2026/05/04

小さな図書館の役割

 来館された方に、自分がその空間に存在することが許されているという感覚を提供したい。それが「本の庵」の目指すところです。その感覚は、この館長日記で何度か紹介している、奈良県東吉野村の私設図書館ルチャ・リブロに初めて行ったときに私が感じた感覚なのです。

 では、現代社会において私たちが、自分がそこに存在してはいけないと思うような感覚、言い換えれば息苦しさや生き辛さは何に由来しているのでしょう。先日から何度かにわたって、日本の社会がハイ・コンテキストな社会であること、ハイ・コンテキストなコミュニティは効率的である一方、過度に空気を読むことを強いるコミュニティであること、そうしたコミュニティでのコミュニケーションが内向きで閉鎖的なものになる危険性を持っていることなどを述べてきました。この文脈で考えると、ハイ・コンテキストなコミュニティで自分だけがそのコンテキストを共有していない感覚、あるいはそのコンテキストに溶け込めない感覚、そういう感覚が、何かそこに自分が存在できないような感覚の原因じゃないかと思うのです。

 そんな息苦しさや生き辛さを抱えている人に「本の庵」が提供できることはふたつあると思います。ひとつはコンテキストからの解放。もうひとつはコンテキストの差し換えです。

 過度に「空気を読む」ことを強いられるというのは、コンテキストを押し付けられていることにほかなりません。なぜ押し付けられるのかと言えば、そうすることによってコミュニケーションが効率的になる、言い換えれば無駄な説明なしに意思疎通ができると、周囲の人たちみんなが思っているからです。コミュニケーションも意思疎通も必要ではない空間があれば、コンテキストを押し付けられる必然性はありません。これが、これまで「脱・コミュニケーション」と言ってきたコンセプトの先にあるものだと思うのです。

 でも、ただ「脱・コミュニケーション」というだけなら、ひとりカラオケでも、ひとりでスーパー銭湯の湯に浸かることでも、コミュニケーションから自分を解放することはできます。「本の庵」の存在意義は、本を並べることによって、「脱・コミュニケーション」の先に「自分と向き合う」「自分を取り戻す」という余韻が生まれるところじゃないかと思うのです。それは「自己との対話」と言ってもいいと思います。一見コミュニケーションとは離れているように見えても、実は自分自身とコミュニケーションをしているのです。

 「本の庵」は、図書館とはいっても蔵書は約700冊。それも私がいままでに読んだ本、あるいは読んでいないとしても少なくとも何かの興味があって手にした本ばかりです。その蔵書には館長である私の思想が反映されています。主張の強い本もありますから、すべての本がすべての人に受け入れられるわけではありません。でも、その中に1冊でも自分の心の中にあるものと響き合う本があれば、そこが自己との対話の起点になるかもしれません。そして記憶の中にあるその本の内容が、対話の主体である自分と対話の相手である自己との間に共有されたコンテキストとして、その対話を支えてくれると思うのです。

 公共図書館ではこんな偏った選書はできません。「図書館の自由に関する宣言」というのが定められていて、そこに「図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない」と明記されているのです。その基準でいえば、「本の庵」は蔵書構成に偏りのある「偏向図書館」なのですが、その偏りこそが「本の庵」の強みであり存在価値だと思うのです。


2026/05/03

アメリカ人と英語で喧嘩する

 日本が「Japan as No.1」と持て囃されていた時期に、ある企業の経営者が必要な人材について問われてこう答えたそうです。

アメリカ人と英語で喧嘩できる人材

「英語で」と言っているのですから、殴り合いの喧嘩ではありません。互いを激しく非難しあうような口論のことでしょう。そしてその口論の末にお互いに納得する形で合意点を見出す。そんなことも含意されているのだと思います。

 ここに「コミュニケーション能力」のひとつのモデルがあります。相手は外国人。先日の記事で例にしたようなM-1グランプリや日本の芸能人をコンテキストにした会話ではこちらの意図を伝えることはできません。しかも会話に使われる言語は相手の母語。圧倒的にアウェイな状態に置かれています。そこで相手と対等に自分の意見を主張する。非難されても、その主張を引っ込めるのではなく、意見の違いがどこから生じているのかを冷静に判断しながら、その違いを埋めていく。その先に合意を見出し、相手との間に深い信頼関係を構築する。こういう能力も確かにコミュニケーション能力だと思うのですが、きのうの記事で論じたような「空気を読む」力としてのコミュニケーション能力とは明らかに異なる種類の能力です。

