書のデータベースがあるので、それで調べてみました。「主体的」とは、「他に強制されたり、盲従したり、また、衝動的に行なったりしないで、自分の意志、判断に基づいて行動するさま。自主的。」※1、「主体性」とは、「(1)行動する際、自分の意志や判断に基づいていて自覚的であること。また、そういう態度や性格をいう。(2)現代哲学で、存在論的に意識と身体をもつ存在者であるとともに、倫理的、実践的に周囲の情況に働きかけていく個体的な行為者であること。自己の意志で行為しながら、真の自己自身を実現していく態度。実存であること。」※2とされています。

 もうお判りでしょう。「主体的」であることをや「主体性」を強いられるというのは、言葉の中に矛盾があるのです。「他に強制されたり、盲従したり、また、衝動的に行なったりしないで、自分の意志、判断に基づいて行動する」ことが「主体的」なのですから。

 そもそも「~性」だとか「~的」という言葉は、ときとして「~のような様」だとか「~のように見えるもの」という曖昧さを持っていて、話し手が都合よく使うことが多い言葉です。そこに、その言葉の話し手と受け手の間の立場の違いがあって、立場の強い側から弱い側に「主体性」を求めるときは、その立場の違いを覆い隠しながら、本来は立場の強い人間が負わなければならない責任を、立場の弱い人に転嫁する危険性をはらんでいます。自分がどうしていいか分からないことに対して、立場の弱い人に答えを求め、自分はその答えに対して諾否を決めるだけでいいという「お気楽」を決め込んでいたり、本来は自分が提示しなければならない解決策を示すことができないゆえに、立場の弱い人に解決策の提示を求めていることが少なくないからです。

 スポーツ系のクラブ活動に例えると、生徒の自主性なんて屁とも思っていない厳しい監督がいたとして、その監督に言われた通りに練習をして、試合でも言われた通りにプレーしているのに、どうしてもライバル校に勝てないという問題に直面した生徒が、その問題をどうやって解決すればいいかを監督に訊くと「自分たちで工夫して練習しろ」と言われる。「自分たちで考えて練習しようとか、試合の中でも、ここで自分はどうするべきかを自分自身で考える主体性がないから勝てないんだ」などと、他人が見れば、どの口が言うかと思うような言葉が出てくる。でも、生徒たちは監督に言われた通りに行動するように仕向けられてきたので、監督が「主体的に考えろ」と言えば、「主体的に考える」ことを強いられる。

 スポーツの試合に勝つか負けるかという問題ならそんなことでもいいですが、例えば、限られたコストの中で、政府や業界団体が決めているさまざまな基準をクリアしなければいけない、といった問題に直面している人がいたとして、その責任を非正規雇用の社員や下請け企業に転嫁したらどうなるでしょう。その人たちにしてみれば、検査の仕方を工夫するしかないのですから、検査の不正といった問題に発展するのは必定です。自動車が衝突などの事故に対して所定の耐性を持っていないとか、建物が地震で簡単に崩れたり火災で簡単に燃えたりするとか、そういうものが社会的に供用されることにつながります。大学の仕事でも、学生の人権や補助金の扱いに関するような不祥事が発生しないとも限らない。そしてそういう問題が発生したとき、立場の強い人はいつも「私は指示していない」と言い逃れをし、責任は立場の弱い人に転嫁されるのです。

 これも「カネ」の論理が行きついた先に生じた矛盾だと思うのです。そして、その矛盾を他に転嫁できる立場の人と、自分で背負い込まなければならない人がいる。そのことを思えば、立場的には他に転嫁することが出来ても、良識がそれをさせない人もいる。いま。会社でいちばん苦しんでいるのは、そんな人かもしれません。


※1("しゅたい‐てき【主体的】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com ,参照 2024-09-05)
※2("しゅたい‐せい【主体性】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, ttps://japanknowledge.com ,参照 2024-09-05)



2024/09/09

お気楽社員

 「サラリーマンは気楽な稼業」といってクレイジー・キャッツをすぐに連想するのは、私よりもひと世代、年配の方でしょう。1962年公開の映画『サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ』のテーマ曲なんですね。私が生まれる前です。当時のサラリーマンがみんなお気楽だったとは思えません。むしろ今よりも「モーレツ社員」が当たり前だったんじゃないかと思いますが、一方で、上司の顔色や自分の出世のことに無頓着な「お気楽社員」を抱えるぐらいの余裕が、会社という組織にも社会全体にもあったのかも知れません。コンピューターが普及して機械化も進んだ現代なら、その頃よりももっと気楽に仕事ができるはずなのに、どうもそういう余裕がなくなったような気がするのは、私の思い過ごしでしょうか。

 さて、定年が近づいてきて、定年後の身の振りを考えている私にとって、確かにサラリーマンは気楽だったなあと思うことがあります。サラリーマンは、基本的に、何をすればいいのかが決まっているのです。「決まっているはず」と言った方がいいのかも知れませんが、とにかく言われたことをやっていればいいというのは、確かに気が楽です。自分で何か事業を始めようと思えば、どんな些細な事業であっても、自分で決めなければならないことばかりですし、事業を始めた後も、きっといろいろ決めなければならないことの連続なんだと思います。それに比べれば、サラリーマンは確かに気楽な稼業かも知れません。

 でも、どうもそれも最近、雲行きが変わってきたように思うのです。人事異動だとか係替えなどで新しい仕事をしなければならなくなったときに、引継資料を見てもさっぱり仕事の内容が理解できない。上司に訊いても、上司が仕事の内容を把握していない。私が就職した頃に比べても、そういうことが深刻さを増しているように思うのです。それに、以前は、そんなのは私が勤めている会社だけだと思っていたのですが、どうもいろんなところで大なり小なりそうした傾向があるようなのです。事例を挙げるのは「経営学者」と呼ばれるような人に任せますが、いろいろな企業不祥事やトラブルを見ていると、どうもそんな気がするのです。

 これも「きっと」という話なのですが、その背景には、きっと非正規雇用の拡大があるように思うのです。私の世代までは、自分が新入社員だった時には、契約職員だとか派遣職員だとか業務委託だとか、そういうものはごく例外的なもので、就職して最初のうちは、とにかく新人でも出来るような単純作業だとか、毎日あるいは毎月発生するような定型処理だとか、そういう仕事から教えられたものです。ところが、いまはそういう仕事は非正規雇用の人や業務委託先の人がやってくれますので、自分が知らなくても仕事が回っていきます。それでも最初のうちは、非正規雇用の人が交代するときは、正社員から新しい非正規雇用の人に仕事の説明をしていたので、正社員はある程度、仕事を知っていることが前提でした。それが、正社員の方も世代が交代すると、そういう説明もできなくなって、非正規雇用の人同士の引継ぎに頼ってしまうようになり、それも短期間で人が代わるものだから、引き継ぐ内容がどんどん薄くなって、誰も仕事のことが分からなくなっているのではないかと思われるのです。業務委託も、最初はきちんとした業務仕様書があったのだけれど、新しい制度の運用が始まったり、執務場所や体制の変更などがあったときに、仕事の分からない正社員には業務仕様書の改訂が出来ず、「とりあえず」みたいな指示が慣例化して、仕事がどんどんブラックボックスになっていく。正社員にとっても、そういうところに身ひとつで放り込まれるような人事異動や係替えが増えているのではないかと思えるのです。そういうことが、きっと日本中で起きている。それも名前の知れた有力企業の方が、組織が大きく、非正規雇用の方や業務委託先との関係で、正社員がより強い立場にあるだけに、より深刻な様相にあるのではないかと思うのです。

 年配の社員が仕事を把握しきれないということは昔からあったと思います。コンピューターが導入されて右往左往する上司の図というのは、昭和時代の会社でも見られてことだと思うのです。それが、その時代であれば、新しい仕事に適応していける若手社員と適応できない年配社員という「世代間」の問題として顕われたのですが、現代では、待遇と安定した雇用が保証された正社員と、ワーキングプアと言われる非正規社員の間の問題や、名前の知れた大手企業の社員とその下請けで業務を受託する会社の社員の間の問題という、一種の「階級間」の問題として顕われているのだと思うのです。

 もし日本中でこんな問題が起こっているとするならば、その問題を引き起こしている真の原因は「業務効率化」という「カネ」の論理です。生産性の低い「お気楽社員」を排除し、単純作業や定型作業を給与の安い非正規社員に任せる。それによる利益は「資本」が吸い上げていく一方で、そこで生じる矛盾は、立場の強い方から弱い方に押し付けられていく。非正規社員からすれば、正社員は自分に矛盾を押し付けてくる「支配者」に見えるでしょうし、一般の正社員からすると上司が支配者に見える。けれど本当の支配者は「カネ」であって、上司も役員も資本家も、その「カネ」が仮面を被っているに過ぎない。私たちが生きている社会というのはそういう構造で、それが私たちを日々苦しめているのだと思うのです。



2024/08/23

サラリーマンの知らない世界

 Cafe & Library 構想も、最初は月10万円の家賃を払ってテナントを借りるようなことを考えていました。しかし、少し考えただけで、それは自分が本当にやりたいことから外れていると思い、固定費が出来るだけかからないようにとか、初期投資の回収を考えないとか、商品経済の枠組みから離れる方向に考えが向かって、何なら Cafe & Library は週3日の営業で、残りの日はアルバイトをして生活費を稼ぐとか、午前中は別の仕事をして、昼から開館するとか、60歳からの自分の生活全体の中で Cafe & Library をどう位置づけるのか、というようなことを考えるようになりました。通信教育のテキストでは、オーナーがカフェ専業で経営を成り立たせるということが前提になっていますが、この辺りの事情は、私の場合、かなり特殊です。

 ところで、自分では図書館だと言っていても、表向きは飲食店の体ですので、いろいろな許認可や届け出が必要です。テキストの中で言及されているのは、保健所、消防署、人を雇うなら労基署、職安(雇わないので要りませんが)。夜にアルコールを提供するなら公安委員会(これも私には関係ありませんが)。そのほかに、税務署への開業届だとか、青色申告承認申請書だとかいうものが書かれていました。テキストには書かれていませんが、消費税の適格請求書発行事業者の登録申請手続なんていうのも、場合によっては必要です(私の場合は任意ですが)。

 初期投資を回収するつもりはないのですが、税法上は、初期投資の大部分が減価償却の対象となって、毎年の収益を圧迫します。つまり、そこそこの売上があったとしても、減価償却費で毎年の事業所得を赤字にしてくれます。それは、年金所得やアルバイトの給与所得から差っ引くことができて、所得税や県民税、市民税の額を小さくしてくれるだけでなく、健康保険料や介護保険料の負担額も減らしてくれます。もともと赤字なのですから、別にそれで何か得をしているわけではないのですが、収入は限られているのですから、払わなくていいものまで払う必要はありません。

 そして、どうもその恩恵に預かるには「青色申告」というのが必要で、そのためには複式簿記で帳簿を付ける必要があるようです。おっと、サラリーマンをやっているうちは青色申告なんて縁はなかったけれど、複式簿記なら少しは分かります。テレビでも、いろんな経理ソフトのCMを見ますが、1日の売上が5千円で年間150日しか営業しないような店なら EXCEL とかでは出来ないのかしら? 『EXCEL で出来る! 青色申告徹底ガイド』みたいな本が市井にあるのかしら? 税金を払うためにすることとはいえ、いままでやったことがないことをするのは、なんとなくワクワクもします。60歳になっても65歳になっても、サラリーマンしかやっていなければ知ることのない世界ですが、世の中の仕組みとしてはものすごく基本的でポピュラーな世界。そう思えば、ちょっと楽しんで出来そうに思います。


2024/08/22

売上予測

 カフェ開業のための通信教育を受講しているのですが、テキストに書かれている、売上予測の例は、かなり甘いように思えます。書かれている例のひとつが、女性オーナーが(テキストにわざわざ「女性」と書かれています)ひとりで運営するカフェの例。店舗面積8坪で席数10席は妥当なところ。そのうち8席を、午前10時から午後5時までの営業で3回転ほどさせて、1日の来店者数20~30人。客単価をどれぐらいに設定するかにもよりますが、1日の売り上げは2~3万円ぐらいでしょうか。別のページには、売上原価は売上の3割、家賃は売上の1割以内、なんてことも書かれていますから、女性オーナーがひとりで運営するカフェを経営として成り立たせるには、家賃が月5万円ぐらいの物件を探さないといけません。1日に20~30人の来店が見込める立地でその家賃はあり得ませんから、テキストに書かれている事例でもすでに経営が破綻している。それぐらいカフェの経営というのは難しいのでしょう。

 自分もこれに倣って売上予測をしてみます。

 当分の間は週3日の営業。残りの日はどこかに勤めて、とりあえず生活資金は確保します。1日の来店者数は5人。これでも、週に1回この店に来てくれる人が15人もいるという想定ですので、かなり強気の想定です。実際にはひとりもお客さんの来ない日もあるはず。そこを1日5人として、客単価を1千円とすると、1日の売上は5千円。最低賃金でアルバイトをすれば、この倍ぐらいのお給料がもらえますから、カフェの経営なんて割に合いません。1ヶ月の売上は6万円。食材の仕入れはその3割で2万円、物件は買切りなので家賃は払わないとしても、給水光熱費が2万円ぐらい。それに図書館なので本の仕入れが1万円ぐらい。事務用品や台所洗剤も必要ですから、利益はほとんど出ません。添削レポートに書いて提出したら、「もっと集客を考えましょう」とか「客単価を上げる工夫をしましょう」とか「図書の仕入れなど収益に結び解かない費用は最小限にしましょう」とか、いろいろ赤字で書かれるんでしょう。でも嘘は書けません。

 ただ、こんなカフェでも続けていれば来店していただける方も増えていきます。開業5年目からは晴れて年金ももらえますので、アルバイトもしなくてよくなり、週5日の営業ができるとなると、月20万円ぐらいの売り上げを見込んでもいいかもしれません。これでやっと、テキストに書かれている「女性オーナー」のお店の10日分の売上ですね。これでも、家賃を払わなくていいとか、初期投資資金を回収しなくていいとか、そういう条件なら運営できます。

 もともとカフェをやりたいのではなく、私設図書館を作りたくて始めた構想。もっと突き詰めれば、自分にとって居心地のいい場所をつくるということが前提にある訳ですから、これで生活していこうとか、商業的に成功しようとか、そういうことではありません。5年後に月20万円の売上なんて上等じゃないかとも思うのですが、そこを目指しているわけでもありません。とはいうものの、給水光熱費だとか固定資産税だとか、そういうものは、売上がゼロでも掛かってきます。自宅でやるわけではないので、私の交通費も必要です。せめてこれらをペイするための売上がないと、カフェとしても図書館としても続けることが出来ません。

 そう考えると、週3日の営業でも毎日5人の方に来ていただけるような立地だとか宣伝だとか、その5人の方に平均1千円を使っていただけるようなメニュー作りだとか、サービスの提供だとか、最低のラインがどの辺なのかを知らないといけません。そういう意味では、この通信教育も無駄ではないように思えます。


2024/08/21

開業計画書

 夏休みの課題だと思って取り組んでいる通信教育。コーヒーの種類や産地、淹れ方、ラテアートの作り方などの章が終わって、いよいよカフェを開業して経営していくというところの勉強です。

 最初に、「マーケティングの基礎知識」と称して、商学部の1年生の入門科目の授業のような章が設けられています。如何に競争に負けないか、如何に稼ぐか、儲けるか、という話なのですが、競争する気も稼ぐ気も儲ける気もない身としては、「ちょっと違うんだけどなぁ」という印象は拭えません。どこにもないような価値を作りたい、という思いは持っているのですが、それに「差別化戦略」という名前を付けた瞬間に、どこにでもあるようなものになってしまう。それも「こんなことを考えているのは自分だけじゃないんだ」と思うと励みにもなるのですが。

 ともあれ、「開業計画書」を作るという課題があるので、作ってみました。

 まず「開業のきっかけ、経緯、技術、事業の特徴などの要点」を書きましょう、ということなので、こんなふうに書きました。

個人宅を私設図書館として開放されている事例に倣い、より来訪しやすいように、カフェを開業してそこを私設図書館にしようとしている。飲食店に関する経験はないので、できるだけメニューを絞り、そこに特化して技術を習得する。グループやカップルでの利用ではなく、ひとりで利用することを想定し、本を読んだり、仕事や勉強がしやすい店内環境を維持したい。シートチャージを導入して、ひとり2~3時間の滞在を想定した店づくりをする。

