2026/05/04

小さな図書館の役割

 来館された方に、自分がその空間に存在することが許されているという感覚を提供したい。それが「本の庵」の目指すところです。その感覚は、この館長日記で何度か紹介している、奈良県東吉野村の私設図書館ルチャ・リブロに初めて行ったときに私が感じた感覚なのです。

 では、現代社会において私たちが、自分がそこに存在してはいけないと思うような感覚、言い換えれば息苦しさや生き辛さは何に由来しているのでしょう。先日から何度かにわたって、日本の社会がハイ・コンテキストな社会であること、ハイ・コンテキストなコミュニティは効率的である一方、過度に空気を読むことを強いるコミュニティであること、そうしたコミュニティでのコミュニケーションが内向きで閉鎖的なものになる危険性を持っていることなどを述べてきました。この文脈で考えると、ハイ・コンテキストなコミュニティで自分だけがそのコンテキストを共有していない感覚、あるいはそのコンテキストに溶け込めない感覚、そういう感覚が、何かそこに自分が存在できないような感覚の原因じゃないかと思うのです。

 そんな息苦しさや生き辛さを抱えている人に「本の庵」が提供できることはふたつあると思います。ひとつはコンテキストからの解放。もうひとつはコンテキストの差し換えです。

 過度に「空気を読む」ことを強いられるというのは、コンテキストを押し付けられていることにほかなりません。なぜ押し付けられるのかと言えば、そうすることによってコミュニケーションが効率的になる、言い換えれば無駄な説明なしに意思疎通ができると、周囲の人たちみんなが思っているからです。コミュニケーションも意思疎通も必要ではない空間があれば、コンテキストを押し付けられる必然性はありません。これが、これまで「脱・コミュニケーション」と言ってきたコンセプトの先にあるものだと思うのです。

 でも、ただ「脱・コミュニケーション」というだけなら、ひとりカラオケでも、ひとりでスーパー銭湯の湯に浸かることでも、コミュニケーションから自分を解放することはできます。「本の庵」の存在意義は、本を並べることによって、「脱・コミュニケーション」の先に「自分と向き合う」「自分を取り戻す」という余韻が生まれるところじゃないかと思うのです。それは「自己との対話」と言ってもいいと思います。一見コミュニケーションとは離れているように見えても、実は自分自身とコミュニケーションをしているのです。

 「本の庵」は、図書館とはいっても蔵書は約700冊。それも私がいままでに読んだ本、あるいは読んでいないとしても少なくとも何かの興味があって手にした本ばかりです。その蔵書には館長である私の思想が反映されています。主張の強い本もありますから、すべての本がすべての人に受け入れられるわけではありません。でも、その中に1冊でも自分の心の中にあるものと響き合う本があれば、そこが自己との対話の起点になるかもしれません。そして記憶の中にあるその本の内容が、対話の主体である自分と対話の相手である自己との間に共有されたコンテキストとして、その対話を支えてくれると思うのです。

 公共図書館ではこんな偏った選書はできません。「図書館の自由に関する宣言」というのが定められていて、そこに「図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない」と明記されているのです。その基準でいえば、「本の庵」は蔵書構成に偏りのある「偏向図書館」なのですが、その偏りこそが「本の庵」の強みであり存在価値だと思うのです。


2026/05/03

アメリカ人と英語で喧嘩する

 日本が「Japan as No.1」と持て囃されていた時期に、ある企業の経営者が必要な人材について問われてこう答えたそうです。

アメリカ人と英語で喧嘩できる人材

「英語で」と言っているのですから、殴り合いの喧嘩ではありません。互いを激しく非難しあうような口論のことでしょう。そしてその口論の末にお互いに納得する形で合意点を見出す。そんなことも含意されているのだと思います。

 ここに「コミュニケーション能力」のひとつのモデルがあります。相手は外国人。先日の記事で例にしたようなM-1グランプリや日本の芸能人をコンテキストにした会話ではこちらの意図を伝えることはできません。しかも会話に使われる言語は相手の母語。圧倒的にアウェイな状態に置かれています。そこで相手と対等に自分の意見を主張する。非難されても、その主張を引っ込めるのではなく、意見の違いがどこから生じているのかを冷静に判断しながら、その違いを埋めていく。その先に合意を見出し、相手との間に深い信頼関係を構築する。こういう能力も確かにコミュニケーション能力だと思うのですが、きのうの記事で論じたような「空気を読む」力としてのコミュニケーション能力とは明らかに異なる種類の能力です。