 このような、コンテキストのないところで発揮されるコミュニケーション能力と、濃密なコンテキストがあるところで発揮されるコミュニケーション能力を比較して、どちらがより重要か、あるいはどちらがより高度なのかを論じることには意味はありません。その能力が発揮される場面が全く異なるからです。前者のコミュニケーション能力は、コミュニティの外にいる人とのコミュニケーションで発揮されることが多いでしょう。アメリカ人とまでは言わなくても、別の会社の人や同じ会社であっても初めて会う人と何かを協働でやらなくてはいけないようなときです。後者のコミュニケーション能力は、そのコンテキストを共有しているコミュニティの中で発揮される能力と言えます。どちらも必要です。ただ、学生が就職活動で自分のコミュニケーション能力をアピールしたり、人事考課でコミュニケーション能力を云々したりするときに念頭に置かれているものが、後者の、コミュニティ内のコミュニケーション能力に偏ってはないでしょうか。

 自称「コミュ障」の私自身について言えば、語学力こそありませんが、コンテキストが少ない方を相手に自分の意見を主張し、相手の意見も引き出しながら対等に話すことについてはそれなりにやってきたという自負はあります。そのことによって深い信頼関係を結ぶことができた場面をいくつも思い返すことができます。ただそれはコンテキストがないからこそ可能なコミュニケーションだったのです。

 しかし、日本のコミュニティでは、一般的に強い主張は疎まれます。口論になれば「まあまあ」と割って入る人がいて、その人の顔に免じて主張を取り下げることで場を納める。そういうことができることを以って「コミュニケーション能力」と言っていることが圧倒的に多いと思うのです。「コミュ障」の私にはそれが出来ない。サラリーマン人生のすべては不遇だったわけではないですが、こうして整理していけば、不遇だった理由はどうもこれだったように思えてきます。


2026/05/02

コンテキストと空気

 きのうの記事では、コンテキストがあることで、言葉以上の意味が伝わる事例を紹介したつもりです。記事を書きながら私自身も、「M-1グランプリ」と「デジタル・デトックス」のコンテキストがないとこんなにも面倒で非効率なコミュニケーションになるのかと実感しました。テレビ画面に映し出される俳優が持っているコンテキストによって商品を魅力的にプロモーションしているCMは、ユニクロやハズキルーペだけではないはずです。もしも番組の合間に挟まれるCMが、みんなテレビショッピングのようなものばかりだったら、きっとみんな疲れてしまうと思います。テレビを見る人がいま以上に減ってしまうかもしれません。

 ここで紹介したコンテキストは、日本という社会全体で共有されているものですが、もう少し小さな単位でそれぞれ別々に共有されているものもあると思います。よく「世代のギャップ」などと言われるものがあります。Z世代なら通じる話が私のような年配者には通じない。それは世代によってコンテキストが異なるからだと思うのです。

 もっと小さなコミュニティ、たとえば学校だとか会社といった単位でも、それぞれ固有のコンテキストがあると思います。毎日聞かされる先生の声を真似て何か言えば、それだけでみんなが大笑いになる。それは、その先生の声を毎日聞かされているコミュニティでしか成り立たないコミュニケーションなのです。当然、会社のような組織でも、何が肯定的に評価され、誰が言っていることが信用されるかという暗黙知が共有されています。同業であってもこうしたコンテキストが同じというわけではありませんから、それぞれの会社に「社風」というものが形成されていきます。

 こうしたコンテキストは、それぞれのコミュニティに属する人同士のコミュニケーションを、円滑で効率的なものにします。転校や転職で新しいコミュニティに入ろうとするときには、そのコミュニティのコンテキストを素早く理解し、そこで交わされているコミュニケーションを、表面だけでなく深層から理解していく。そういった能力が試されます。これは言い換えれば「空気を読む」ということです。ハイ・コンテキストなコミュニティで「空気を読む」ことが「コミュニケーション能力」と同義で扱われることには、それなりに理由があるようです。

 きのうの記事で例示した「コミュニケーション・デトックス」は「M-1グランプリ」というコンテキストがないと成り立ちません。「M-1グランプリ」を見ていない人はこの会話からは排除されます。同じようなことは学校や会社のコミュニティでも言えます。コンテキストを共有しきれていない人、つまり空気の読めない人は会話から排除され、延いてはコミュニティからも排除される。ハイ・コンテキストなコミュニティとは、円滑で効率的なコミュニケーションを可能とするコミュニティであると同時に、必死に空気を読まないと仲間に入れてもらえない閉鎖的なコミュニティだとも言えます。