 この段階で儲かりそうにはありませんね。私が添削する立場だったら、グループやカップルで利用できるような店づくりを勧めます。客単価が同じでも、グループ客ならひとり客の数倍の売り上げになるし、カップルでも2倍になります。座席は短時間で回転させる方が収益率が高いし、デザインはお洒落でも座り心地はあまり良くない椅子で、1時間も座っているとお尻が痛くなるぐらいがいい。そんなアドバイスをすると思うのです。でも、私にとっては収益よりもコンセプトが大切なので、ここは譲れません。

 テキストには「立地条件が重要な場合は、その立地を選んだ理由にも触れましょう」とも書かれています。立地条件は重要です。

ひとり客で長時間の滞在を想定しているため、駐車場を用意するとかなりの広さが必要になる。駐車場を用意しなくてもよい、駅からの徒歩圏であることが必要。特徴的な店舗運営のため、通りがかりに偶々入店する一見客ではなく、遠くからでもわざわざ来店してくれる方を歓迎したい。そのために、人通りの多い商店街ではなく、住宅地の中にポツンとあって、知る人ぞ知るような場所になることを目指したい。

 これも、このまま添削レポートに書いて提出すると、さんざん赤字で「お直し」が入りそうですね。稼げなくても、毎月赤字になることだけは避けたいのですが。

 あと大事なのは開業資金についての計画なのですが、実はここがいちばん悩ましいところ。ため込んだおカネにも退職金にも、妻という鍵が掛かっていて、この鍵を開けるのがたいへん。結婚当初から家計を妻に預けっぱなしにしていると、こういうことになってしまうのです。この鍵の開け方はテキストにも書かれていません。


2024/08/20

夏休みの課題

 すべての大学職員がそうではないかもしれないが、大学職員という職業の夏休みは、世間に申し訳がないほど長い。この休みを使って、カフェの開業に向けた勉強をしようと、通信教育に申し込みました。教材を送ってきて、添削課題を解き、最後に試験と称するものを受験すると、資格証が送られてくるというもの。いわゆる「資格ビジネス」というやつなのかもしれません。「商品」として考えたときには割高なサービスなのかもしれませんが、何から勉強したらいいのか分からないというときの「きっかけ」みたいに考えると、ちょうどいいかもしれません。

 実は他にも「美味しいコーヒーの淹れ方」みたいな本はいくつか買っているのですが、ゆっくり読みたいと思っていると、なかなか読み始められなくて、「積読」状態になっていました。それが、通信教育のテキストを読み進めながら、その事項に関係ありそうなところだけを拾い読みするような感じで、いちおうページを開いてみるきっかけにもなりました。例えば、コーヒー豆の種類や産地について、テキストに書かれていることをノートにまとめながら、別の本にはどう書かれているのかを調べてみる。エチオピアのコーヒーについて、テキストには「栽培方法が3種類ある」というようなことが書かれているのですが、別の本には、隣国イエメンのモカ港から出荷されるのが銘柄の名前の由来になっていることや、「上品な酸味」「華やかな芳香」というようなことが書かれている。別の本には「きれいな酸味」「芳醇な香り」などと書かれている、といった具合に、文章からだけでもより立体的なイメージが湧いてくる感じがします。電車の中で読んでいるだけでは、なかなかこうはいきません。

 煎り方や挽き方によって味が変わるのは知ってはいたのですが、煎っている間にどんな化学反応が起きているのかとか、それが味にどう影響するのかといったことは、本を読んで初めて知ったことでした。抽出する器具の違い、水の違い、お湯の温度、抽出する時間と味の関係、食器と味の関係、そういういろんなことが、テキストを読み進めることで、自分の中で言語化されていきます。それで実際に飲んでみると、自分の五感で感じる感覚と言葉がつながって、「美味しいコーヒーとは何か」というようなことが見えてきそうに思うのです。

 ただ、最後の「美味しい」という感覚を本当に言語化できるのかというと、そこはどうなのかと思うところもあります。ある人が美味しいと思ったものが、他の人にとっても美味しいのかというと、必ずしもそうとは言えません。ある時に美味しいと思ったものを、別のときに美味しいと感じるかと言えば、それもどうだかわかりません。酸味が強い、苦味が強いといった感覚は、なんとなく言語化できるのですが、「酸味と苦味のバランスが取れた、コクの深い味わい」と言われると、果たしてそこから特定の味わいをイメージすることが出来るのか。いや、これは簡単にイメージできないからこそ、飲んでみる価値があるのかも知れませんが。

 テキストは、エスプレッソコーヒーの淹れ方やラテアートなど、最近のカフェの傾向を捉えて、多くの人が関心を持って取り組めるような内容になっています。通信教育でなければ読み飛ばしてしまうのですが、資格を取得するためにはそういう知識も必要なので、そこも真面目に読んで、真面目にノートを作る。ただ、他の本と併読するようなところまでは熱心には取り組めてはいません。こういうことも、とことん取り組めば面白いと思うのですが、実際に店を構えてサービスを提供するとなると、自分一人でできる範囲を見極めないと、自分が苦しくなります。苦しんで営業しているカフェに来れば、来られる方も苦しい気持ちになってしまいますよね。そこは資格を取るための勉強と割り切って、そこそこに終わらせることにしました。

2024/07/14

断る勇気と信念

 京都のとあるカフェ。

 40歳前後と思しき男性が一人で営んでおられるカフェで、カウンターに5席ほど、奥には2人席が3つというこじんまりとした店です。自家焙煎をされていて、コーヒーには相当なこだわりがあり、通りの角を曲がった瞬間から、匂いに誘われるカブトムシのように吸い込まれるカフェなんです。

 そこには何度か行っているのですが、マスターと親しく言葉を交わしたことはありません。ただいつも、一杯のコーヒーにメッセージを込めるように入れてくださる。コーヒーを飲むだけで、マスターのお話が聞けたような気になる。それがマスターとのコミュニケーションだと思っているような店です。

 店内で勝手に写真を撮ることはご法度で、食べログにも載っていないので、店の名前は出しませんが、京都市内の、住宅地の中にあって、観光地だらけの京都市内ですから、歩いて行ける範囲に観光地と呼べるような場所のひとつやふたつはあるといったロケーション。

 その日は午前中に少し時間があったので、ひとりでその店に行きました。話は逸れますが、ここ数年、大判の手帳を日記帳にしていて、後ろ半分の日付の書かれていないページに、観た映画や読んだ本の感想を書くようにしているんです。ちょうど本を読み終わったところなので、席に掛けると早速、その作業を始めました。

 マスターはいつも、奥の席が空いていれば奥の席を勧められます。その日は、女性客が一人、やはり何かノートを出して書き物をされていましたが、そのうちにその方も帰って、店は私一人になりました。

 そこへ外国人観光客が3人、ドヤドヤっと入店してきたのです。いつも静かな店なのですが、ときどきこういう時もあります。2人席で向かい合ってペチャクチャおしゃべりしている声とか、別にいいんですけど、それがなんとなく気になるときもある。聞こえてくる話の内容が面白いというよりも、本人たちが無理をしていてなんとなくぎこちない雰囲気だったり、たぶん、こっちの人は早く帰りたいんだろうなぁ、なんて思いながら本を読んでいると、気の毒な気持ちが伝わって来て、本にも集中できなかったりします。そのときの3人も、別に外国人だからどうという訳ではなく、どこかその場の雰囲気にはそぐわない印象で、今日はもう仕方がないと諦めかけたところでした。

 2人席しかありませんので、その3人は、空いている席から椅子を持ってきて2人席を無理に3人席にして掛けようとしました。そのとき、マスターがやって来て、それはやめてくれ、2人と1人で分かれて座ってくれ、と英語で説明しました。3人は困惑した様子で、そのうち諦めて、マスターに何かいう訳でもなく、黙って店を出ていきました。

 おかげで静かに日記帳に向かうことが出来ました。

 帰りがけにマスターに礼を言うと、静かに本を読んだり仕事をされる方が多いですからね、とのこと。私に気を遣って、私のために静かな環境を守ってくださったのです。もちろん、いちどこの店に来た方なら、みなさん、この雰囲気を知って来られますから、私が帰った後に来られるお客さんも、いつもの静かな雰囲気を期待してこられるでしょうし、そこに、傍若無人とまではいわなくても、騒がしく談笑する客がいればがっかりする人もいるでしょうし、そのあとしばらく足が遠のくことだってあるでしょう。そう考えれば、断ることが店のサービスの商品価値を守ったとも言えますが、そんな損得勘定からの行動だとは思えないのです。

 目先のことだけを考えれば、3人が入店することで売り上げは上がるし、面倒くさくなれば「ま、いいか。今日ぐらい」みたいな気持ちになっても責められることではありません。それを、こうして、しっかり自分のやりたいこと、提供したい店のイメージを守られたということは、勇気のあることだと思いますし、信念がないとできないことだと思うのです。

2024/06/24

蔵書とアイデンティティ

 島根県隠岐郡海士町の海士町中央図書館で開催された青木真兵さんのトークイベントから、いろいろと書いてきましたが、いちおう今日が最終回です。

 島には2泊したのですが、最初の1泊は青木さんと同じ旅館でした。旅館のご主人はなかなかの男前。あまりお話しする機会がなかったのですが、見た目は海とTシャツ、アウトドアが似合う感じ。食堂が居酒屋にもなっていて、おいしそうな酒が並んでいたのですが、残念ながら営業時間がイベントの時間と重なったりして、ここで一献傾ける機会はありませんでした。居酒屋の中にステージがあって、ドラムセットが置いてあったり、玄関の手前にバーベキューができるようなところがあったり、なかなかこれもいい感じの宿でしたので、次はここを堪能したいものです。

 そうそう、図書館でしたね。

 3年前に来た時はあまり気づかなかったのですが、ここの蔵書、なんとなく「彼岸の図書館」と重なるところが多いように思いました。利用者のリクエストに応えていると、哲学だとか社会学だとか、それも青木さんの言説と重なるようなものが増えていくのかも知れません。海士町は人口の約1割が移住者。そして、図書館が移住者を惹きつける役割も果たしているのではないかと思うのです。移住されてきた方にとって、自分がなぜこの島に移住してきたのかというテーマはアイデンティティに関わる重大な関心事だと思うのです。たぶん、それぞれ一言ではいえないような思いがあって来られていて、その思いを代弁してくれるような本があって、そこがコミュニケーションの拠点になっている。そんな構造が蔵書にもよく表れているように思うのです。ここに来ると自己肯定感で満たされる図書館。そんな図書館、全国を探してもそんなにある訳じゃないですよね。

 でも。もともと島に住んでおられた方にとっては、そこはそんなに重要な問題ではないかもしれません。そんな単純ではないかもしれませんが、究極的には、自分で島に住むことを選択したのではなく、島で生まれ育ったから島に住んでいるだけ。移住してこられた方が移住してきた理由を言語化しようとするのとは対照的で、そういうことを面倒に思うこともあるかもしれません。

 青木さんのトークイベントの参加者は、移住されてこられた方が多いように見受けました。一方で、私が泊まった宿のご主人は、私がわざわざ島外からこのイベントに参加するために来たということが、どうも腑に落ちない様子。小さな町とはいっても2,000人も人がいる訳ですから(学校に例えるなら1学年10クラスを超えるマンモス校ですね)、いろんな人がいるのは当たり前です。そしてその暮らしの中には、東京と同じ基準で豊かな生活をしたいという、これも当たり前の思いがある。移住者の方ももともと島にいた方も、その両方の面を持っていて、その間を行ったり来たりできるといいのですが、現代社会で支配的な価値観と異なる目線で自分の周りを見ることは、そう簡単ではありません。私のような者が浮ついた気持ちでふわふわと移住したのでは、きっと相当厳しい感じになりそうな気もしました。

 トークイベントの翌日、館長さんが、島に最近出来たラグジュアリーホテルにある分館を案内してくださいました。海を一望できるラウンジのようなところに、1万冊ぐらい入りそうな書架があって、そこが図書館の分館になっている。別のフロアにも、それよりは小さいですが、書架がある。そして別の棟にも。もう一人、関西のとある大都市の図書館に勤めておられる方といっしょに拝見したのですが、

お二人ならどんな本を並べますか

なんてことを聞かれて、俄然、身を乗り出してあれこれ考えてみる。これは楽しいですね。全国の図書館のいったいどれだけで、こんな経験ができるでしょう。でも、そこは既に館長さんや司書さんが本を並べておられるので、自分としては、もしあの宿に分館を作るなら、なんてことを考えました。まずは「全国地酒図鑑」だとか「江戸前寿司職人物語」だとか(いずれも架空のタイトルです)、宿にある居酒屋で一献傾けたくなるような本。矢沢永吉の生き様をカッコよく書いた本やロックバンドのクイーンズの本。アウトドアの本。釣りに来るような人もいそうなので、釣りや魚の本。他には・・・

 いや、いかん、いかん。こういうのがふわふわした気持ちっていうんですよね。何も話したことがないのに見た目だけであれやこれやとお節介なことをされるのは、こんな人目につかないブログの中であったとしても迷惑なこと。やるならしっかり地に足を付けてやらないといけません。青木さんの「土着」にはそんな含意もあるのかもしれません。ご著書の中では、田舎の消防団での苦労なんかも語っておられますが、「土着」を実践するのは、そんな簡単なことではない。自分の住む町ですることも大変なのに、住み慣れない、しかも地域の濃密なコミュニティがあるところでするのはもっとたいへん。青木さんも海士町に移住した人たちもそれをしておられるのです。

 それは住み慣れた街でやるにしても同じ。逃げ出すにしても、人類のためにするにしても、こんなふわふわした気持ちではダメだ。しっかり地に足を付けなければ。

 でも、これだけは言えると思います。青木さんにとって、本が並べられている自宅はきっと居心地のいい場所だと思うのです。そして海士町図書館も、今回のイベントに参加された方にとっては、きっと居心地のいい場所なんだと思うのです。自分もそういう場所を作らないといけない。本気になって作らないといけない。それで、そこが居心地がいいと思う人がいれば、人がそこに集まって来るし、それが自己肯定感にもつながる。自信にもなる。テキトーに作ったのでは、自分も居心地は良くないし、人も集まってこない。居心地がいいというのは、楽ができるという意味ではなくて、本気になれるという意味かもしれません。

 海士町からは帰ってきましたが、歳甲斐もない「自分探しの旅」はまだまだ続きそうです。





2024/06/23

図書館を巡る

 図書館の蔵書をどのように評価するのかってとても難しい問題なのです。私が勤めていた図書館では、その年のうちに買った本が、その年のうちに貸出や閲覧に供されたかどうかで評価をしていました。一度それを徹底してやろうとしたときにはとても疎まれました。官僚的な組織の中では、そういうことはあまり好まれず、「上手く選書されています」という結論が先にあって、それをどう導き出すのかが大事なのです。

 今回の旅では、海士町中央図書館のほかに、隣の島にある西ノ島町コミュニティ図書館「いかあ屋」と、海士町へのフェリーが出る街にある境港市民図書館を拝見しました。海士町以外は、勝手にいろいろ見させてもらっただけなのですが、この3つがそれぞれ特徴があって面白い。

 まず、最近の図書館のトレンドも追いつつ、伝統的な図書館の蔵書評価でもたぶん高く評価されると思われるのは境港市民図書館。私の場合、図書館を見るときは、まずレファレンスブックを見るのですが、ここは本当にしっかりしていました。平凡社の『世界大百科事典』、小学館の『日本大百科全書(ニッポニカ)』『国史大事典』『角川日本地名大辞典』『大漢和辞典』、県史や市史、町史、村史など、あって当たり前と思っているものが本当にある。最近、市町村レベルの図書館では、なかなかこういうコレクションにお目に掛かれません。それと児童書の豊富さ。特に小学校の高学年ぐらいを対象にした本が豊富な印象。十進分類で配架されているのですが、たとえば「140」の書架には「こころ」などといった、小学生でもわかりやすいタグが付けられていて、これもなかなか好印象でした。あれ、と思ったのは一般図書の配架順で、例えば日本史ならば、普通は十進分類で古代→中世→近世→近代と並ぶべきところ、全部ひっくるめて著者順だか署名順だかに並べているところ。これはちょっと探しにくそうでした。新書はいくつかのレーベルを継続収集されているようで、相当な量があるのですが、分類配架されていないのは残念。配架場所もちょっと手に取りにくい高い場所で、なんとなく本が飾りになっているような感じ。これは他の図書館でもよくあることなのですが、新書は大学の先生のような専門家が一般の読者向けに書かれていることが多いので、入門書や教養書としてとてもいいと思うのです。レーベルごとにまとめるのではなく、主題別に分類配架すれば、同じ主題の本が1か所にまとまって、とても手に取りやすい。昔は各図書館で1冊づつ本の目録を作るときに分類をしていたのですが、いまはコンピュータにすぐ入力できるような本の目録情報を、本といっしょに購入するのが普通ですので、主題別分類はそんなに手間ではないはずなのですが。と、ちょっと意地悪な目で見てしまいましたが、学習室やミーティングができるような部屋もあって、施設も立派。まずまず申し分のない図書館でした。