 このような、コンテキストのないところで発揮されるコミュニケーション能力と、濃密なコンテキストがあるところで発揮されるコミュニケーション能力を比較して、どちらがより重要か、あるいはどちらがより高度なのかを論じることには意味はありません。その能力が発揮される場面が全く異なるからです。前者のコミュニケーション能力は、コミュニティの外にいる人とのコミュニケーションで発揮されることが多いでしょう。アメリカ人とまでは言わなくても、別の会社の人や同じ会社であっても初めて会う人と何かを協働でやらなくてはいけないようなときです。後者のコミュニケーション能力は、そのコンテキストを共有しているコミュニティの中で発揮される能力と言えます。どちらも必要です。ただ、学生が就職活動で自分のコミュニケーション能力をアピールしたり、人事考課でコミュニケーション能力を云々したりするときに念頭に置かれているものが、後者の、コミュニティ内のコミュニケーション能力に偏ってはないでしょうか。

 自称「コミュ障」の私自身について言えば、語学力こそありませんが、コンテキストが少ない方を相手に自分の意見を主張し、相手の意見も引き出しながら対等に話すことについてはそれなりにやってきたという自負はあります。そのことによって深い信頼関係を結ぶことができた場面をいくつも思い返すことができます。ただそれはコンテキストがないからこそ可能なコミュニケーションだったのです。

 しかし、日本のコミュニティでは、一般的に強い主張は疎まれます。口論になれば「まあまあ」と割って入る人がいて、その人の顔に免じて主張を取り下げることで場を納める。そういうことができることを以って「コミュニケーション能力」と言っていることが圧倒的に多いと思うのです。「コミュ障」の私にはそれが出来ない。サラリーマン人生のすべては不遇だったわけではないですが、こうして整理していけば、不遇だった理由はどうもこれだったように思えてきます。


2026/05/02

コンテキストと空気

 きのうの記事では、コンテキストがあることで、言葉以上の意味が伝わる事例を紹介したつもりです。記事を書きながら私自身も、「M-1グランプリ」と「デジタル・デトックス」のコンテキストがないとこんなにも面倒で非効率なコミュニケーションになるのかと実感しました。テレビ画面に映し出される俳優が持っているコンテキストによって商品を魅力的にプロモーションしているCMは、ユニクロやハズキルーペだけではないはずです。もしも番組の合間に挟まれるCMが、みんなテレビショッピングのようなものばかりだったら、きっとみんな疲れてしまうと思います。テレビを見る人がいま以上に減ってしまうかもしれません。

 ここで紹介したコンテキストは、日本という社会全体で共有されているものですが、もう少し小さな単位でそれぞれ別々に共有されているものもあると思います。よく「世代のギャップ」などと言われるものがあります。Z世代なら通じる話が私のような年配者には通じない。それは世代によってコンテキストが異なるからだと思うのです。

 もっと小さなコミュニティ、たとえば学校だとか会社といった単位でも、それぞれ固有のコンテキストがあると思います。毎日聞かされる先生の声を真似て何か言えば、それだけでみんなが大笑いになる。それは、その先生の声を毎日聞かされているコミュニティでしか成り立たないコミュニケーションなのです。当然、会社のような組織でも、何が肯定的に評価され、誰が言っていることが信用されるかという暗黙知が共有されています。同業であってもこうしたコンテキストが同じというわけではありませんから、それぞれの会社に「社風」というものが形成されていきます。

 こうしたコンテキストは、それぞれのコミュニティに属する人同士のコミュニケーションを、円滑で効率的なものにします。転校や転職で新しいコミュニティに入ろうとするときには、そのコミュニティのコンテキストを素早く理解し、そこで交わされているコミュニケーションを、表面だけでなく深層から理解していく。そういった能力が試されます。これは言い換えれば「空気を読む」ということです。ハイ・コンテキストなコミュニティで「空気を読む」ことが「コミュニケーション能力」と同義で扱われることには、それなりに理由があるようです。

 きのうの記事で例示した「コミュニケーション・デトックス」は「M-1グランプリ」というコンテキストがないと成り立ちません。「M-1グランプリ」を見ていない人はこの会話からは排除されます。同じようなことは学校や会社のコミュニティでも言えます。コンテキストを共有しきれていない人、つまり空気の読めない人は会話から排除され、延いてはコミュニティからも排除される。ハイ・コンテキストなコミュニティとは、円滑で効率的なコミュニケーションを可能とするコミュニティであると同時に、必死に空気を読まないと仲間に入れてもらえない閉鎖的なコミュニティだとも言えます。


2026/05/01

コミュニケーション・デトックス

  「本の庵」のコンセプトは「脱・コミュニケーション」。これを最近「コミュニケーション・デトックス」と言い換えたのです。するとすごいですね。すぐに「自分と向き合うんですね」という反応が返ってくる。こういう会話を「ハイ・コンテキストな会話」というのだそうです。会話の当事者の間で共有されている暗黙知に依存して成り立つ会話、とでもいいましょうか。もしこういう暗黙知がなければどうなるでしょう。例えば、こんな説明をすれば会話が成立するでしょうか。