 西ノ島町コミュニティ図書館「いかあ屋」もなかなか今風の図書館でした。ここも、ミーティングルームや学習室、海を見ながらゆっくりと本を読めるスペースなどがあり、「コミュニティ図書館」の名に恥じない施設でした。子育て世代と思われる女性が数名で、本やノートを拡げながらミーティングをしていたり、男性のお年寄りお二人が将棋に興じていたり、施設を作って終わりではなく、ちゃんと利用されているなぁとも思いました。入口を入ってすぐのところに低書架があって、西ノ島→隠岐→島→沖縄・瀬戸内 自然→生き物→漁業・畜産→町おこし みたいな連想で書架が作られていました。これはなかなか魅力的。本を読んでみようかな、という気にさせてくれます。出来て間もないということもあるのかも知れませんが、一般書架の本は総じてきれいでした。つまり、あまり利用されていない。これはもったいないですね。施設だけでなく、本も利用してほしいところです。それと、これも最近の図書館のトレンドなのかもしれませんが、書庫がないんです。「いかあ屋」の場合、いちおう「書庫」という部屋はあったのですが、閲覧室との間仕切りはなく、開架書架(図書館にある普通の本棚)に入りきらない本が普通に並んでいました。図書館の主題分類だと、「歴史」の本は、歴史一般→日本史→東洋史→西洋史…という順番に並ぶのですが、ここでは、歴史一般の次は東洋史で、「日本史の本は書庫にあります」といったことが書かれていました。大学の図書館は古い本でも捨てませんので、数十年前に発行された古い本(それはそれで利用価値があるのですが)だとか、ほとんど利用が見込めないような本は、書庫に仕舞い込んで、利用者からリクエストがあれば出す、というようなことにしています。県立図書館なんかもそうしている。「いかあ屋」の場合、まだ開館して間もないからそんな古い本はないのかも知れませんが、これからどんどん本が増えて並べきれなくなったら、古い本とか利用がない本なんかはどんどん捨てていくんでしょうね。書庫を作るぐらいなら、学習室、ミーティングスペース、ラウンジのような部屋なんかを作る方がいい。そういう思想が最近の図書館のトレンドなんだと思います。それもわるいことではないのですが。

 そしていよいよ海士町なのですが、これは語りだすと長くなりそうですので、明日にします。



2024/06/22

島まるごとアジール

 以前の記事で、青木真兵さんの著書『手づくりのアジール』を引き合いに、島根県隠岐郡海士町は島全体がアジールのようなものという私の考えを披露しましたが、これはちょっと修正が必要かもしれません。

 島にある島根県立隠岐島前高校には、全国から島留学の若者が集まってきます。彼らを見ていると、都会の学校から「逃げ出してきた」というよりも、現代社会という枠組みから「飛び出してきた」ように見える。それと「ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込んだ」(青木真兵, 海青子. 2019.『彼岸の図書館』P.6)という青木さんの言説とのギャップをどう埋めるのか。そこは、海士町まで出掛けて青木さんのお話を聞く動機でもあったのですが、青木さんによれば、アジールというものが何か絶対的な価値観を提供しているのではなくて、それぞれのアジールが社会の多様性の一部で、「アジールとはこうあるべき」といった画一的なものではないということなのです。都会からやってきた高校生にとってこの島の暮らしはアジールかも知れないけれど、都会のように何でもおカネで解決することが出来ないこの島では、周囲との濃密なコミュニケーションが必要になって、ときにはそこから逃れるように、港の売店でソフトクリームを買って人目につかないところで食べる時間が、その人にとってのアジールになるかもしれない。そんな例を挙げておられました。

 トークイベントのあとで、島前高校の先生という方に声を掛けていただいて、親しくお話をさせていただいたのですが、「飛び出してくる」若者と「逃げ出してくる」若者は半々ぐらいというようなことを仰っておられました。それを伺って、本当は一人の人間の中にも「飛び出してくる」要素と「逃げ出してくる」要素があって、ある場面では一方が強く出る、ということなんじゃないかな、と思ったりしました。

 これはたぶん、自分がやろうとしている Cafe & Library でも同じで、一面では「世の中を変える」とまでは言わないまでも「一隅を照らす」ぐらいの要素はありつつ、他の面では、現代社会の縮図と言えるいまの会社から逃げ出すという要素もある。どっちか一方という二者択一ではないと思うのです。それは、Cafe & Library の重要なコンセプトである「脱コミュニケーション」も同じかもしれません。これまで私は、会社で求められるコミュニケーション能力というのに辟易としていて、とにかくコミュニケーションから逃れられる時間と空間こそが自分にとって必要だと思っていました。それはいまでもそうなのですが、島に行くと私はいろんな方とお話をして、それなりに自分が受け入れられたように思っている。そういう「二面性」みたいなものはあらゆるところにあるもので、どちらかを「善」、どちらかを「悪」とは決められない。

 青木さんも、「此岸」と「彼岸」を行き来することの大切さを語られる。ふたつの価値観というのは、「都会」の価値観と「山村」の価値観だったり、個人が強調される「近代」の価値観と地縁や血縁などのコミュニティが強調される「前近代」の価値観だったり、いろいろなパターンがある。ただ、いまは資本の原理に基づく価値観が強すぎるので、それとは異なる価値観が提供されないと、異なる価値観の間を往来する自由が得られなくなって、社会が息苦しくなる。資本の原理が届きにくい場所を作って、そこと、今の世の中で支配的な資本の原理が通用する世界を行き来する。そんな思想に「土着」とか「アジール」という言葉を当てておられるのだと思います。

 そんなことで、海士町で開催された青木真兵さんのトークイベントから、あれやこれやと考えてきたのですが、明日は図書館のことを書こうと思います。



2024/06/21

地に足を付ける

 奈良県東吉野村で「彼岸の図書館」を運営されておられる青木真兵さんは、「学者」という顔も持っておられて、博士号もお持ちだし、文筆活動や講演もされています。

 ところで、最近の大学の傾向として、「社会に役立つ」ということを盛んに言うようになったと思うのです。私が大学生の頃は、大学生の4年間は「モラトリアム」などと言われていました。おそらく大学に対する公費助成を削減したいと考える人たちの思惑が背景にあったのだと思います。それに対抗するために「社会に役立つ人材の育成」などという大学の機能をアピールする必要があったのかも知れません。しかしそれは、「大学」という場所を「社会」に従属させることになってしまいました。

いやお前、何言っているんだ。「社会」っていうのは「大学」とか「会社」とか「政府」とか、そういうもので構成されるんだから、「大学」が「社会」の一部なのは当たり前じゃないか。社会の役に立たない大学に税金から助成をするなんて話はありえないよね。

お説ごもっともなんですが、大学で行う「学術」という営みは本来、社会からも個人からも離れたところから、社会のあり様や個人の生き方を観察して、理想的な社会や理想的な生き方を提示するという崇高な役割を持っていると思うのです。社会全体に閉塞感が漂う今日にあっては、本来ならば「社会に役立つ人材」ではなくて「社会を変える人材」を輩出していかないといけないところ。そう思いません? でもそれは、社会に反旗を翻すことであって、社会から自由である代わりに、社会から孤立することにもなります。それじゃ研究助成も運営経費助成も受けられないし、新しい学部を作ったりするときに認可されないし、学生の就職先もないから志願者も集まらない。少子化が進む中で、志願者が確保できなければ学生も減って学費収入も減る。公費の助成も減る。たいへんだ。ということで「社会の役に立つ」アピールが強くなっていく。大学間の競争が煽られ、大学の「生き残り戦略」を前面に出した運営がなされ、大学の商業化が進む。社会のあり方や個人の生き方について理想を語る先生は疎まれ、大学はどんどんつまらない場所になっていったのではないか。そう思うのです。博士号まで取得された青木さんが、大学に就職して安定した収入を得る道を捨てて、東吉野村から「社会のあり様」を発信し「新しい生き方」を提示されている背景には、そんなことがあるのかも知れません。

 さて、ここからは青木さんがトークイベントで語られたお話しからなのですが、青木さんは「人類のために」などという理想を語る一方で、「地に足を付ける」という言い方で、現実との融和を図られているように思いました。その辺が大学の先生とは違う魅力かも知れません。スポンサーに気兼ねすることなく、自分が言いたいこと、言うべきことを言う拠点を作ること。都市、健常者、私有という近代社会の基底に対抗して、田舎、障害、共有を基底とする世界を作ること。それは理想かも知れないけれど、それを「絶対善」としてしまうと、それはそれで閉塞した世界になってしまう。NPO法人の仕事、図書館の仕事、学者としての仕事の割合を円グラフで示しながら、自分の関心が向けられている割合は図書館が半分以上なのだけれど、収入はNPO法人が中心。ふたつの世界を「此岸」と「彼岸」に例えながら、それを行ったり来たりすることが「地に足を付ける」ことなんだ、とか、固定的に物事を考えずに環境に合わせて活動のスタイルも変化させていくことが大事なんだ、とか、当たり前のことかもしれないけれど、それに「土着する」という言葉を割り当てて、その先に「人類のためにやっている」という理想を持ってくる。そうすると、私がやろうとしていることも、もしかして「人類のために」なるかもしれない、なんて「錯覚」が生まれて、俄然、やる気も出てくる。いっしょに拝聴した方の中にもそんなふうに思われた方がいるんじゃないかと思いました。

 明日は、アジールと多様性について考えます。




2024/06/20

一隅を照らす

  島根県隠岐郡海士町の図書館であった青木真兵さんのトークイベントの雑感です。

 その前に、このブログで吐露してきたことのおさらいなのですが、自分としては、Cafe & Library を、現代社会の問題を解決する場にしたい、ぐらいの意気込みはあるのですが、根底には、そもそも現代社会の縮図ともいえるいまの会社の人間関係に辟易していて、定年でやっとそこから解放されるという思いがあって、それなら、まず、自分にとって居心地のいい空間を作ることが第一で、何かカフェとしての収支を考えて、望んでもいないような(例えばインスタでバズるとか)ことのために力を注ぎたくはなくて、そうやって作った場所が誰かに受け入れられるのならそれでいいし、受け入れられなくても別にいい、なんてことを考えているのです。

 こういうことは、常識的に考えると、なかなか理解しがたいことだと思います。商売をする気がない。現実社会から逃避している。そんなふうに言われても仕方がないかもしれません。本当は現実社会から逃げているのではなく、現実社会から飛び出して新しい世界を創ろうとしているのですが。

 青木さんも同じようなことを仰っていました。「東吉野村のためにやっているのではなくて、人類のためにやっている」と、まあ、すごく大きく出ました。この方ならそれぐらい言ってもいいんですけど、その勇ましさと、「兵庫県の街での生活で体調を崩し、ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込んだ」(青木真兵, 海青子. 2019.『彼岸の図書館』P.6)というギャップをどう埋めるのか。

 本来そんなことは、他人が自分のことをどう思うか、ということに属することで、たいして重要な問題ではないのですが、いろいろな事情から、私にとってはややシビアな問題なのです。わかってくれる人だけわかってくれればいいということでは済まされない。Cafe & Library 構想の成否にかかわる問題なのです。

 と、そんな話を青木さんや島に移住されてこられた方に振っても答えが出る訳でもなく、それで苦し紛れに出てきたのが、標題の「一隅を照らす」。私が住む滋賀県大津市にある比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の重要な教義でです。

一隅(いちぐう)とは、今、あなたがいる、その場所です。あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして照らしてください。あなたが光れば、あなたのお隣も光ります。町や社会が光ります。小さな光が集まって、日本を、世界を、やがて地球を照らします。

あなたの一隅から世界を照らしましょう!一人ひとりが輝きあい、手をつなぐことができれば、みんなが幸せになり、すばらしい世界が生まれます。

天台宗 一隅を照らす運動ホームページ https://ichigu.net/digest/ 2024/6/19アクセス

という意味だそうです。そうそう。これぐらいだったら私にも言えるかも。「人類のためにやっている」なんてことは言えないまでも、自分の周りだけならなんとかなりそうです。まずは自分自身がぼんやり弱い光であっても出せるような場所を作り、その場所に集まってきてくださった方をぼんやり弱い光で照らす。いや、それでいいんですよ。別に革命を起こすわけではないので。

 明日は、青木さんの「土着」思考を語ろうと思います。



2024/06/19

自分探しの旅

  そんな青臭いことを言う歳でもないのですが、自分が何をしたいのかを確かめるために、島根県隠岐郡海士町への旅に出掛けました。

 このブログで何度かご紹介している海士町は、私が私設図書館を作ろうと考えたきっかけを与えてくれた島です。毎年秋に開催される「図書館総合展」で、かつてこの島の「島まるごと図書館」が Library of the Year に選ばれ、当時、図書館の職員をしていた私が興味を持ってこの島を訪れ、個人のご自宅を町の図書館の分館として開放されておられる方に巡り合い、そこから、いつか自分もこんな図書館を作りたい、と考えるようになったのです。この島のことは、つい先日、NHKの有名番組でも取り上げられたのですが、あの番組のストーリーなんかでは説明できない魅力を持っている島なのです。ただ、その魅力が何なのか、当時の自分には理解しきれてはいませんでした。

 定年が近づき、定年後の生活が現実味を帯びてくる中で、転職サイトへの登録などをして、本格的に再就職のことを考えるようになったのですが、どうもしっくりこない。そこで、そうだ、いつか作ろうと思っていた私設図書館を、いま作ろう、と Cafe & Library 構想が始まり、カフェ学校の説明会にも行ったのですが、それも何かが違っていて、とても「しんどい」状態になり、これも何度かこのブログで「彼岸の図書館」として紹介している奈良県の私設図書館を訪ねて、そこで少し展望が開けてきたので、このブログを始めた。←いまここ。というのがこれまでの展開でした。

 さてさて、彼岸の図書館のFacebookをフォローしていると、そこを運営されている青木真兵さんという方が、海士町でトークイベントをされるという記事を見つけました。これは自分にとっては通過儀礼のようなものかもしれない。そう思って、宿をとり、フェリーの予約をし、有給休暇を1日取って、はるばるこの島に渡りました。3年前にお世話になった図書館の館長さんとも、彼岸の図書館を運営されている青木さんとも、イベントに参加された方とも親しくお話をさせていただいたり、あるいは励ましていただいたりして、元気をいただきました。

 金曜日の仕事が終わってから、高速道路を5時間走り、港の手前で1泊。翌朝フェリーにクルマを積んで、お昼を少し回ったところで島に到着。港近くの食堂で昼食をとると、レジのところにトークイベントのフライヤがある。店員さんに「これ聞きに来たんです」というと、「私も聞きに行きます」とのこと。図書館の分館にもなっている島の交流施設で本を読んでいると、館長さんが青木さんをアテンドされて見学に。先にここにおられた方に声を掛けておらるのですが、どうやらその方も今日のイベントに参加される方のよう。行く先々で参加者に合いますね、などと仰っておられる。

 初夏の長い日が傾くころに図書館に行くと、次々と参加者が集まってこられる。その数ざっと40人。人口2,000人の島だから、島の人口の2%が集まってきている。人口30万人の大津市に例えたら6千人に相当する人数。びわ湖ホールにも入りきりません。これはすごい。これだけでも、図書館がこの島でどれだけ重要な位置づけかが分かります。

 トークイベントでも話題になったのですが、この島は、島全体がアジール。資本主義の価値観や東京の基準では測れないもので動いているのではないか。それも、もしかすると、島の中でも移住者のコミュニティに限られているのかも知れませんが、移住された方が、何か経済的な成功を夢見てやってくるわけではないように思えるのです。そこが「彼岸の図書館」にも、あるいは自分がやろうとしている Cafe & Library にも共通しているのではないか。そういう意味で、この島で青木さんの話を聞くというのは、自分にとってとても意義があると思うのです。

 青木さんのお話を聞いたり、青木さんの書いた本を読んでいると、自分がなんとなく思っているのだけれどうまく言葉にできないことが言語化されて言い当てられている。きっとここに集まっている人たちの中にそう思っているは大勢いそうなのです。こんなふうに考えるのは自分だけではない。自分が住んでいる街からほぼ1日かけて行った先には、自分と同じように考えている人がこんなに大勢おられる。そんな実感を得られたイベントでした。

 今日から何回かにわけて、海士町のことやら、青木さんのトークイベントのことなんかを書き綴ろうと思います。




2024/06/09

承認欲求 再考

阿比留久美. 2022. 『孤独と居場所の社会学. なんでもない"わたし"で生きるには』. 大和書房.

 先日、彼岸の図書館に行ったときに、たまたま座ったソファーの前のテーブルに置かれていた本です。この本を手掛かりに、あるいは、この本との出会いを手掛かりに、もういちど承認欲求について考えてみようと思います。

 以前の記事で、こんなことを書きました。

この Cafe & Library を利用する人の視点で、その人たちの承認欲求をどう満たしてあげられるのかという視点。でも、これは出来ません。なにせ「脱・コミュニケーション」を掲げているのですから。コミュニケーションなしに承認欲求が満たされることは考えにくい。もしかすると、その空間の雰囲気で「自分が受け入れられている」という印象を得て、そのことによって承認欲求が満たされることがあるかもしれません。

これを蒸し返して、もういちど考えてみます。冒頭に紹介した本のタイトルにもなっている「居場所」という概念は、私が作ろうとしている Cafe & Library のコンセプトにとても近い。「居場所」というのは、自分が承認される「場」だとか「関係」だとか「活動」なんかのことでしょう。それじゃ「自分が承認される」とはどういう状態なのか。究極的には、自分の価値観や考えが受け入れられるということだと思うのですが、その手前にはいくつものハードルがあります。まず、自分の話を聞いてもらわないといけません。そのためには自分に関心を持ってもらわないといけない。相手がいくら自分に関心を持ってくれていても、いざ自分の考えを言おうとするとうまく表現できなかったり、うまく伝えられなかったりします。そもそも自分の考えていることを言語化することはとても難しい。そんなことが出来る人、そんなことが出来る場面は、ごく限られていると思うのです。多くの場合、自分がどうしてこんなモヤモヤした気持ちでいるのか、なぜ最近こんなにイライラするのかというようなことは、自分でもわからなかったりします。いや、「モヤモヤ」「イライラ」「理不尽」「孤独」「疎外」などという言葉ですんなりと説明ができるような場面なんてないのかも知れない。親しい人に対して「あの人は私のことを理解してくれない」などと独白した経験は誰もが持っていると思うのですが、そのときの自分の気持ちを自分で理解できているかと言えば、それはどうなのでしょうか。

 彼岸の図書館で自分が受け入れられているように思えたのは、そこにある本が自分の考えていることを代弁してくれているように思えたからかもしれません。それは承認欲求を満たすための最初のハードルかもしれない。冒頭の本と出合った日も、テーブルの上に「私が読むべき本」としてこれが置かれていました。テーブルの上でなくても、書架を注意深く探せば、自分の考えていることを代弁してくれる本はたくさん見つかると思います

あなたが考えていることはこんなことではないですか。

まるでそう語り掛けてくるようにです。それは本の著者や、その本を私のために用意してくれている司書との間接的なコミュニケーションだと思うのです。自分の持っている本を公開するのは、自分の価値観や考え方を公にするのと同じです。それを見て、「自分もそう思う」とか「この人はこう思うのか」といった感想を持つことは、もはやコミュニケーションの始まり。その本を手に取って読むとなると、さらに深いコミュニケーションだと思うのです。そしていくつかのハードルがクリアされて、そこに承認欲求が満たされた思いが生じることで、そこが自分の居場所となる。

 こういう蔵書構築は、公共図書館ではなかなか出来ません。司書が自分の考えや価値観で選書するのは御法度です。でも私設図書館なら、こういう可能性が拡がると思うのです。彼岸の図書館には、運営されておられるご夫婦が手に取られた本ばかりが並べられています。中立性とか網羅性とか、そういうことは二の次。いやむしろそんなものはない方がいい。偏りがあるからこそ特徴的な蔵書を構築することが出来る。運営されておられる方の価値観や考え方を色濃く反映したコレクションになる。これが私設図書館の魅力だと思うのです。


2024/05/29

逃げるは恥だが

  奈良県東吉野村で私設図書館を運営されている青木真兵さんの著書『手づくりのアジール:「土着の知」が生まれるところ』(2021. 晶文社)から、青木さんがされている取り組みと、自分がやろうとしている Cafe & Library や、その切っ掛けになった島根県隠岐郡海士町の「島まるごと図書館」やさまざまな移住政策に通底する「アジール」という考え方について、いろいろ考察しているところです。

 青木さんは、「アジール」という考え方を読者に理解しやすくするためか、「逃げる」という言葉を使われます。「逃げる」という言葉は、私たちが「駆け込み寺」という言葉から連想しやすいという事情もあるかもしれませんし、青木さん自身の経験も、「逃げる」というのに相応しいと考えておられるのだと思います。けれど、どうも「逃げる」という言葉にはネガティヴなイメージがある。Cafe & Library のことを考えるとき、自分としては、現代社会の抱える根本的な課題に対して、自分の周りの小さな世界であったとしても、それに抗って、人間が人間らしく生きることの出来る時間と空間を提供するという、かなり大きなテーマで取り組んでいるつもりなのですが、いまの会社に再雇用されることによって得られる安定的な立場とそこそこの収入を期待する私の妻から見れば、いまの会社のゴタゴタした人間関係から逃げ出すようなイメージに見えるようで、その分、ネガティヴなイメージで捉えられているようなのです。

 青木さんは、奥様との共著『彼岸の図書館:ぼくたちの「移住」のかたち』(2019. 夕書房)の「はじめに」で、「この本は、…ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込んだぼくらが、家を開いて図書館を作ったことで元気になっていった「リカバリーの物語」です」と仰っています。また『手づくりのアジール』では、大きな紙幅を割いて、「逃げる」ことの積極的な側面や必要性を述べておられます。例えば、対談者である栢木清吾さんの言葉を借りて

「逃げる」という行動は、現実と対峙しない、消極的で臆病な反応とみなされがちですが、それは積極的な意思表示でもある…自分が所属している組織なり、共同体なり、社会なりに、自らの行動を通じて「否」を突きつけることですから。(pp.40-41)

と仰っています。奥様の海青子さんは、これに応えるように

私たちが「逃げた」ことは、現代社会はもういられない場所なんだよということを伝える主体的な行動だったのだと、今お話を聞いて思えました。(p.53)

と仰っておられる。これにはとても共感するところがあります。けれど、言葉についている印象というのは、そう簡単には拭えるものではありません。

 ところで、海士町にある島根県立隠岐島前高校には、全国から島留学の青年たちが集まってきます。3年前に海士町を訪れたのは、ちょうどこの高校のオープンスクールの日。フェリーは島に渡航する中学生でいっぱい。島の施設では、先輩高校生が訪れてきた中学生を相手に熱く語る姿を見ましたし、話している高校生も聞いている中学生も、目が輝いているようでした。都会の学校で上手くいかずに島に逃げ込んでくるというよりも、現代社会という枠組みを飛び出して、未知の島のコミュニティに飛び込んでくる、という印象でした。

 同じことをしていても、「逃げ出す」「逃げ込む」というとネガティヴなイメージになり、「飛び出す」「飛び込む」といえば積極的でポジティヴなイメージになります。そんな他人から見たイメージなんてどうでもいいのかも知れませんが、妻を納得させないと開業資金が捻出できない身からすると、小さなこととして捨て置くこともできません。

 ただ、「飛び出す」ことに対しては「逃げ出す」ことよりもより強い勇気が必要です。現代社会の閉塞感の中で息苦しい思いをしている人に対して、「もうそこから逃げ出してもいいですよ」と言うのと「そんな世界からは飛び出してあたらしい世界を作ろう」というのでは、後者は確かに威勢がいいですが、一歩踏み出すのを躊躇しますね。Cafe & Library を運営するにあたって、自分自身は「飛び出す」つもりでいたとしても、利用する方には「逃げ込む」場所であることが、一人でも多くの人の共感を得ることにつながるのかも知れません。


 



2024/05/28

ないものはない

  前回の記事で、奈良県東吉野村で私設図書館を運営されている青木真兵さんの「彼岸」「アジール」という言葉が、自分が Cafe & Library でやろうとしているコンセプトに近いということを書いたのですが、それは、私が「いつか私設図書館をやりたい」と思うようになった直接のきっかけとなった、島根県隠岐郡海士町の「島まるごと図書館」に通じるところがあると思うのです。

 島には大勢の「Iターン」者がおられました。島にはもともと縁のなかった人が、まるで郷里にUターンするように、島に移住してこられているのです。移住まではいかなくても、高校や小中学校に「留学」してくる子どもたちや青年たちもいる。高校に通う3年間というは、あるいは人生のもっとも大切な時間かもしれません。その3年間をこの島で過ごすのですから、よほどの魅力があるはずです。失礼な言い方を許していただくなら、島にはさしたる産業もなければ、観光名所もありません。それでもこの島は、これだけ多くの人を惹きつける魅力を持っています。移住はしていませんが、私もこの島に惹きつけられた一人なんです。その魅力の根幹が「彼岸」あるいは「アジール」という言葉で説明できそうに思うのです。

 島には、私たちの様々な欲求を満たしてくれる商品が十分にはありません。夜中に小腹が空いたからといっておにぎりを買うコンビニもありません。自動販売機もどこにあったか思い出せません(すみません。これは思い違いです。自動販売機はそこそこにありました。2024/6/20)。ニトリも無印良品もありませんから、本棚のようなちょっとした家具ならDIYで作りたいところですが、その材料を売っているホームセンターもありません。映画館もショッピングモールもない。宅配便もたぶん特別料金だと思います(これも思い違いで、ヤマト運輸の営業所があるので普通に届くとのことでした。2024/6/20)。都会にいると気づかないのですが、これらは全部、商品として提供されているものなのです。コンビニで売っているおにぎりも商品ですが、そのおにぎりを24時間いつでも手に入れることが出来るというサービスそのものが商品なのです。都会にいれば当たり前に享受できるこれらのサービスを、海士町では享受することが出来ない。だから海士町では、生きるために必要なものを、商品としてではなく、別の方法で手に入れなければいけません。例えば、どこかに行くために、地下鉄というサービスを利用することが出来ませんから、クルマを持っておられる方にお願いして乗せていってもらう、といったことです。

 都会では、生きていくために必要なサービスはすべて、商品としておカネと引き換えに手に入れることが出来ます。それがスタンダードになると、おカネがなければ生きていくために必要なサービスを受けることができなくなる。そうすると、生きるためにおカネが必要になりますから、そのおカネを得るための「労働」が必要になる。そしてその「労働」が、次第に人生を侵食していく。会社に拘束されている時間はもちろん、それ以外の時間も、自分の労働力としての価値を高めるための行動を強いられる。受験勉強も就職活動も資格取得も、もしかするとジムやネイルサロンに通うことですら、「自分への投資」と位置付けられ、カネ勘定に結びつく。それは知らず知らずのうちに、自分を息苦しいところに追い込んでいきます。その息苦しさに気づかないのは幸せなのですが。

 海士町には、おカネと引き換えに手に入れることができる「商品」としてのサービスが十分にはない分、商品を得るために必要なおカネを手に入れる「労働」の必然性が小さいと思うのです。それは、働かなくてもいいということではありません。おカネで解決できない分、自分でやらないといけないことは増えるのです。例えば、都会なら24時間いつでも牛丼が食べられるサービスがありますが、海士町にはそれがないから、お弁当を作って出かけないといけない。お弁当を作る時間は必要なのですが、それはおカネを得るための「労働」ではありません。都会にいると、そのお弁当を作る時間をおカネに換えることが出来ます。私のような昭和人の感覚では、朝のひととき新聞を読むのはサラリーマンの嗜みのようなもの。お弁当を作る時間を新聞を読む時間に充て、仕事で会う人との共通の話題を作ったり、新たなビジネスチャンスに結びつけたりすれば、自分の労働力としての価値を高めることができます。すぐに給料は上がりませんが、いつか、新聞を読まない人よりも高給なポジションが得られるかもしれません。そのお給料で、自分以外の誰かが牛丼屋で「労働」して作っているサービスを購入して空腹を満たす。もちろん、新聞を読むことは「労働」の価値を高めるための様々な行為の一部でしかないのですが、そこを単純化すれば、都会では、毎朝新聞を読んで、上司や取引先との会話に気を遣わなければ、空腹を満たすことが出来ない、ということになります。おカネは確かに便利なものですが、一歩間違うと、私たちの人生がおカネによって支配されてしまうことにもなりかねません。たいして関心もないのに「新聞ぐらい読まなきゃ」という義務感から新聞を読むことを強いられる。新聞を読んで感じたこととは別に、上司や取引先に迎合して話題を提供しなければならない。新聞を読んで、本当に憤りを感じて、誰かに聞いてほしい話題に限って、上司や取引先との会話には適さないことが多いものです。こういう新聞の読み方は、「文化的」なようには見えますが、本当の意味ではあまり「文化的」ではないですね。

 海士町の港や役場には「ないものはない」というポスターが掲げられていました。図書館の館長さんからいただいた名刺にも書いてありました。「ないものはないのだから仕方がない。」という意味と、「ないものなんてない。すべてがある。」という二重の意味があるそうです。生きていくために必要なサービスが商品として提供されていて、おカネと引き換えにいつでも入手できるわけではないけれど、必要なものは必ずありますよ、という意味なんだと思います。そういうところが、青木さんの「彼岸」「アジール」という言葉に結びついているように思うのです。


2024/05/18

手づくりのアジール

 このブログで「彼岸の図書館」として何度かご紹介している奈良県東吉野村の私設図書館を運営されておられるご夫婦のうち、夫さんの著書『手づくりのアジール:「土着の知」が生まれるところ』(青木真兵著. 晶文社, 2021)に、これまでこのブログに、ああでもない、こうでもないと、つらつら書いてきたことが、研究者の言葉で見事に文書化されていました。最近、読んだ本の内容をほとんど覚えていないことを「惜しい」と思うようになり、少しでも心に留まるように、努めて感想文を残しているのですが、本を書かれる方の文章はどれも見事で、自分の拙い感想文で読後感を上書きすることが却って惜しく、印象に残った文章をただ書き出すだけで感想を書いたつもりになっている場合もたくさんあります。この本もそんな本になりました。巻頭の「はじめに」から、ドストライクな文章の連続です。

ぼくが「彼岸」という言葉を使っているのは、すべてが数値化の結果を受けて序列化され、それに基づいて価値付けが行われてしまうような現代社会を「此岸」としたときに、そうではない世界としての「彼岸」が必要なのではないかという思いがあったからです。(p.3)

ぼくは、彼岸とアジールを同じような意味で使っています。そして自宅を開いて図書館を運営する活動自体が、アジールを手作りすることを意味しているのではないか」(p.5)

もし、今いる場所が自分に合っていないなら、つまり自分の「土着の知」と社会の折り合いが悪いなら、なんらかの形でそこから立ち去る準備をしなければなりません。…「逃げる」ことも「地に足をつける」ことも、自分の中の生き物の部分に気づくことを意味しています。それはつまり「土着の知」の存在に気づくことなのです。(p.7)

 前段のところは、現代社会は「人」を数値化する社会で、自分がその中で息苦しさを感じていて、同じように息苦しさを感じている人に、ひとときそこから逃れられる空間と時間を提供したい、という、このブログに私が書き連ねてきたことと本当にいっしょだと思いました。この方は「土着」「手づくり」というところに、その解決を見出しておられます。

手づくりとは、誰もが対価を払えば手に入れられる商品とは異なり、自身の個別性、身体性を手がかりに行う行為です。そして、個別性や身体性に触れるためには、コントロールできない社会の外部が自分の中にもあることを認める必要があります。(p.176)

社会の近代化に伴い、人はどこにでも住めるようになり、土地性が喪失した。…そのせいで社会が想定する人間像もどんどんヴァーチャルになり、誰にとっても生きやすい社会を目指すはずが、誰にとっても生きにくい社会になってしまうのではないか…だから、抽象的になってしまった人類を、再び土着化させ、土地に結び付けて具体的な存在として考えなおしたい。(p.182)

 彼岸の図書館も、以前にこのブログで紹介した島根県隠岐郡海士町も、商品で満たされた都会から離れているという意味で、とても不便なところです。地理的な制約が多く「こうしたい」と思うように自分の環境をコントロールすることが難しい。そういうところでその制約を受け入れながら生活することを「土着」と仰っておられるのだと思います。

これからは「みんなのため」ではなく「自分のため」に生きていくべきだと思います。それは自分たちや身の回りの物を「商品として見ない」ということです。…世の中が教えてくれる「みんな」基準の人生から、「自分」のための人生へ。この転換は、ぼくたちが幼少期から信じてきたものを、ポイっと捨てることを意味します。…ぼくたちはさまざまな可能性を信じるように、夢に向かって自己実現するように…つまり人気商品としての「自分」の形成に日々努力してきたのです。(pp.160-161)