毎年12月に放送される、漫才師の日本一を決める「M-1グランプリ」という番組で、昨年、決勝戦に進出したドンデコルテというコンビが「デジタル・デトックス」をネタにした漫才を披露した。そこでデジタル・デトックスをすると自分と向き合うことができるといいつつ、低収入で充実した生活をしているとは言い難い自分にとっては、そんな現実と向き合う必要などなく、むしろスマホの中にある虚構の世界に没頭する方が幸福でいられるといったことを力説する。その説明が、まるで新興宗教の勧誘やマルチ商法の売り込みを思わせるような、言葉巧みで軽妙なところが面白い。それだけでなく、ある意味で現代社会の問題に切り込む視座も持っていて、漫才の面白さを超える面白さを持っていた。

この説明で意味は分かってもらえるかもしれません。けれど面白さは伝わらないでしょう。話している私と、それを聞いた相手の方が、それぞれ同じ番組を見ていて、同じ漫才を面白いと思った経験を共有しているからこそ、「コミュニケーション・デトックス」のひとことで私が「本の庵」でやろうとしていることが伝わる。コンテキストがあることによって、言葉のもつ表面的な意味以上の情報を伝えることができるのです。しかし一方でこの会話は、コンテキストを持っていない人を会話から排除することになる危険性も持っています。M-1グランプリを見ていない人にはどうも居心地のわるい会話になってしまいます。

 以前、とある大学の先生から、日本の社会はハイ・コンテキストな社会だ、ということを聞いたことがあります。当時放送されていたテレビCMを例に「あれは欧米では何を言いたいのか理解してもらえない」とおっしゃっていました。いまでいえば綾瀬はるかさんのユニクロのCMなんかを例に挙げればいいのでしょうか。

 ユニクロといえば、シンプルなデザインでスタイリッシュ、しかもお手頃価格、という情報は、CMの制作者と視聴者の間で共有されています。CMでは、綾瀬はるかさんがユニクロの商品をスタイリッシュに着こなし、画面の隅に商品名とその価格も表示して、「ほら、スタイリッシュでしょ」「お手頃価格でしょ」という情報を伝えます。でも、このCMで伝えられるもっと大事な情報はそんなことではなく、「ユニクロは安物ではない」「ダサくない」というイメージだと思うのです。「あの綾瀬はるかさんが着ているんだ」「こんな素敵な人と会う時にユニクロのジャケットで行っても恥ずかしくないんだ」。そういうことを伝えたいのだと思うのです。それが伝わるのは、綾瀬はるかさんの持っているイメージを制作者と視聴者が共有しているからです。逆の言い方をすれば、そういうコンテキストを呼び起こせる人を起用しないと成り立たないCMなのです。

 少し古い例ですが、ハズキルーペのCMにも、起用されている俳優さんの持っているコンテキストが活かされています。あのCMを見ると「こんな細かい文字も読める」「踏みつけても壊れない」といった商品の機能を説明しているように表面的には思えます。けれどもっと深層では「この眼鏡を使っていることはダサくない」というメッセージが伝わっていると思うのです。

 私には欧米人の知り合いがいないのですが、その先生によると、欧米人はこういうCMをみても何が言いたいのかがわからない。日本でもよくあるテレビショッピングのように、商品の特性や機能を詳しく説明し、価格を示して、いかにこの商品を購入することが有益かを直接的に訴える。そういう伝え方でないと伝わらないのだそうです。そういう欧米人にハズキルーペのCMを見せても「細かい字が読めるんだ」「踏んでも壊れないんだ」という表面的なことしか伝わらない。反対に日本のようなハイ・コンテキストな社会で、ユニクロの商品やハズキルーペをテレビショッピングのようなCMでプロモーションしても「ダサい」というイメージが伝わるばかりじゃないかと思うのです。

 以前の記事で、世間でよく言われる「コミュニケーション能力」というのが、実は場の空気を読んで当たり障りのない会話ができるかどうか、というようなことに過ぎないのではないか、という話をしましたが、日本がハイ・コンテキストな社会であるということを念頭に入れると、いままで見ていたものの見え方が変わるかもしれません。


2026/04/22

価格と尊厳

 エマニュエル・カントというドイツ人の哲学者がいました。私は直接会ったことがないので、人伝に聞きかじったことに過ぎないのですが、彼がこんなことを言っているそうです。

目的の国においてはすべてのものは、価格をもつか、それとも尊厳を持つか、そのいずれかである。価格のもつものは、何か他のものがその等価物にされうる。それに対してあらゆる価格を超えていて、それゆえいかなる等価物も許さないものは、尊厳をもつ。

 コンビニや居酒屋のアルバイトがすべてそういうわけではないのですが、そういう仕事の中には比較的短期間のうちに辞めていく人が多いことを前提に雇われている人も多いと思います。辞めていけば、その人と同じ時給で求人を掛けて別の人を「補充」する。この労働力には「時給○○円」という価格がついていて、他の人によって代替が可能なのです。