 ここでいう「みんなのため」というのは、おカネを支払えば誰もが購入できる「商品」を提供することを意味していますから、「おカネのため」というのと同義語です。

何かを成し遂げようとすることは、商品的人間として「みんなのため」に生きていくということです。一方、手づくり的人間は「自分のために」生きていきます。「自分らしく」とか「自分らしくない」とか、そういうことは気にしません。「自分らしく」生きていくとは、実は商品的人間として生きていくことを意味します。商品的人間の特徴は、他社の眼差しが内面化されているということです。社会的評価を気にしてしまうとも言い換えられます。決して気負う必要はありません。むしろ、ただこの世界を「自分のために」生き延びること。それが結果として誰かのためになるかもしれないし、ならないかもしれない。(pp.164-165)

 そうそう。そういう生き方なんです。草径庵の庵主さんが「人など来るはずもなく、正直、来なくてもよい」と割り切っておられることにも通じます。

 このブログを始めてから何度か「背中を押される」思いをしているのですが、この本との出会いも、私にとっては大きな励みになりました。

2024/05/17

収益性再考

  実際に訪れてはいないのですが、横浜で週1日か2日だけ開いておられる読書カフェ「草径庵」を知って、カフェの収益性についての考え方は大きく変わりました。草径庵を知るまでは、図書館をやりたいという希望を叶えるために必要な費用を捻出する手段としてカフェを「経営」しようとしていたのですが、草径庵を知ってからは、カフェも図書館も一体のものとして、自分にとって居心地のいい空間であることが最優先事項で、儲かるかどうかは二の次。儲かれば儲かったでいいけれど、儲けようとしてやっているわけではなくて、儲からなくても続けていける仕組みを、定年後の生活全体の中で作っていけばいい、という考えに大きくシフトしました。

 草径庵の庵主さんはライターをされているようです。そこで稼いだおカネを草径庵に注ぎ込んでおられるのかもしれません。私の場合、そんなカッコイイ仕事はできませんので、例えば週3日間どこかで雇われて仕事をするとか、朝の時間だけ、スーパーの品出しをするとか、ショッピングモールの清掃をするとか、そんなことで月々わずかな収入を得て、それでカフェをする。もう定年ですから、おカネのためにそんなに働かなくてもいいのではないか。それに、仕事に生き甲斐ややり甲斐を求める必要もありません。自分の居場所は仕事以外のところにあるのですから。収入を得るためにするジョブと、社会に働き掛けてそこにやり甲斐を感じたり、自分の居場所を作ったりするワークをはっきり分ける。雇われてお給料をもらうのはいままでといっしょだけれど、こうすることでコミュニケーションに関わる負担は大きく軽減できると思うのです。

 家賃やリース料といった、月々発生する固定費を出来るだけ小さくして、初期投資については「道楽」と割り切って、回収することを考えない。もし誰も来てくれなくても、カフェ以外にやっていることで、たとえ僅かであっても月々決まったおカネは入ってくる。

 これまではそうはいきませんでした。娘が2人いれば、教育費もかかる。住宅ローンも返済しないといけない。「男性」というジェンダーは外で働いてきて稼いでくるところに価値がある、という伝統的な考え方がありますから(私がそう思っている訳ではないのですが、妻はそう思っているようです)、仕事を辞める訳にもいかず。脱サラするにしても、きちんと家におカネを入れられない仕事なんてできませんでした。「儲からなくてもいいや」と考えられるのは、人生の中でいまだけなのです。

 そうすることで、おカネのことはあまり考えずに、自分の好きなことが出来ます。少しでも多くの方に来店いただくとか、客単価を上げるとか、そういうことを考えて「お客様」に迎合する必要もありません。カフェを成功させるためのテンプレートに乗っかって、どこにでもあるようなカフェを作り、同じようなテンプレートで作られている他のカフェと競争する必要もありません。その結果、どこにもないような自分らしいカフェが出来て、それが受け入れられれば多くの方に来ていただけるし、受け入れられなくても、別に店を閉じる必要もなく、ただ細々と続けていればいい。

 そう考えることで、ものすごく気持ちの余裕ができるのです。

 きっとうまくいくような気がしてきました。




2024/05/01

ブックカフェと読書カフェ

 公的な団体ではないのですが、「日本ブックカフェ協会」という団体があって、ホームページを公開されています。そのホームページに「ブックカフェとは」という記事があって、ブックカフェの定義らしいものが次のように書かれています。

近年おしゃれで個性的なブックカフェが全国的に増えています。一杯のコーヒーと一冊の本から始まる新しいストーリー。ブックカフェとは、そんなストーリーを作り出す空間であり、カフェと本屋が合体したお店のことです。おいしいコーヒーを飲みながら店内の本棚に並ぶ本を自由に手に取り読むことができ、気にいった本は購入できます。

ブックカフェにも様々な業態があり、分類するといくつかのパターンに分けられます。

1.新刊書店とカフェが併設

2.古本屋がカフェを併設

3.閲覧のみのカフェ

 ブックカフェの開店を目指している人の中には、こうして「規格化」されることによって「私がやろうとしていることは変なことじゃないんだ」と安心される方もおられると思います。でも、私の場合、なんだか自分が開こうとしている店が、たくさんあるブックカフェのひとつとして「商品化」されるみたいで、複雑な思いがします。

 もちろん、まったく特異なことをしているわけではないのですが、商品経済の体系の中に組み込まれたくないという思いがありますので、いくつかの基準でパターン化されて、その中で、記号のように扱われるのは、あまり気分が良くありません。

 これまでこのブログでご紹介してきた「お気に入りのカフェ」や、いつか訪問しようと思っている草径庵は、いずれも「読書カフェ」を自称されています。それで、これからはこのブログでも、「ブックカフェ」ではなくて「読書カフェ」ということにします。それも「パターン化」かもしれないのですが、「読書カフェ」を自称されている方のカフェを見て、サービスの「商品化」の一歩手前で踏みとどまっておられるような感じはしますので、自分もそのように、自分自身やお店のサービスを「商品化」する一歩手前で踏み止まりたいと思うのです。

 過去の記事も、いずれ書き換えますが、とりあえずこれからは「読書カフェ」ということにします。




2024/04/30

承認欲求

 ここまでつらつらいろんなことを書いて、あらためて、人間が労働力という商品として値踏みされる世界がどうして出来てしまうのかと考えてみると、その背景には、これも誰もが本能的に持っている承認欲求というものがあるように思うのです。何度も言いますが、人間は、組織や社会を作らないと生存できない生物ですから、その組織や社会の中で自分の存在を意味付けようとする本能を持っています。その本能がコミュニケーション能力であったり承認欲求であったりするのだと思うのです。商品経済の中で、労働力という商品としての価値があるかどうかが、その人の評価基準として明示されれば、たいていの人はその基準で評価を高めようと躍起になります。それは、単に給料を上げようとか、組織や社会の中での地位を高めようということばかりではなく、そういったことにはまったく関係がなくても、人間には他の人間に自分の価値を認めさせたいという承認欲求が必ずあって、それが人間の商品化の背景になっているのだと思うのです。

 コミュニケーションの方は、複雑で高度になっていること、あるいは歪んでいることがストレスになっている場合、しばしそこから離れることができますが、承認欲求の方は、本能的な欲求であるがゆえに、過度になったものを取り除いたり緩和したりすることが難しい。ここに Cafe & Library としてどのように向き合っていけばいいのでしょう。

 視点はふたつあると思うのです。

 ひとつは、この Cafe & Library を利用する人の視点で、その人たちの承認欲求をどう満たしてあげられるのかという視点。でも、これは出来ません。なにせ「脱・コミュニケーション」を掲げているのですから。コミュニケーションなしに承認欲求が満たされることは考えにくい。もしかすると、その空間の雰囲気で「自分が受け入れられている」という印象を得て、そのことによって承認欲求が満たされることがあるかもしれません。以前に紹介した「彼岸の図書館」に私が初めて行ったときに受けた印象がそうでした。でも私の場合、その印象だけでは満たされず、司書さんとのコミュニケーションでやっと承認されたような気分になったことも、すでに述べたとおり。それは司書さんのコミュニケーション能力があってのことで、私には、Cafe & Library を利用される方の承認欲求を満たすようなコミュニケーション能力はありません。

 もうひとつの視点は私自身の視点です。読書カフェにしろ私設図書館にしろ、広く社会に向けて開かれた空間を提供しているのですから、誰かに来てほしい、利用してほしいと思うのは必然です。誰も来てくれないと、自分がしていることが誰からも承認されなかったということになりますから、承認欲求が満たされず絶望するかもしれません。横浜で「草径庵」を営まれている「庵主」さんが、エッセイで

もちろん、人など来るはずもなく、正直、来なくてもよいのだった。こうして一年、二年と過ぎ、三年目くらいから、驚くべきことに「お客さん」と呼べるような人が来始めたのである。

と仰っている境地は、そういう承認欲求から解放された境地なのかもしれません。そういう境地に至ることが出来ないと、Cafe & Library は私自身を苦しめる取り組みになってしまうかもしれません。

 承認欲求が満たされずに苦しむ経験は、会社勤めの中でも何度も経験しましたが、Cafe & Library で経験するかもしれない苦しみとは質的に異なるかもしれません。会社に提供しているのは、自分の中の労働力としての側面だけで、人格まで提供しているわけではありませんから、承認欲求が満たされないとしても、人格まで否定されたと思い悩む必要はありません。現実にはそういう割り切りが出来なくて苦労するのですが、原理的にはそういうことで十分なのです。しかし Cafe & Library は、人間が人間として存在できる時間と空間を提供しているわけですから、その意味では、提供する側の全人格が掛かっているともいえます。自分がこれまでに手にしたことのある本が並べられている書架を見て「いろんな本を読んでおられるんですね」と好意的なお言葉をいただけると、私の承認欲求は深く満たされると思います。しかし、「たいした本はありませんね」と言われれば、全人格を否定されたように思うかもしれません。

 こうした承認欲求を持ったまま Cafe & Library を運営するのは、とても辛いことになるかもしれません。誰も来ない。来たらケチを付けられる。人格まで否定される。いやそれでも自分はこういう価値を提供したいのだ、という信念を持つことは大事なことかもしれませんが、その信念が受け入れられるかどうかを気にしだすと、続けていくことは難しいかもしれません。

 草径庵の庵主さんのエッセイを読んで、「少し肩の力を抜こう」、そんなことを考えているところです。とにかく自分にとって居心地の良いところを作ることがいちばん大切。「お客さま」は二の次。そうでなければ、自分自身の人格のすべてを商品にして、どこにでもあるカフェ同士の競争に参入することになってしまう。そういう世界から離れることが目的なのですから、「なんとかしなきゃ」と焦るのではなく、もう少し余裕を持って自分自身を眺める必要があるように思います。

 




2024/04/19

草径庵を知る

  ブログを始めてまだ2ヶ月なのですが、最近では「本の庵」でネット検索すると、このブログがいちばん上に表示されるようになりました。そして、いつも2番目に表示されるのが「本とお茶ときどき手紙 草径庵」という、横浜にある、きっとそれほど大きくはない読書カフェ。気になって、ホームページを拝見しようと「草径庵」でネット検索をすると、「庵主」さんの書かれた『閑事:草径庵の日々』というエッセイに辿り着きました。さっそく、勤めている大学の書店に取り寄せてもらって拝読。これまでいろいろ思い悩んでいたことが溶けていくような思いで読了しました。

一年目はこの場所で過ごす時間のほとんどが自分の休養と読書所間だった。…はじめのひとり。友人や私のことを知ってくれている近所の人たちではない、草径庵を目指してわざわざ足を運んで来てくれた最初のひとり。その人との出会いが草径庵の始まった日といえるのではないだろうか。(pp.38-39)

自分が機嫌よくいるために始めた草径庵で、私はのんびりと日常を離れて過ごす喜びを感じていた。…週末のたった二日、ほんの数時間をここで過ごすことが自分の心と体を労わり、安らぎを与えるということを知った。もちろん、人など来るはずもなく、正直、来なくてもよいのだった。こうして一年、二年と過ぎ、三年目くらいから、驚くべきことに「お客さん」と呼べるような人が来始めたのである。…ほとんどの人が一人でやって来て…それぞれの時間を過ごして帰って行く。お茶を出したり食器を下げたりしつつさりげなく観察しているうちに、こんなことに気づいた。ひょっとしたらこの人たちは、かつての私のように、日常を離れてゆっくりしたい、一人になりたいのではないか。人に何かをしてもらったりされたりするより、なにもされず安心して「自分」でいられる時間と空間をここで過ごしているのではないかと。(pp84-85)

 私がこれから作ろうとしている Cafe & Library のことをあまり理解してくれない来訪者が、その場の雰囲気を台無しにしてしまうのではないだろうか、などと心配をしていたのですが、そんな心配は不要かもしれません。草径庵の庵主さんの仰るように「人など来るはずもなく、正直、来なくてもよい」と割り切ってしまえばいいのですから。

 それに、このブログにウダウダと書き連ねている Cafe & Library のコンセプトなんて、どうでもいいことのようにさえ思えてきます。確かに、カフェを開業するためのノウハウが書かれた実用書を見れば、最初にコンセプトをしっかりしておきましょう、というようなことが書かれている。けれど、それはあくまでも商業的に成功するためのハウツーであって、そのコンセプトのなかで商業主義からの脱却を謳いながら、商業的な成功のためのセオリーに縛られているのも可笑しな話です。庵主さんの仰るように「自分が機嫌よくいるために」始めて、もし自分と同じように思う人がいれば、自然とそういう人たちが寄ってくるような場所を作ればいいのかもしれません。

 本を読んで、この草径庵がどんなところなのか自分の目で確かめたいと思いました。ゴールデンウイークが過ぎたら、新幹線の中でゆっくりと本を読みながら、庵主さんのお話を聞きに行こうと思います。会ってくださるかしら?




安木由美子 著. 2022. 『閑事:草径庵の日々』. ユニコ舎.

著者紹介には「ライター」「構成作家」という職業が書かれているのですが、私の周囲にはおられませんので、どんなお仕事なのか、うまく想像ができません。けれど、書いておられる文章を読めば、プロの文章だなあと率直に思います。思いつくまま、思ったことをそのまま書いておられるように見えて、しっかり読む人のことを意識されておらえる。あるいは、意識しなくてもこういう文章が書けるのがプロなのかもしれません。

このブログも、もうちょっと読む人のことを意識して書かないといけませんね。

2024/04/16

シートチャージ

 私たちの周辺にある図書館は県立や市立のものがほとんどです。図書館法 第17条には「公立図書館は、入館料その他図書館資料の利用に対するいかなる対価をも徴収してはならない」と定めていますので、図書館と言えば無料の施設と考えがちです。しかし、図書館法 第28条には「私立図書館は、入館料その他図書館資料の利用に対する対価を徴収することができる」と書かれていますから、私がこれから作ろうとしている Cafe & Library で入館料を取ることは、法的には可能です。

 Cafe & Library 構想を人に話すと、何人かの方がこんなことを仰います。
それはコーヒー1杯いくらっておカネを取るのか。
1時間いくらっておカネを取るのか、どっちなん?
実はこれは構想のかなり早い段階から悩んでいることで、まだ結論が出ていないことなんです。

 普通のカフェなら、コーヒー1杯いくらというおカネの取り方をします。スタバのような大きなカフェだと、その1杯で何時間も居座って、パソコンで何か作業をされたり、ノートを拡げて勉強のようなことをされている人も見かけます。しかし、個人でされているお店の方に訊くと、正直に言って、そういう感覚で長居をされるとちょっと困る、と仰います。個人でやっているお店だから席数は少ないし、お店の方に申し訳ないと思って追加注文をしてくださるお客さんならいいけれど、そういうお客さんはそこそこの時間で帰って行って、そういうことに気の回らないお客さんだけが長居をされていく、ということになるのだそうです。私がやろうとしている Cafe & Library は、その空間で過ごす時間が大切な商品ですから、そこに価値を見出していただける方にこそ、ゆっくりとしていっていただきたいのですが、その価値が分かるような分別のある方は常識的な範囲を気にされて長居を避けられ、そういう価値の分からない人に限っていつまでも帰らない、という逆転が生じるかもしれません。