 私は、先月退職した会社に30年以上勤めてきましたが、自分の仕事は簡単には代替できないと思ってきました。もちろんそれでは困るので、人事異動や係替えがあればその日から、自分のやる仕事の記録を作り始め、いつでも引継ができるように努めてきました。しかし、そうしたハウツーは引き継げても、それを実施するためにはスキルが必要です。さらにキャリアというものは人それぞれについているものですから、引き継ぐことはできません。例えば、取引先や先生方との信頼関係などといったものは、私の経験によって築き上げてきたものですから、年収1千万、2千万の後任者をアサインしても再現することは不可能なんです。私はそこに自分の「尊厳」があると自負してきました。しかし、会社はけっしてそれを認めませんでした。非正規雇用の方が退職した時の後任者の採用を、辞めていく本人の前でも新任者の前でも「補充」といって憚らない会社です。正社員の扱いもそれと大きくは変わりません。だから残念ながら、そこでは自分の尊厳を守ることはできないと思いました。

 本当に価値のある仕事とは何でしょう。例えば居酒屋に入って「ここの店はいい仕事しているね」と思ったり、何かの道具を使ってみて「これを作った人はいい仕事をしているね」と思ったりするとき、どちらかというと「価格」よりも「尊厳」でその仕事を評価しているのではないでしょうか。「この料理なら○○円を払ってもいい」とか「この道具には○○円の価値がある」ということではなく、この店でしか食べられない料理、その道具にしかない特性や性能。そういったものに対する称賛の思いが「いい仕事」という言葉に込められているのではないでしょうか。

 DIYで改装工事をしながらそんなことを思うのです。「あぁ、ここにいるとなんだか落ち着く」「ここにいると自分を取り戻していける気がする」。そう思っていただけるような場所をどのように作ればいいのか。どこにでもあるカフェではなく、どこにもない空間を提供したい。自分にしか提供できないものを提供したい。

 何か上手にキレイなものを作ろうとすると、どこにでもあるようなものに落ち着いてしまいます。でも、まったく新しいものを作っていこうとすると時間も費用もおそろしくかかってしまう。そんな中で開館までの試行錯誤を続けています。


2026/04/21

「仕事」の健全性

 現代社会では、多くのものが「商品」として扱われます。商品には価格がつき、その多寡によって価値が測られることになります。私たちの「仕事」も例外ではなく、その有益性が賃金の多寡によって評価されがちです。しかし、そのことが仕事の意味をどこかで歪めているのではないか、という気もするのです。

 最近読んだ本に、『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』(酒井隆史 著. 講談社. 2021)があります。そこでは、社会にとって必要性が疑わしい仕事や、本人ですら意味を見出しにくい仕事が数多く存在していることが指摘されています。そして興味深いのは、そういう仕事に限って報酬が高い、という点です。この本の内容をそのまま受け入れるかどうかは別として、例えば慢性的に人手不足といわれる介護の現場や、運転手不足で減便を余儀なくされている公共交通機関の状況を見ると、賃金という指標だけで労働力が適切に配分されているとは言いがたい側面があるように思えます。その仕事の価格、即ち賃金の多寡だけがその仕事の価値の尺度ではない。そう思えるのです。

 株式市場や商品先物市場で投機的な売買を繰り返す。そんな仕事で稼ぐには多くのノウハウや経験、人的ネットワークに支えられた情報などが必要です。ただ、そのようにして濡れ手に泡の如くおカネを稼ぐ仕事は価値のある仕事といえるのでしょうか。もちろん、それらの仕事が有益なものなのかどうかについては、その人なりの言い分もありますし、門外漢の私がそれを一方的に判断するのはよいことではありません。私がやろうとしている「本の庵」にしても、妻に言わせれば何の有益性も見出せない自分よがりでしかないのです。

 それでもこんなことは言えないでしょうか。仕事の価値を測るのに、金銭的対価の多寡だけではなく、別の軸があってもいいのではないか。それを仮に「健全性」とでもいいましょうか。金銭的には何の対価もなくても、何か人のためになっている。世の中を良くしようとしている。そういう仕事はあると思うのです。例えば、子供たちの登校時間に合わせて交差点で交通整理をすること。そこには金銭以外の対価があると思うのです。例えば感謝、賛同、称賛。そういった対価があるからこそ、それが仕事としての実感を得られる思うのです。

 そういえば、物理の時間に「作用・反作用」ということを習いましたね。仕事が「他のものに作用して、その状態を変化させること」とすれば、その反作用が必ずある。それは必ずしも言葉や報酬として返ってくるとは限りませんが、それでも「誰かのためになっている」と感じられる手応えがある。その手応えこそが、ここでいう「健全性」なのではないかと思うのです。

 「本の庵」を開くにあたって、収益性についてはほとんど考えていません。儲からないことは織り込み済みなので、「儲からなかったらどうしよう」という不安はあまりありません。ただ、「誰も来てくれなかったらどうしよう」という思いが、ときどき頭をよぎります。それは金銭的な問題というよりも、自分のしていることに対する「反応」がまったく返ってこないということです。つまり、自分の仕事が誰にも作用していないのではないか、という不安なのです。

 どうやら私にとって「仕事」とは、その反応がどこかから返ってくること、その手応えを感じられることなのかもしれません。


2026/04/20

藤ノ木の家での「仕事」

 きのうの記事でも触れましたが、2月前半に事実上、会社を退職してから、ほぼ毎日、朝の9時から夕方5時までは、「本の庵」になる予定の物件(所在地の旧町名に因んで「藤ノ木の家」と呼んでいる)に詰めています。工務店による改装工事もちょうどその時期に行われました。開業資金が潤沢ではないこちらの都合に気を利かせてくださって、工事は最小限にして、あとはDIYですることになりました。家一軒を丸ごとDIYでリフォームするようなものです。そんな訳でこのところは土日も関係なく毎日、日曜大工に勤しんでいる状態です。

 退職したので毎日が日曜日。そういう意味では「毎日、日曜大工」ということもできるのですが、これが「仕事」だとすると、毎日、休みなしに仕事をしているということもできます。

 きのうの記事で「仕事」の意味を「他のものに作用して、その状態を変化させること。特にその変化が有益である場合に用いられることが多い。」と解釈しました。「本の庵」そのものは、来館される方に「自分を取り戻す」時間を提供しようとしています。これは、来館された方に作用して、その方の状態を有益な方向に変化させることを企図していますので、胸を張って「仕事」といえます。改装工事はそのための準備ですから、やはり他に作用して有益な変化をもたらすための行為として「仕事」といっていいと思います。

 こんな解釈もできます。毎日やっている作業は、藤ノ木の家に作用して、その家を図書館やカフェのサービスが出来る状態に変化させていること。こう解釈しても「仕事」の定義には当てはまります。

 しかし、先述の「仕事」の語釈は、変化が有益であることを念頭に入れています。「本の庵」でやろうとしていることを有益だと思うかどうか。それによっては、私が毎日休みなしにしていることも、これが完成して始めようとしていることも「仕事」になったりならなかったりします。妻が「カフェでも図書館でもいいけど、ちゃっと他で仕事してや」という背景には、収入があるかどうかというだけではなく、「本の庵」でやろうとしていることの有益性そのものに対する懐疑的な見方があるのだと理解することも出来ます。

 夫婦のような身近な関係の中でも、「その仕事が有益かどうか」をめぐって評価が必ず一致するとは限りません。たとえば家事のように、日常の中で繰り返される行為であっても、そのやり方や質については、それぞれの基準があり、他者からは十分に評価されないこともあります。例えば、食事の片づけをしていると、妻から、水の出し過ぎだの洗剤の使い過ぎだの洗った食器の並べ方が乱雑だのと小言ばかりを聞かされる。そんなことはありませんか。自分では有益だと思っていることが、別の人から見るとそうではない。そうしたズレは、特別なことではなく、むしろどこにでもあるものなのかもしれません。

 ある仕事が有益かどうか。多くの場合、自分の仕事は有益だと信じられていますが、それを他人から見たときにその有益性が必ずしも理解されるわけではありません。そこが、仕事に関係する「生き辛さ」「居心地のわるさ」のもとになっているように思えます。


2026/04/19

「仕事」って何?

 先月末で予定通り定年退職をしました。その約2か月前から有給休暇を連続で取得して、事実上の「失業者」にはなっていたのですが、3月末をもって名実ともに「失業者」になりました。毎日、家でダラダラと過ごしてしまわないように、朝の9時から夕方の5時までは勤務時間と考えて、「本の庵」になる予定の藤ノ木の家で過ごしています。最初のうちは思索する時間ばかりが長かったのですが、最近では何かを作るために手を動かしている時間が圧倒的に長くなりました。日が長くなったこともあって5時を過ぎて「残業」することも、土曜日や日曜日に作業をしていることも珍しくはありません。なかなか完成が見通せないのですが、なんとか5月中には図書館として機能するところまでは漕ぎつけ、それからキッチン回りの整備や食器や調理器具の手配を進めていく。正式に開館するまでに「無料見学会」などと称して前宣伝もしていきたい。開館しても儲かる訳ではないので、年金が手に入るまではどこかに勤めに出て生活資金を稼ぐ予定です。