 1時間いくら、という料金体系でおカネを取る典型はネットカフェです。マンガ読み放題、フリードリンクで、1時間いくら。使い方はお客さん次第で、マンガを読んでいる人もいれば、パソコンで何かしている人もいる。本を読んでいても、ネット配信の映画を観ていても、居眠りしていても自由。誰にも拘束されない時間を過ごすことが出来る。置いてある本は違いますが、それといっしょなんじゃないのか、などと仰る方もいました。ネットカフェと同じものを作ろうとしているつもりではないのですが、それは、スタバと同じものを作ろうとしているつもりではないということと同じかもしれません。Cafe & Library は、スタバとも共通点がありますし、ネットカフェとも共通点があります。

 こんな考えもできます。

 例えば、入館料と称して300円をいただく。入館料には1時間分のシートチャージが含まれる。あとは2時間ごとに300円のシートチャージをいただく。つまり、コーヒーも何も注文せずに3時間滞在された方からは、600円をいただく。5時間なら900円ということです。ここのポイントは、コーヒーも何も注文しなくてもよいということです。ただし、飲食物の持ち込みはNGですが。

 こうすることで、純粋に Cafe & Library の空間と時間に価格を付けることが出来ます。「何か注文しないと申し訳ないかな」などと考えずに、おカネでその空間と時間を買うことが出来るようになります。

 コーヒーの価格は500円。その500円の中には入館料またはシートチャージが含まれる。コーヒーを1杯飲んで1時間で帰られた方からは500円をいただく。3時間おられたら、そこにチートチャージを加えて800円をいただく。コーヒー1杯500円は普通のカフェと同じです。滞在時間が1時間を超えると、コーヒー1杯が800円。3時間を超えると1100円となります。コーヒーをお替りして2杯注文してもらえば、3時間まで1,000円。カフェでコーヒーを2杯飲んでいるのですから、決して高くはありません。

 例えば Cafe & Library が好きで、お昼から時間があるから、午後1から夕方の4時までここで過ごそうという方がおられたとして、何も注文されないのなら600円。コーヒーを1杯注文すると800円。お替りすると1,000円。食事メニューをどうするかとかはまだ考えていませんが、とにかく、何も注文しなくてもいいし、何か注文すればなんだか得したような気分になる。一方で Cafe & Library のことをよく知らない方が通りすがりに入ってきて、コーヒーを1杯注文すれば500円。そういう方はたいてい1時間ほどで帰られますが、たまたま Cafe & Library の雰囲気を気に入っていただいて長居をされたら、その時間に応じておカネをいただく。雰囲気が気に入っているのだから、シートチャージを取られることも納得されるはずです。

 そんな感じでいろいろ考えは巡るのですが、これは実際に Cafe & Library の形が見えてこないとなかなか決められない。出来上がった空間を見て、自分ならこの空間で過ごす時間にいくら払うか、自分で自分の値踏みをして、それで納得できるおカネの取り方をするしかないでしょう。


 


2024/04/15

家賃を払わない

 何か事業をすれば、月々の固定費を払わないわけにはいきません。テナントを借りていれば家賃が必要です。厨房機器をリースすればリース料。「ここはカフェではなく図書館です」と言ったところで、家賃を値切ってくれるわけではありません。

 ただし、家賃について言えば、払わなくていい方法もあります。

 家賃はテナントを借りるから支払わなければいけないのであって、買ってしまえば払わなくてよい。それも、借金をして買った物件でカフェを運営するならば、月々の家賃が月々の返済に代わるだけで、固定費に追われる構造は変わりませんが。自己資金で買って、しかもその投資資金の回収の必要がないとすれば、ある程度、自分の自由度は増します。収益のことを気にして、なんとか固定客を掴もうと無理な努力をしたり、少しでも多くの人に来てもらおうと、例えば、インスタ映えするメニューを考える、などということは、しなくてもよくなります。

 最近、新聞記事などで、遺産相続した古い家屋の買い手がつかないといった話を目にします。「不動産」ではなくて「負動産」なんだそうです。おカネを払ってでも引き取ってほしい。そんな家があるなら、そこを改装して開業するということもできるかもしれません。ちなみに、不動産会社のWebサイトなら、地域を指定して、300万円までで手に入る物件は、なんて検索もできますし、実際にそういう物件もなくはありません。古い物件だと、改装にはそこそこのおカネがかかりますが、賃貸のテナントに比べて、自分の思うような内装や外装に仕上げることはできます。これをなんとか自己資金でやりきれば、家賃や借金の返済に追われる心配はなくなります。

 もちろん、厨房機器も同じで、リースではなく買切ってしまえばよい。中古でもよければ購入資金は節約できます。それに、身の丈に合わない機器は買わない。冷蔵庫なんかも、飲食店でよく見かけるのは、中古でも数十万円しますが、どれぐらいの食材をストックしておけばいいのかを考えれば、同じ値段で家庭用の新品を買う方がいいかもしれません。プロ仕様の焙煎機などは、最初から用意するのではなく、ある程度の収益が見込めるようになってからでもいい。そういう割り切りによって固定費を縮小していけます。

 固定費が少なければ、日々の売り上げを過度に追いかける必要がない。そうすると、たとえ来店客が少なくても、自分はこういうことをやりたいのだ、というコンセプトがより強く出せるので、どこにでもあるカフェとは違う店作りができます。それが世間に受け入れられるには時間がかかりますが、それを待つ余裕はできます。

 あまり大きなことは考えない。あまりいろんなことは考えない。身の丈にあわせて何ができるのかを考える。当たり前のセオリーなんですが、それを、いま自分が置かれている状況に照らして考えるのは、意外と難しいものです。時間はかかりましたが、少しそういうことを考えることが出来ました。




2024/04/14

カフェの収益性

 カネ勘定で値踏みされる世界からの逃避場所として Cafe & Library を作るのに、そこでおカネを取ることについて、ある程度、自分なりの納得が出来たので、再びカフェの収益性について考えるようになりました。

 しかし、この思考はいつまでも堂々巡りなんです。

 たとえアルバイトを雇わずに自分だけでやるとしても、カフェとして維持していくには、どうしても収益性を考えないといけない。カネ勘定で値踏みされるのが嫌だといっても、金額を提示すれば必ず値踏みされます。それに、収益性を考えれば、自分自身が来てくださる方を値踏みするようになるのも避けられそうにない。月々の固定費を賄うには客単価はこれぐらいで席の回転率はこれぐらいという数字を、どうしても頭の片隅に置いておかないといけない。コーヒー1杯で何時間も座席を占有する人がいれば、「カネにならない客」なんて考えが脳裏をよぎることは仕方がありません。

 武力がすべてを支配する戦国時代に、平安時代からの不輸不入の権を持っている大寺院などが、苦しむ民衆にとってのアジールとして機能しました。しかし、そのアジールを守るためには武力が必要で、そうした大寺院の指導者は、ときには、僧兵だけでなく民衆をも動員した壮絶な武力闘争をしてきました。

 カネ勘定がすべてを支配する現代社会で、それに抗って Cafe & Library を運営しようという場合も同じで、そこを守るためにはやはりカネ勘定を頭に入れておかないといけない。一方では、ユートピアのような世界を提供しようとしているのに、他方では、月々の支払いという現実と対峙する。その間にあるのは、大寺院の巨大権力ではなく、ついこの前まで善良なサラリーマンだったひとりの人間に過ぎないのです。

 永遠に続くかもしれないこの思考ですが、ちょっとしたきっかけで次のステップに進むことが出来ました。同じ場所をぐるぐると回っているように見えて、実は少しずつ考えが深まっているようにも思えます。きっと開業したあとも、この堂々巡りは続くのでしょうけれど。




2024/04/10

移住を躊躇う

 島根県の沖合にある隠岐群島のひとつ、中ノ島にある海士町で経験したことは、とても刺激的でした。自分もここに移住してきて、自分の家に小さな図書館を作ろうか、と半分ぐらい本気で考えました。結局は止めたのですが、それから3年が経って、こうしてブログにその時のことを書きながら、考えがぐるっと一周したような思いがします。

 海士町は、本土からフェリーで3時間もかかります。高速船なら1時間ほどですが、1日1本しかなく、欠航しがちです。いままでの自分の生活空間からはかなり隔絶されたところです。移住するということは、いままで勤めていた会社を辞めることになります。家族で移住するなら家族も同様です。家族と離れて単身で移住するとしても、家族を説得しないといけません。親族に急なことがあっても、すぐに駆けつけることもできません。もちろん、自分に何か急なことがあっても、親族は駆けつけて来てはくれません。親しくしていた友人とも、日常的にリアルに会うことは出来なくなります。

 他にも、移住しない理由なら事欠きません。隣の西ノ島には新聞の配達所がありますが、たぶん、朝刊を読めるのはお昼にフェリーが着いた後です。欠航すれば翌日になります。数年前から私は、月に一度は映画を観ると決めているのですが、それも松江か米子に出掛けて1日がかりで観ることになります。島に行った当時、私は地元のアマオケに入っていたのですが、移住となるとそれも辞めないといけません。

 いやでも、もし移住となれば、そういうところが、また面白いところかもしれません。自分の家を図書館にするのだから、ネット版の新聞の契約をして、大判プリンターで印刷すれば、それで近所の人にも、その日の新聞を読んでもらえますし、新聞を口実に毎日来て下さる方もおられるかもしれません。大判プリンターがあればニーズもあります。高校生たちが何かポスターのようなものを作りたいと思ったときに、私のところに来てくれるかもしれません。映画だって、いま話題の映画はともかく、ネットの映画配信サービスの契約をして上映会でもすれば、それもコミュニケーションの切っ掛けになるかも知れません。アマオケのことも、そういえば、島に行ったときに、ヴァイオリンケースを担いでいる人を2回ほど見ました。「おやっ」と思ったのでよく覚えています。島でレッスンが受けられるかもしれませんし、3人集まれば簡単なアンサンブルはできます。そう考えれば、新聞の配達が遅いことも、映画館がないことも、アマオケを辞めなければならないことも、移住を面白くする要素にだってなりうることです。

 結局、移住を躊躇った決定的な理由は、自分のコミュニケーション能力に自信がなかったからだと思うのです。このブログの最初の方でも書いているのですが、私には「コミュ障」なところがあって、ときに周りとあらぬ軋轢を生んできました。誰がわるいのかには関係なく、そういった軋轢の負担を一方的に背負い込んできました。そんな負のコミュニティをいったんリセットしたいという期待は私を移住へと誘うのですが、その一方で「どこへ行っても逃げ場はない」という諦めが、移住を躊躇させます。島内にある隠岐島前高校のことを書いた『未来を変えた島の学校』にはこんなことも書かれていました。

島には逃げ場がありません。…今よりも厳しい生活になります。今できていないのに、島に行ったら変わるとか、できるようになるという甘い考えでは、困ります。(p.106)

いまなら、会社でうまくいかなくても、どこかに逃げ場があります。誰も話してくれなくても、おカネを払えば「いらっしゃいませ」と声を掛けてくれる人がいます。そんな世界で息苦しい思いをしている自分が、そういう逃げ場もないところに移住なんて出来っこない。移住したからといって、この島でお会いした方のように、自信たっぷりに自分の考えを雄弁に語れるようになんてなれっこないんだ。そんな考えが、自分を狭い世界に押し込んでしまいました。

 でも、こうして Cade & Library を作って、そこをコミュニケーションから解放されるアジールのような空間にしようなどということを考え始めると、また考えが変わってきます。

 海士町は、島そのものがアジールだったのではないか。

 島を訪れた当時の私は、もし島に移住したら、どうやって生活に必要なおカネを稼ぐのかを考えました。大阪の都心の、カフェやネイルサロン、雑貨屋などが立ち並ぶ小洒落た地区で、何人ものアルバイトを雇って成功しているカフェと同じようなものを、この島に作ることはできません。それは分かっているのですが、どうしてもそういう発想になってしまうのです。競争の中から一歩抜きん出て成功する。そんな発想です。

 でも、島の発想は違う。カネ勘定から少し離れて、この島をどんな島にしたいのかというような、どこか青臭い話を真剣にできるコミュニティ。そんなコミュニティの中心に図書館があって、それを必要としている人に助けてもらいながら、自分も、自分の図書館を作ることを通じて、アジールの中で求められる存在になっていくことが出来る。そんなことを考えると、定年という、サラリーマン生活のゴールが見えてきた今、この島への移住は、あるいは現実的な選択なのかもしれないと思えてきます。

 しかし、そこまで考えがまとまってくると、反対に、それならわざわざ、いままで自分の周りにあった人やものとの関係を断ち切って、島に移住する必要もないようにも思えてきます。自分は、いまいるこの場所で息苦しい思いをしてきました。私のほかにも、そんな息苦しさを感じている人はいると思います。その人たちに自分ができることは、島に移住することではなくて、いまいるこの場所に小さなアジールを作ることかもしれません。

 ということで、島への移住を巡る考えは、ぐるっと一周しました。しかし、ここが最終到達点なのかどうかは分かりません。ここを通り越して半周すると、そこには移住というゴールがあるのかもしれません。でも、いまのところ Cafe & Library を作ることに傾注していて、とても移住を考える余裕がありません。Cafe & Library 構想が行き詰ったときに、再び検討の俎上にあがるのか。いや、できればその行き詰まりを克服して、構想を実現していきたいのですが。








2024/04/08

課題を解決しない図書館

 大学図書館の名刺のおかげか、海士町ではいろんな方とお話が出来ました。なかでも中央図書館の館長さんからは親しくお話を聞かせていただきましたが、ご自身がこの島でされていることについて、とても自信を持っておられる様子でした。この島でお話を聞く方が、みなさん、こんなふうに自己肯定感に包まれているのです。本当にすごい島だと思いました。

 館長さんのお話の中で、その時は「意外だなぁ」と思ったのが「サードプレイスとしての図書館」という考え方でした。いま私が考えている Cafe & Library なんかは、もしかしたらその考えの延長にあるのかもしれません。あるいは、私自身が館長さんの掌の上で藻掻いているだけで、もし私がこの島に移住して、この館長さんの手に掛かれば、あっという間に Cafe & Library が出来てしまう。出来上がった Cafe & Library は、館長さんが考える「サードプレイスとしての図書館」なのかもしれません。

 その話をする前に「課題解決型図書館」の話を聞いてください。

 もともとは文部科学省が2005年にまとめた「地域の情報ハブとしての図書館(課題解決型の図書館を目指して)」という文書があって、その中に、図書館が「地域課題の解決支援」を積極的に担っていくことが謳われていて、具体例として「ビジネス支援」「行政情報提供」「医療関連情報提供」「法務関連情報提供」「学校教育支援(子育て支援含む)」「地域情報提供・地域文化発信」などといった機能を図書館が担うべきだ、と言っているのです。例えば、カフェを開業したいと思っている人が図書館に行って「起業・創業支援に関連する法律、会計、税務、特許等の制度を解説した資料の提供」や「起業・創業に関連する補助金・助成金の手続や関連行政窓口の案内及び申し込み手続資料の提供」といったサービスが受けられるようにする、というものです。

 なんだか難しい単語ばっかりですね。漢字ばっかりだし。役所の文書なので仕方がありません。とても大事な国の方針を決めようという文書なのですから。

 それまでの図書館は、「一般公衆の…教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資する」(図書館法第2条)といった抽象的な役割しか与えられていませんでした。だから、文部科学省のこんな文書を読んで「これからはもっと積極的に利用者の課題解決にアプローチしていかなくては」と考える図書館員もたくさんいたと思います。それが図書館のひとつの流れになっていました。以前の記事で紹介した埜納タオさんのマンガ『夜明けの図書館』に描かれる図書館員も、この流れの中にあるといっていいでしょう。主人公の司書は、図書館を訪れる利用者の様々な問題を解決していきます。図書館員が利用者の役に立つ職業として、図書館が社会の役に立つ施設として描かれています。当時は私も図書館員でしたから、自分がしていることが誰かの役に立つということを必死にアピールしようとしていました。

 でも、それは、商品経済の中で、労働力という商品である自分自身の価値を高めるための課題であったり、消費者としてより活発な消費活動をするための課題であったり、商品経済のプレーヤーとしてより優れたパフォーマンスができるようになるための課題であったり、どこかでカネ勘定につながっている課題の解決が大半を占めているように思うのです。そのときはそんなふうには思わなかったのですが、図書館を商品経済の中に組み込んでいく流れだったのかもしれません。

 館長さんはその先を行っておられた。というか、島全体がその先を行っているのかもしれません。そのときはピンとこなかったのですが、いまになってやっと館長さんの背中が見えてきた思いです。

 フェリーが着く港の近くに「研修交流センター」という、島の高校生がよく使う施設があって、そこも図書館の分館になっていました。高校のオープンスクールの日は、大勢の中学生が先輩高校生の話を眼を輝かせて聞いていた施設です。中学生たちが帰ったあとここを見学させてもらいました。そのあと、そこにおられた学校関係者の方(2024/4/6の記事で紹介した『未来を変えた島の学校』の著者のお一人)にご案内いただいて、高校の寮にある分館も見学させていただきました。その時は寮生のひとりがアテンドをしてくれたのですが、その彼が、自分たちはやりたいことがいっぱいあって本を読む時間が惜しい、というようなことを言ったうえで推薦本を尋ねてきたのです。さあここは図書館員の腕の見せ所、と気負ったのはいいのですが、うまく本が推薦できません。この時の経験には、島から帰った後も悶々とさせられました。自分の図書館員としての力のなさを突き付けられた思いでした。

 でもいまなら大丈夫です。本を読む時間が惜しいという彼に本を推薦する必要はありません。彼は、読書を通じた間接的な経験ではなく、実際のリアルな経験で満たされているのです。本を通じた著者とのコミュニケーションではなく、彼の周りにいる仲間や彼を支えてくれるいろんな方とのコミュニケーションで満たされているのです。本を必要としていない人に本が必要になるように仕向けることは、少なくとも私の役割ではありません。水を必要としない人に無理に水を勧めるのではなく、水が必要になったときにいつでも飲めるようにしておく。図書館の役割はそういうものかもしれません。リアルな世界でのコミュニケーションに疲れたときのセーフティーネットとしての図書館。それが、館長が仰る「サードプレイスとしての図書館」ではないかと思うのです。それは、何か具体的な課題に対して解決策を提示するような、本に喩えれば、読めば答えが書かれている実用書のような、そんな施設ではありません。けれど、人が人として存在していくために必要な施設なんだと思うのです。

 Cafe & Library は、複雑化した現代社会のコミュニケーションからいったん解放される空間を提供するというコンセプトを持っています。一見、何の課題も解決してくれていないように見える図書館なんだけれど、実は、現代社会が抱えるとても深刻な問題の解決に取り組んでいる。利用する人が、労働力という商品としてではなく、人として存在することが出来る時間と空間を提供する。Cafe & Library の私設図書館としての側面は、そういうものなんだろうと思います。




瀬尾まいこ. 2009. 『図書館の神様. 筑摩書房.