 さて、この生活は「仕事をしている」ことになるのでしょうか。

 「本の庵」は、事業として考えれば儲からないカフェ。DIYでやることにはついついこだわりが出てしまって、費用的に節約ができているのかも怪しいところです。この初期投資が果たして回収できるのか。一方で妻には「ちゃっと仕事してや」と再三言われています。この「仕事」というのはおカネを稼いでくることに他なりません。でも、おカネを稼ぐことと仕事をすることは同義なのでしょうか。それは違うと思うのです。本来は違うのに無意識のうちにそれを同じとみなしてしまっている。それが生き辛さの原因にもなっているんじゃないかと思うのです。

 広辞苑によると「仕事」には三つの語釈が書かれています。

①する事。しなくてはならない事。特に、職業・業務を指す。②事をかまえてすること。また、悪事。③力が働いて物体が移動した時に物体が移動した向きの力の成分と起動した距離との積を、力が物体になした仕事という。単位はジュール。

 広辞苑といえば権威ある辞書ですから、それに異論を唱えるのは勇気のいることですが、なんとなくしっくりこない。「消化酵素の仕事」というときの仕事はどれに該当するのか。普段手にするもの、例えば鋏や包丁などを使ってみて期待以上に使い勝手や良かったときに「いい仕事してるね」などと言ってみたりするのはどれなのか。そういうところが納得できなかったので他の辞書も調べてみました。三笑堂国語辞典によると次の通りです。

①身体や頭を使って働くこと ②職業 ③報酬を得るために働くこと ④その人の力量が発揮された成果 ⑤調理・細工

私のイメージする「仕事」という言葉の意味に少し近付いたように思うのですが、まだなんとなくしっくりきません。「身体や頭を使って働くこと」「報酬を得るために働くこと」という語釈がありますが、「働くこと」のうち「仕事」に該当しないものは何なのか。そこがしっくりこない理由なのかもしれません。それにこれらの語釈はすべて「人」が主体になっています。「消化酵素の仕事」などという用法は擬人的なものということになります。

 どちらの辞書にも「職業」という語釈が含まれています。おカネを稼ぐことです。おカネを稼がない仕事が否定されている訳ではありませんが、おカネを稼ぐ仕事の背後に隠されてしまっているように思うのです。それで、私なりの語釈を考えてみました。

他のものに作用して、その状態を変化させること。特にその変化が有益である場合に用いられることが多い。

この語釈だと、動作の主体は人に限定されません。「働き」という言葉の語釈にも近いのではないかと思います。主体を人として、有益さが金銭的に測られると想定すると「職業」という語釈につながります。

 この語釈をもとにして、何回かに分けて仕事について考察してみようと思います。


2026/04/18

専門性の罠

仕事も社会も複雑化している。だから、これまで以上に専門的な知識や能力が求められるようになっている

そうした言説を、無批判に受け入れてよいのか迷うところです。本当に仕事や社会は複雑になっているのか。自分が歳をとったので同じことでも複雑に感じるようになっているのかもしれません。加齢とともに複雑な仕事や社会の側面と接する機会が増えたのかもしれません。その前に、そもそも「複雑化」とは何を指すのか。それによって、なぜ専門性が必要になるのか。こうした問いを突き詰めれば一冊の本が書けそうですが、ここではいったん脇に置き、「専門性」そのものについて考えてみます。

 「専門的能力」や「専門的知識」と聞くと、特別な訓練や教育を受けた人だけが持つ強み、というイメージがあります。ところが、その強みが必ずしも報われるわけではありません。

 昨日の記事で触れたように、経理の仕事であっても簿記の知識や経験が求められないことがあります。私自身も、専門的な知識や能力が都合よく使われることはあっても、それが正当に評価されることはほとんどありませんでした。それどころか、「仕事は誰でもできるようにしておかなければならない」と言われ、例えばWordの差込機能を使って仕事を効率化すると、「そんな専門的なやり方をするな」と否定されることすらあります。

 中小企業の社長が大学院を卒業したような優秀な技術者を使いこなせない、というようなことならよくありそうな話です。しかし、私が経験した限りでは実態は深刻です。ひとりひとりの社員がどんな専門性を持っているのかを組織的に把握する仕組みはありませんし、上長も本当のところは把握していません。そして、その職場の仕事を遂行するためにどんな専門性が必要なのかについて、誰も示すことができていません。そしてその「専門性」と言われる内容も、簿記の知識やWORDの差込印字のレベルなのです。

 どうしてこんなことになったのでしょうか。

 「複雑化」という言説には、たしかに一理あるように思えます。新しい商品やサービスが生まれれば、それに伴って新しい知識が必要になります。これまでにはなかった問い合わせやクレームにも対応しなければいけません。非正規雇用や派遣制度の拡大は、労務管理を複雑にしました。補助金や助成金の制度が増えれば、それに対応する業務も増えます。こうして新しい仕事が次々と生まれていくことを「複雑化」と呼ぶことはできるでしょう。

 しかし、この流れは今に始まったことではありません。昔から制度や仕組みは増え続けてきました。ただ、その流れがコンピュータの普及によって加速し、人の対応能力を超えるスピードになっている、という側面はあるかもしれません。