学校の中で生き辛さを抱える生徒にとって保健室が一種の避難所として機能している事例をよく耳にしますが、この小説では、図書館がそうした役割を担っているように描かれています。これの面白いところは、生き辛さを抱えているのは、生徒ではなくて先生の方で、それを文芸部の生徒が救ってくれるというところなんです。

海士町の高校の近くには、おそらく新進の建築士が設計したと思われる斬新なデザインのホテルがあって、そこにも図書館の分館があります。ホテルの方に聞くと、ときどき高校生がやってきて静かに本を読んでいるとか。島に向かうフェリーの中から、彼らのバイタリティーには圧倒され続けてきましたが、彼らも人間ですから、ときには疲れて休息を必要としているのかもしれません。

2024/04/07

島まるごと図書館

 海士町の「島まるごと図書館」という取り組みは、もともと図書館のなかった町のいろいろな施設に、図書館的な機能を持たせて、それらをネットワーク化することで、町全体を図書館にしようというものです。中心になったのは公民館の図書室ですが、その他は、地区の集会所だとか、病院の待合室だとか、フェリーの着く港の待合所だとか、学校の図書室だとか、飲食店だとか、民家だとか、そういうところの本棚を開放して、そこを「図書館だ」と言ってしまう。そんな取り組みだったようです。2007年に始まって、3年後には中央図書館ができます。その過程で蔵書整備も進められるのですが、それも町ぐるみで取り組まれたようです。いろんな方が関わって出来た図書館なのです。

 中央図書館が出来てからは「分館」という位置づけになったそれぞれの施設では、病院であればお医者さんが、飲食店であれば店主さんが、民家であればその家の方が持っておられる本を読むことが出来るのですが、その他に、中央図書館の蔵書の一部が配架されていて、貸出もできるようになっています。どういう本を配架するのがよいのかは、中央図書館の司書さんの腕の見せ所。この方の家ならこんな本、このお店ならこんな本というのが、実によく考えられて配架されています。もし自分がこの島に移住してきて、自分の家を図書館の分館にしたら、いったいどんな本を配架してくださるのだろう、と考えるだけでワクワクします。

 人口2千人ほどの町に、図書館が30館近く。100人に1館以上の割合であって、それぞれのところに、図書館の本だけで数百冊。私蔵の本をあわせるとその数倍の本があるのですから、町中に図書館があるというよりも、図書館の中に町があるようなところです。2泊3日の予定で上陸した私は、その間に1館でも多くこれらを訪問したいと思っていました。しかし、そこでちょっと困ったことに気付きました。ホームページによると、中央図書館の休館日は火曜日で、それ以外は10時から6時まで開館しているということが書かれているのですが、分館の開館時間については一切書かれていません。島に滞在するのは秋の3連休。病院の待合所だったら、ずっと閉館かもしれません。それでまず中央図書館に行って、分館の開館時間を尋ねることにしたのですが、そこで、どうやら島外から来た私が考えるのとは全く違うシステムなんだということが分かりました。対応してくださったのは館長さんでした。当時は大学の図書館に配属されていましたので、名刺を渡して、図書館の見学をしたい旨を伝えたところ、そこから分館に電話をしていただいて、「ここはいまおられます」「ここは夕方ごろならとおっしゃっています」というような案内をしてくださるのです。集会所などの場合は、朝、どなたかが鍵を開けて、夕方に締めるといったことをされているようなので、いつでも利用できるようなのですが、その代わり、日中は誰もおられません。せっかくなので、人がおられるところに行ってお話も聞いてみたいと思い、紹介された2軒の民家を訪ねることにしました。

 1軒目は、島外から移住されて農業を営みつつ、リモートワークで生計を立てておられるご一家。2軒目は、夫さんを横浜に残して、小学生を連れて2年間の島留学をさせておられているお母さんでした。おそらくこれまでもに、いろんな方が来られて、その度に、どうして移住したのか、どうして島留学をさせようと思ったのか、繰り返しお話をされておられるのだと思います。お話されるのにとても慣れておられて、しかも自信に満ちた語り口。1軒目の方は海外で仕事をされた経験もあるとのこと。2軒目の方は、お子様に、いまこの年齢でしか経験できないことを経験させたいと思って、海外も含めていろいろなところを見て回ったが、最終的にこの島にしたとのこと。日本の中でも同様の取り組みをしているところはあったけれど、どこも役所の人が立派なパンフレットを見せながら説明してくれるところを、この島では、いま現に島留学をしている人が、雄弁に語ってくれるのを見て、ここに決めた、というようなことを仰っていました。昨日の記事に書いた隠岐島前高校と同じですね。

 この島では、都会では考えられないような濃密なコミュニケーションがあると思いました。ただ濃密というのではなく、普段の私の周りにあるコミュニケーションとは全く異質のコミュニケーションだと思うのです。市場経済の中で労働力としての自らの価値を高めるためのコミュニケーションではなく、人が人らしく生きるために必要なコミュニケーション。カネ勘定と他人の評価に迎合するのではなく、それぞれの人が自分の考えを持って、相互に信頼しあえるコミュニケーション。その中心が高校であったり図書館であったりする。
いいなぁ
私も移住しようかなぁ
半ば本気でそんなことを考えたりもしました。自分の家を図書館にしたいという発想は、たぶん、この時に芽生えたのだと思います。




磯谷 奈緒子. (2016). 「離島の小さな図書館にできること─海士町中央図書館の歩み」. 青柳英治 編著, 岡本真 監修. 2016. 『ささえあう図書館. 「社会装置」としての新たなモデルと役割. 勉誠出版. 第2章, pp.33-52.

コミュニケーションの中心に図書館がある。これは、この島で何人かの方のお話を聞けばすぐに実感できることなのですが、これを読めば、島に行かなくても、それがどういうことかわかると思います。コミュニケーションの中心にあるということは、図書館が、人づくり、町づくりの中心にあるともいえます。移住してきた人が、図書館のない海士町なんて想像ができない、と仰るほど、この島では、図書館はなくてはならないものになっているのです。



2024/04/06

隠岐郡海士町

  私設図書館のことを語るのになくてはならないロールモデルは、島根県隠岐郡海士町の「島まるこご図書館」です。ここでご紹介する図書館は、海士町が運営する海士町中央図書館の分館ですので、図書館の分類でいえば「公共図書館」ということになるのですが、そんなことは大きな問題ではありません。

 海士町の図書館の取り組みは、2014年に「Library of the Year」として表彰されました。以来、全国からこの離島に図書館関係者が訪問しているのだそうです。私が訪ねたのは2020年の秋。夏季休暇に行くつもりだったのが、新型コロナウィルス感染症の大騒ぎで延期していたのです。その頃もコロナは猛威を振るっていましたが、人々の生活にはちょっと落ち着きが見え始めていました。

 図書館の話をする前に、海士町の話をしなければなりません。島根県沖に浮かぶ隠岐群島には、いわゆる「隠岐の島」といわれる道後と、その手前に、中ノ島、西ノ島、知夫里島からなる島前(どうぜん)諸島で構成されます。島前には、3つの島に、海士町、西ノ島町、知夫村の3町村があって、そのうち海士町に、島根県立隠岐島前高校があります。

 この隠岐島前高校というのがただの県立高校ではありません。全国から、この島の高校に通いたいという子供たちが集まってきて、親元を離れて、3年間の寮生活をしながら通う高校なのです。島を訪れた日はこの高校のオープンスクールの日。全国からこの高校を見学しようという中学生が島を訪ねて来ていて、島中の宿泊施設は超満員。そんなこととは知らず、手当たり次第に電話を掛けたりしていたのですが、どこも予約が取れないので、3軒目ぐらいに「何があるんですか」と聞いたところ、そんなことを聞かされて、町の観光協会に泣きついて何とか宿をとってもらったというような次第。

 そして当然のことながらフェリーもたいへんな混み具合。中学生と思しき少年・少女たちとその親御さんがわんさかと乗船していました。本土からは約3時間の船旅。そんな短時間にどんな子供なのか決めつけることは出来ないのですが、少なくとも、それぞれの郷里で何か問題を抱えて離島の高校に逃避するといった感じではありません。中には、1学年に何クラスもあるような学校で生徒会長をしていてもおかしくないような雰囲気の子供もいます。いや「子供」というより「青年」といった方がいいかもしれません。総じて、私が勤めている大学の学生よりも大人びている感じがしました。

 あとで、この高校の寮にある図書館の分館も見学させてもらったのですが、そのときアテンドしてくれた高校生も、とてもしっかりした人でした。高校のある丘の坂道を降りたところの集落に、高校生のための交流施設のような学習塾のようなところがあるのですが、そこにも図書館の分館があるので見学しようとしたところ、たくさんの中学生が現役の高校生と話をしている真っ最中でした。中に入るのはちょっと遠慮させてもらって、遠巻きに見ていたのですが、話をする高校生も、聞いている中学生も、とにかく目が輝いている。自信に満ちている。先輩高校生のこういう様子を見て、自分もそうなりたいという憧れを持って中学生が入学してくる。そして、その入学した人がまた次の中学生を呼び込む。そんな構造が出来上がっているのです。

 コミュニケーション能力というのは、このブログに通底するひとつのテーマですが、彼らのコミュニケーション能力は本当にすごい。それも、カネ勘定に汚れていない、純粋な、この島のコミュニティの中でより良く生きていくために必要な、そしてこの島のコミュニティをより良くしていくようなコミュニケーション能力だと思うのです。

 高校生だけではありません。人口2千人ほどのうち、約2割ぐらいが移住者なんだそうです。実際に住んでいないので分かりませんが、お話を聞いている限り、田舎にありがちな閉鎖的なコミュニティではなく、本当に開放的で、移住者が温かく受け入れられている。そしてそのコミュニティの中心に図書館があるようなのです。

 少し前置きが長くなってしまいましたが、次の記事で、この島で見たこと、体験したこと、思ったことを綴っていこうと思います。




山内道雄, 岩本悠, & 田中輝美. 2015. 『未来を変えた島の学校. 隠岐島前発ふるさと再興への挑戦. 岩波書店.

高校の生徒数が減る→教員が削減される→物理の授業が出来なくなる→理系進学希望者が島外に進学するようになる→高校進学を切っ掛けに離島する家庭が増える→高校の廃校→人口の減少→フェリーの減便→生活不安からさらに人口が減る→医療崩壊、行政サービスの崩壊→町村合併→集団離島

そんな暗い未来を変えるために高校を変える。プロジェクトX張りのドラマがそこにある。そして、確かに高校は変わった。島も変わった。

この記事を読んで海士町に興味を持たれた方、ぜひ、この本を読んでから行ってみてください。





2024/04/05

私設図書館

 いつの間にか読書カフェを作る方向に舵が切られているのですが、Cafe & Library 構想の最初の走り出しは「私設図書館」でした。それを自宅というプライベートな空間ですることには抵抗があって、ひとりの個人が作り出せるパブリックな空間としてのカフェを活用しながら、そこを私設図書館にする。それが Cafe & Library 構想の始まりなのです。

 ただ、ここで作ろうとしている図書館というものが何なのか。これにもいくつかのロールモデルがありつつも、やはり自分が作ろうとしているものは、それらとは違うもののように思います。

 そもそも「図書館」とは何なのか。例えば「日本大百科事典(ニッポニカ)」では、次のように説明されています。

図書館は、図書その他の資料を収集・保存し、一般あるいは特定の利用者のため、閲覧、貸出し、参考調査(レファレンス)などのサービスを提供する機関である。(中略) 図書館は設立主体によって学校図書館、大学図書館、公共図書館、専門図書館と分けられてきたが、後に国立図書館という種類を加えて考えるようになった。

 設立主体によって国立、公立、大学、学校と分類して、残りは「専門図書館」だというのであれば、「私設図書館」はすべからく「専門図書館」ということになるのですが、私が作ろうとしている Cafe & Library が専門図書館になるとはちょっと考えにくい。強いていうなら、私が手に取った本を並べているので、その本を見ることによって私の考え方とか人となりとかがよくわかる、という専門性はあるのですが、そうなると、むしろ図書館というよりも、資料館に近いかもしれません。

 図書館法という法律によると

この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする施設で、地方公共団体、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。

ということですので、これも私が作ろうとしている Cafe & Library を包摂するような定義ではありません。この条文をそのまま読めば、私設図書館を設立するには、社団法人か財団法人を設立しないといけないことになってしまいます。ただ図書館法第29条には「図書館と同種の施設は、何人もこれを設置することができる」とも書かれていますので、法人ではなくて個人でも設置できるのかもしれません。しかし、何のために私設図書館を作るのかといわれて「一般公衆の…教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資する」ため、なんて訳ではありませんし、そもそも来ていただく方を「一般公衆」などといって、そのマウントをとれるようなサービスも提供できません。

 ここからしばらく、読書カフェのことを考えながら、私設図書館のことについても考えていこうと思います。




埜納タオ 著. 2011. 『夜明けの図書館. 双葉社.