 そして現代では、この「複雑化」に正面から向き合わなくても済む便利な言葉があります。それが「専門性」ではないか、と思うのです。

 「専門性」とは、日常的には扱わなくてもよいが、いざというときに必要になるもの——そんな位置づけで語られることがあります。この「日常的には扱わなくてもよい」という点が重要です。

 1990年代以降、大企業の現場では非正規雇用や業務委託が急速に進みました。その結果、正社員は実務から離れ、日常的に専門的な仕事を担わなくなっていきました。実務の多くは非正規雇用に委ねられ、まとまった仕事は外部に委託される。そうした環境の中で、正社員は専門性を身につける機会そのものを失っていったのです。そして、そんな環境でスポイルされた正社員がいま管理職に就いているのです。

 「専門的能力」や「専門的知識」を基準に人を評価することは、本来とても難しいことです。それを活かすにも、評価するにも、同程度の専門性が必要になるからです。ところが、実務から離れたまま管理職になった人に、それができるはずがありません。

 そこで、いくつかの振る舞いが生まれます。

 第一に、自分が専門的な知識や能力を持っていないことの正当化です。たとえば、異動してきた上長が「自分は素人だから、分かるように説明するのは君の責任だ」と言うような場面です。本来は部下の教育は上司の役割ですから、その意味ではこんなことを言う人は上司として機能していません。

 第二に、自分にできないことを、部下にやらせないことです。「仕事は誰でもできるようにしておいてほしい」と言いながら、自ら学ぼうともせず、育成もしません。その結果、最も能力の低い人や意欲の低い人に合わせて仕事の水準が決まってしまいます。

 そして最後に登場するのが、「コミュニケーション能力」です。しかもそれは、真の意味での対話力ではなく、上長にとって居心地のよい空気をつくれるかどうか、という基準です。これなら、専門性を持たない上長でも評価ができます。

 こうして重用されるのは、能力や意欲よりも、その場の空気に適応する「お調子者」です。その人たちが管理職となり、同じ基準で人を評価していく。いったんこの構造が出来上がると、組織を立て直すことは極めて困難になります。

 昨日述べた「コミュニケーション能力」偏重と同じように、「専門性」が活かされない、あるいは報われないという状況もまた、特定の会社に限った問題ではないように思われます。


2026/04/17

コミュニケーション能力の罠

 いまさら勤めていた会社のことをわるくいうつもりはないのですが、同じようなことはどこでも起きているように思うので筆を執りました。私が何に苦しめられていたのか。それを考えてここに至ったのです。

 その会社では、とにかく「コミュニケーション能力」が重視されていました。コミュニケーション能力があれば何をやっても許される。コミュニケーション能力がなければ何をやっても報われない。そんな風土でした。しかし、その「コミュニケーション能力」の実態は「場の空気を読んで、それを乱さない」といったことでしかなく、正しいことを主張しようとしたり間違いを正そうとしたりすれば、たちまち「コミュ障」のレッテルを貼られてしまう。それが実情でした。

 私の最後の職場での担当は経理関係の仕事でした。正社員3人と非正規雇用11人のチームでした。非正規雇用の人の中には数ヶ月で辞めていく人もいて、ほぼ常に採用人事が行われていました。派遣社員は人材派遣会社から派遣してもらうのですが、直接雇用の契約社員も「紹介予定派遣」という制度を利用して、求人は人材派遣会社に任せっぱなしでした。上長は、人材派遣会社が短期間で辞める人ばかりを送ってくると、不満の矛先をそちらに向けていました。たまたま上長の話がそのことに及んで、こんなことを言いました。

ぼくは、経理の仕事だからといって、簿記の知識だとか経理事務の経験だとか、そんなことは必要でないと言っている。強いて言うならコミュニケーション能力かな。

 どんな仕事でもコミュニケーション能力は必要です。しかし営業や接客に比べて経理の仕事は、コミュニケーション能力というよりも、正確に仕事をこなす能力だとか論理的な思考能力だとか月末などの繁忙期でも冷静に根気よく仕事をしていく素養だとか、そういった能力がより求められる仕事ではないかと思うのです。コミュニケーション能力に自信がなくて営業や接客の仕事に就業することを躊躇する人でも、経理の仕事なら自分に向いているかもしれない、と考えて就く仕事かもしれません。採用する側もそうした適性を汲んで「この仕事はきっと貴方に向いていますよ」とアプローチすることで、仕事と人をマッチングさせられるのだと思うのです。上長の言ったことは、図らずも人が定着しない理由を明らかにしたものと言えます。

 求人の段階で求められる能力や人物像が示されなければ、人材派遣会社も適切な人を紹介できません。実際には、豊富な経験や専門的な知識を持った方も来られていましたが、それが活かされることはありませんでした。特別な知識や経験は不要ということは、その人がそれまでに蓄積してきた知識や経験を否定することにもなります。経験や能力のある人にとっては、これは耐え難いことだと思うのです。