暁月市という架空の街の公共図書館に勤める司書が主役のマンガ。図書館を舞台に、司書同士や利用者との様々なコミュニケーションが描かれています。一般の方から見た図書館員のイメージは、物静かで内向的なイメージかも知れませんが、このマンガには、図書館に勤めている人が理想だと思う、コミュニケーションに対してとてもアクティヴな図書館員像が描かれていると思います。けれど、私が作ろうとしている私設図書館は、これとはかなり違う。蔵書だってそんなにたくさんある訳ではありませんので、こんなレファレンス・ニーズ(調べもののお手伝いをするニーズ、というようなことです)に応えられる訳はありません。

2024/04/04

おカネの壁

 カネ勘定で値踏みされる世界からの逃避場所として Cafe & Library を作るのに、そこでおカネを取ることを、自分の中でどう説明するのか。おカネを取れば、「いらっしゃいませ」と声を掛けるところからすべてが商行為ですから、そのお客さんからいくらおカネが取れるかということがすべての行動の基準になってしまいます。常に愛想よく振る舞い、けっしてお客さんに不愉快な思いをさせない。そんな行動が求められます。そういうことが嫌で Cafe & Library を作っているのに… そういうところから逃避したい人に来てほしいのに…。

 おカネを取れば、それを惜しんで来ない人もいます。カネ勘定と他人の評価で息苦しい思いをしている人の役に立ちたいのに、おカネが障壁になってしまう。

 でも待てよ。

 自分がやりたいことは、カネ勘定と他人の評価で息苦しい思いをしている人にそっと寄り添ってあげるとか、そっと背中を押してあげるとか、そういうことであって、誰彼構わず来店者を増やして、別に息苦しさを感じていない人に、このブログに書き綴っているような話を聞かせて息苦しい思いにさせることではありません。つまり、Cafe & Library に来てほしいターゲットは、最初に絞り込まれているのです。

 もしおカネを取らない施設なら、誰彼構わずやってきます。それは、本当にこの Cafe & Library を必要としている人にとっては、あまり歓迎されることではありません。おカネを取れば、本当にここに来たい人だけが来る。それによって、この Cafe & Library のコンセプトを理解して、それに共感できる人だけの世界が作れるかもしれません。

 以前に紹介したお気に入りのカフェは、価格設定は高めです。わざわざ他店よりも高いおカネを払ってでもその店に来たい人だけが行く。その店の価値を知っている人だけが行くのです。そう考えると、この店の場合は、おカネの壁が高いことが、そのお店の価値を高めていると言えます。

 これも以前の記事で紹介した彼岸の図書館は確かに無料ですが、交通の便がとても不便なところにあります。交通費だけでも、コーヒー1杯分では行けません。時間はかかる。交通費はかかる。それでコーヒーの1杯も出ないのですから、カネ勘定でその価値を測ろうという人には価値を見出すことはできない。やはり、その彼岸の図書館の価値を知っていて、わざわざそこまで行こうという人しか行きません。それと同じことを交通の便が良い町でやれば、誰彼なくやって来ることになりますから、思うような空間にすることは難しくなります。

 おカネの壁は、Cafe & Library のコンセプトに共感し、それを求めてやってくる人を拒む壁ではなく、Cafe & Library を必要としていない人に来場を思いとどまっていただくための壁。その壁のおかげで、たとえ短い時間であっても、世間から隔てられたユートピアがそこに出来るのかもしれません。

 そのことに確信を持っていれば、読書カフェと私設図書館のコンセプトは、矛盾せずにひとつの空間に溶けあえるのではないかと思います。おカネ欲しさに来場者に媚びたり迎合したりしないこと。価値が分からない人には、無理に価値を説明するのではなく、価値が分かってから来ていただくようにすること。そういうところがブレなければ、おカネを取ったからそれは商行為だ、とも言いきれませんし、それで Cafe & Library が市場経済に呑み込まれてしまう訳でもない。私の考え方次第なんです。


2024/04/03

Re-Communication

  Kさんは私の高校時代の同級生で、卒業したあとも付き合いが続いている友人です。Kさんは昔は会社員でしたが、30歳代で退職して、居酒屋を経営するようになり、いまは京都市内の自宅の1階を店にして、夫婦で切り盛りしています。卒業してからもう40年が経つのですが、これだけ付き合いが続いている理由のひとつは、彼が店を出していることだと思うのです。彼がどこかの会社に勤めているなら、彼と何か話をしようと思えば、日時と場所を調整して合わないといけません。彼が店を出しているおかげで、彼と話をしたいと思えばいつでも彼と会えるわけです。

 夫婦だけで切り盛りしている店ですから、5人も客が入ると雰囲気的にはもう満員。実際には20席ぐらいあったと思うのですが、そんなに人が入ると手が回りそうにありません。見たところ、ひとりか少人数のグループで来る人が多く、通りすがりの「一見さん」ではなくて「馴染みの客」ばかりのようです。Kさんにとっては、それはとても居心地がとてもいいのだそうです。どの人もKさんに興味や関心があって、Kさんと話をすることを楽しみに店に来てくれる。自分のことを好きな人に囲まれて、そういう人だけを相手にしていればいい。それがいいんだというような話をしてくれました。羨ましい限り。自分もそのような店を作りたいものです。

 先日、彼の店を訪ねて、自分の Cafe & Library の話をしていたのですが、どうも「脱・コミュニケーション」というコンセプトが上手く伝わらない。Kさんにとっては、店はコミュニケーションの場なので、それをしない店というのがイメージできない。ネットカフェとどう違うんだ。ネットカフェだって、ブースの中に閉じこもって普段の煩わしいコミュニケーションから解放されるじゃないか、というのです。きのうの記事で紹介した焙煎ワークショップなんかを引き合いに、やっぱりコミュニケーションをしようとしているじゃないか、なんてことも言われました。

 この場合、私が思っていることが伝わらないのは、相手が何か誤解をしているわけではありません。私に迷いとかブレがあるからなのです。それは以前の記事(2024/3/14付「此岸と彼岸」)で解決を試みて、結局未解決のままになった課題です。けれど、これもKさんと話したおかげで、少し出口が消えてきました。以前の記事(2024/2/26付「読書とコミュニケーション」)で、「De-Communication」の先に「Re-Communication」を目指すという趣旨のことを書いているのですが、それをきちんと他人に理解してもらえるレベルまで落とし込んで、自分なりに確信を深めていく必要があるのだと思います。

 人間は、誰かと協力したり、ときには組織や社会を構成しないと生きていくことが出来ませんから、コミュニケーションに対する欲求は本能的な欲求だと思うのです。ところが、市場経済の中で、言い換えればすべてがカネ勘定という記号に還元されてしまう世の中の仕組みの中で、商行為としてのコミュニケーションや、自分の労働力としての価値を高めるためのコミュニケーションばかりを求められ、そうしたコミュニケーションによって自分の価値を高めることが出来ないことを障害や病気として捉えるような社会が出来てしまうと、そこから逃れたいという欲求も生まれてくる。そういう欲求を持った人たちに「脱・コミュニケーション」の場を提供する。そこまではいいのですが、住み込みの施設を作るわけではありませんので、Cafe & Library に来た人は、その日のうちにそこを出ていかなければなりません。その戻る先が元の煩わしいコミュニケーションを求める社会だとすると、そうした「脱・コミュニケーション」の場を「消費」することが商行為の対象となってしまう。ネットカフェなんかはその典型だと思うのです。

 そこで大切なのが「Re-Communication」。コミュニケーションの再構築だと思うのです。Cafe & Library を出た後に戻る世界を、もともとその人がいた煩わしい世界の外に作って、そこに戻ってもらう。そうしないと、コミュニケーションによって息苦しい思いをしている人の本当のニーズには応えられないと思うのです。その「Re-Communication」の切っ掛けが読書であったり、焙煎ワークショップだったりする。そんな構図だと思うのです。

 それを押しつけがましくするのではなく、できるだけさりげなくやりたい。現代社会に息苦しさを感じるという問題を解決できるのは、その息苦しさを感じている当の本人しかいません。私が何か助言をして解決するわけではないのです。カウンセラーでもありませんから。だから、「新しいコミュニケーションの扉を開こう」などというキャッチコピーはやめて、「本と静寂が織りなす空間であなただけの時間を」などといった、静かな空間とゆっくり流れる時間をアピールする。それが前面にあるので、その背景にある構図は分かりにくいのですが、それは敢えて分かりにくくしているだけであって、私はちゃんとわかっていないと駄目なところです。

 ここへ来る人の背中をそっと押してあげる。

 それはあくまでも「そっと」であって、あまり力強く押してしまうと、その人を却って苦しめることになってしまいます。




2024/04/02

展示会

 大阪で、カフェや飲食店を対象とした展示会があったので行ってきました。食材、厨房機器、食器、什器、包装、レジ、衛生管理、Webページ作成など、飲食店が1軒ある背景にこれだけの人たちが関わっているのかと、改めて感心します。これからカフェを開業しようとしている人を対象としたセミナーなどもあって、出席者の数にも驚きました。講師によれば、カフェという業態は新規参入が容易な業態なんだそうです。確かに、これから板前になると思うと、修行している間に命が尽きてしまうかもしれませんが、カフェのマスターならなれそうだ、などと思うのは私だけではないようです。それだけに競争も激しくなります。自分自身は競争をするつもりではなくても、市場経済はそういう個人の思いとは裏腹にすべてをカネ勘定に呑み込んでいくもの。そういう競争の中で生き残っていくためには、というよりもその競争に巻き込まれないためには、他にない価値を提供してく必要があります。私の Cafe & Library に関して言えば、それも私設図書館の部分は脇に置いて読書カフェの側面だけを見れば、いかに他店にないようなコーヒーを提供するかということになりますが、裏返せば、コーヒー以外のところでいかに簡略化するかという問題でもあります。

 コーヒーに関して言うと、自家焙煎というのは気になっていたテーマです。ネットを見れば、家庭用の焙煎機が数万円から売られているので、そういうものに手を出すというのもひとつの手かもしれないのですが、展示会では、もう少しランクが上の「業務用」のものがいくつか展示されていました。最下位ランクでも数十万円。しかし、モノはしっかりしていますし、ユーザーを対象にした使い方のセミナーなどもやっているらしいので、これを持って市場参入というのもわるくはなさそうです。展示会では、実際にそれを扱わせてもらって、焙煎されたコーヒー豆を持って帰らせてくれました。

 そうやって展示されている焙煎機を触らせてもらって、この焙煎機を使った「焙煎ワークショップ」なんてことができないか、なんてことを思いつきました。私が展示会でやったように、Cafe & Library に来た方に焙煎機を操作してもらって、自分好みの焙煎をしてもらい、出来た豆を自分でミルして、自分でドリップする。余った豆は持って帰れる。どれぐらいの値段を付ければよいのかよく分からないのですが、他店ではないサービスなので、関心を持ってくださる方もおられるかもしれません。

 一方で、プロユースな冷凍の食材なども多数展示されていて、そういうものを使いながら、限られた人的資源(おそらく永遠に私一人)を有効に活用していく。なんだか経営者になったような気分です。経営者には違いないのですが。



2024/04/01

読書カフェ

 私が構想している Cafe & Library には、カフェという側面と私設図書館という側面があります。カフェとして経営的に成功することだけを目指しているわけではなく、私設図書館という存在にユートピアを求めているわけでもないのですが、それだけに、開業に向けた(「開館」といった方が良いのか?)構想を練り上げているいまは、ゴールが見えない暗闇の中で手探りをしているような苦しい状態です。カフェを作ると割り切ってしまえば、そのロールモデルはあります。こんなふうに本を並べているカフェを、一般に「ブックカフェ」というのだそうですが、その中には書店のように本を売っているカフェもあります。参考にしているカフェは、いずれも本の販売はしていなくて、「読書カフェ」を自称されています。そういう先輩カフェを見ていれば「こうなったら成功」というゴールも見えやすくなります。けれど、それではここまでこのブログで縷々(というかウダウダと)述べてきた構想とは異なるものになってしまいます。

 少し大袈裟な言い方をすれば、現代社会の問題を解決できるような、ここにしかない価値を作り出したいのです。いまの世の中を根本的に変えるような、何か革命のようなことを考えるのではないのですが、自分の周りのほんの小さな世界に、いまの世の中では解決できない問題を解決できるような空間を作り、いまの世の中に苦しんでいる人を解放できるような時間を提供したい、とそんなことをなんとなく考えて、思考の中を行きつ戻りつしているような状態になってしまいました。

 そんなときに、先日の記事(2024/2/27付「お気に入りのカフェ」)で紹介したカフェのマスターさんからメールをいただきました。このブログでお店の紹介させていただいたのですが、あるいはマスターがそういったことをあまり望まれていないのであれば、謝罪して記事を削除しなければ、と思って、先日、お店で名刺をお渡ししていたのです。マスターさんは、これまでに私が書いた記事を全部読んでいただいたうえで、この構想をたいへん好意的に受け止めていただいたようでした。構想が少し行き詰っていただけに、このメールがとても励みになりました。まるでラブレターをもらったように何度も読み返してお返事を書きました。いつか自分も、このマスターさんのように、自分の店に来た人の背中をそっと押してあげられるような存在になりたいと思いました。それが、自分の周りの小さな世界でいまの世の中の問題を解決する、ということなのかもしれません。

 ここまでは、時系列に沿って「妄想から構想へ」「構想の練り直し」とブログを更新してきたのですが、ここからはしばらく、ブックカフェとしてどうしたいのか、私設図書館としてどうしたいのか、並行してブログを更新していこうと思います。更新した順に読んでいくと、急に話が跳んでしまうことがあるのですが、いちおう、それぞれの記事に「ラベル」をつけて、第03章はブックカフェ、第04章は私設図書館のことを書いていきます。図書館って、雑誌とか新聞とかの記事だとか、収集した本に、こんなふうにラベル(「サブジェクトヘッダー」などというのですが)を付けるのが大事な仕事だったりするのです。図書館の職員だった者としては、こんなことがチョイチョイとできないとダメなんですが、果たして…。



2024/03/19

覚悟

  彼岸の図書館のような施設を運営するにもいろいろな覚悟が必要だと思うのですが、読書カフェを作りにも、やはりいろいろな覚悟が必要だと思うのです。図書館に来る人と違って、読書カフェに来る人はおカネを払います。おカネを払えば、その対価に見合ったサービスが得られたかということを値踏みします。おカネの多寡には関係ありません。自分が提供するサービスも、自分が作り出した空間も、そして自分自身も、そういう評価に晒されるのです。その評価はシビアです。そして常に減点法です。嫌なことがあれば二度と行こうとは思いません。
雰囲気も良かったし、コーヒーも美味しかったけれど、BGMが煩くて落ち着かなかったな
と思えば、もうその人は来ないと思っていた方がいいでしょう。「BGMは煩くて落ち着かなかったけど、雰囲気も良かったし、コーヒーの美味しかったから、また行こう」と好意的に評価してくれるとは、あまり期待しない方がいい。そうなるのは、常に来訪者の方が立場が上だからです。来訪者は、たとえ少額であったとしても、自分はおカネを払っているんだという意識でそこに来ます。それに見合うサービスが提供されるのは当然のことなのです。
そういう世界から離れるために Cafe & Library を作りたいのに
でも、ここは自分で覚悟を決めないといけない。おカネ儲けのためにカフェをやるのではないという確信と、こういう場所を作りたいんだという明確なヴィジョンを持っていれば、だれも来てくれなくて売り上げが伸びないからといって、もともとのヴィジョンを捨てて、万人受けするような、つまりは何処にでもあるようなカフェを作ることもないと思うのです。

 ひとつのカギとなる考え方は、なにか「成功する」ことを考えるのではなく、「失敗しない」道を、ゆっくりといつまでも歩いていく、ということではないか。例えば、このカフェのために借金を重ねて老後の生活がままならなくなるというのは「失敗」ですが、このカフェで何百万も稼ぐとか、カフェの規模を大きくするとか、人を雇って事業を拡大するとか、そういう「成功」を考える必要なんてないのだと思うのです。人間は欲が深いですから、ちょっと軌道に乗ってきて稼ぎが出てくると、もっと稼ごうと思ってしまう。そうなると、最初のヴィジョンなんてどうでもよくなって、稼ぐためにはどうしたらいいか、ということばかりを考えてしまうんです。そうすると、おカネを払う来評者に迎合することになる。インスタ映えするメニューを作るなんてことを考えたりしてしまう。
そうじゃないんだ。
自分が提供したい時間と空間を作り出すための能力と機会を、この市場経済の中で手に入れていく。けれど、その市場経済の中に身を投じるのではなく、その市場経済から離れることが出来る時間と空間を作るのだ。カッコよく言えばそういう覚悟かも知れません。もっとベタに言えば「成功しない覚悟」かも。

 いや、それ以上に、自分の思いとは関係なく、カネ勘定と他人の評価に、学校や会社というクッションなしに、直接自分が晒されるという覚悟。その中にあっても自分を見失わないという覚悟。妄想から始まって、やっとそんなことが分かってきたように思います。




和田竜 著. 2010. 『のぼうの城. 小学館.

石田三成率いる2万人を超える豊臣軍を前に、わずか3千人で忍城に籠城する成田長親。成田家は、北条に味方すると見せかけて、裏では豊臣に内通している。

「戦いまする」


和戦いずれかを問う光成の使者に、決定的な一言を発する長親。唖然とする家臣。

「強者の侮辱にへつらい顔で臨むなら、その者はすでに男ではない。強者の侮辱と不当な要求に断固、否と叫ぶ者を勇者と呼ぶなら、紛れもなくこの男は、満座の中でただ一人の勇者であった。(上pp.181-182)

しかし、この一言によって、領地も領民も地獄の戦いに巻き込まれていく。領主たるもの、このような私情で軽はずみに戦いをしてはならぬもの。ところが、この領主は、とにかく人に愛されている。

「のぼう様が戦するってえならよう、我ら百姓が助けてやんなきゃどうしようもあんめえよ。」(上p.212)

こうして、関東平野の小さな城で戦国史に残る戦が始まる。

時代小説というのは、残されている史料をもとに作者が創作したフィクションです。この小説には、その時代を支配する論理に一矢報いようとすることに対する作者の共感が込められているのだと思います。