 さらに言えば、「専門知識は不要」ということは、「誰でもいい」ということでもあります。実際にこの上長は、後任者の採用のことを「補充人事」といって憚りませんでした。採用された人が、自分がただの“穴埋め”なのだと感じても仕方がありません。

 それでもなお「コミュニケーション能力」が求められる。そしてその実態は、当たり障りのない会話で場を和ませたり盛り上げたりすること、要するに上長にとって居心地のよい空気をつくることにほかなりません。それが、コミュニケーション能力さえあれば何をしても許され、コミュニケーション能力がなければ何をしても報われない職場風土を作ります。これは非正規雇用の方だけの問題ではなく、正社員の問題でもあります。そして上長もまたそういった風土の中で「コミュニケーション能力」を買われて上長になっているのですから、制度的・組織的に「確立された」風土といっていいと思います。

 こうした状況は、決してひとつの会社だけの問題ではないように思えます。同じようなことが、私の勤めていた会社以外のさまざまな会社でも、経理部門以外の様々な職場で起きているように思うのです。そしてこの「コミュニケーション能力」偏重が、仕事そのものの質を、大袈裟に言えば日本経済の屋台骨を、あるいは社会全体を、政治の世界でさえも、少しずつ蝕んでいるのではないか。そんな不安を覚えます。

 なぜこのようなことが起きるのか。この点については、あらためて考えてみたいと思います。


2026/03/22

灯りが見つかる日

 きのうの記事で、同時並行で進めていることのうちひとつも完成まで辿り着いていないことに気を揉んでいる、ということを申し上げたのですが、ときどき、そんなことがきっかけで深い不安に陥ってしまったり、なんだかわけのわからない憤りを感じたりすることがあります。こういうのは誰にでも普通にあることなのでしょうけど、もしかすると私が持って生まれた「性(さが)」なのかも知れません。

 今日は照明器具を何とかしようと京都まで行きました。ネット通販でアンティークなランプシェードを購入したのですが、これに合うソケットが、ホームセンターにも家電量販店にもないので、ここならあるだろうと思ったのです。お店の人に聞いてみると、ソケットにシェードを固定する方法は主に2種類あって、この店で扱っているのはシェードの上の部分をネジ3本で外側から固定するタイプが中心。通販で買ったものはシェードに空いた穴をソケットに通して下からネジを締めて支えるタイプ。このタイプのソケットもないことはないのですが、結構なお値段で、種類も限られています。買ってもよかったかもしれませんが、いまひとつ納得感がなくて、無駄足になることを承知のうえで買うのを断念しました。まあしかし、固定する方法が2種類だということがわかっただけでも、探しやすくなります。

 そんなことを考えながら藤ノ木の家に帰ってネット検索。しかし、もうすでにさんざん検索はしているので、気に入ったものが見つかるはずもありません。ふと室内を見ると机の脚が放置されています。通販サイトに掲載されていたものとは別の製品で、かつ2本セットを4点買っているのに4本しか届かず、それもおそらく輸送中の衝撃で凹んでしまって使い物にならない机の脚が、捨てるに捨てられず置かれています。そもそもこいつから運気が下がっていったようで忌々しく思えてきます。

いかん。またネガティヴな方に気持ちが向いている。

 気を取り直して、きょうは机のことは考えず、照明のことだけを考えることにしました。ホームセンターに行けば電灯は売っています。いっけん昔の白熱灯みたいな形ですが、中身はLEDライト。昔のフィラメントと違って、ガラスの中を真空にする必要はないはずなので、加工がしやすいのでしょう。いろんな形状のものが売られています。ソケットがないとどうしようもないのですが、とりあえず電球だけでも買っておこう、とそのホームセンターに向けてお出掛け。その途中で「もしかしてあそこにあるかも」と行ったのが、雑貨屋さんというか、雑貨も扱っている家具屋さんというか、ガーデニング用品、什器、カーテン、食器、衣服、小物など、いろんなものを扱っているお店。量販店にはない独特の趣向が凝らされているものばかりを扱う店なのですが、ちょっとそこも見てみようと寄り道をしたのです。そしたら、以前は気が付かなかったのですが、店の照明はすべて売り物。ひとつひとつ形状が違っていて、シェード、ソケット、電球それぞれに値札が付いているではないですか。

ああ、これだ。

 価格もリーズナブル。電球もいろんな種類のものがあり、ホームセンターよりも豊富なラインナップ。もう目移りするぐらいです。店員さんの対応も丁寧。やっと巡り会えたような思いです。というか、前からその店は知っていましたし、つい最近は椅子を選びに行ってもいました。そのときに照明のことも考えていれば、こんなに思い悩むこともなかったのです。ひとりでやることには、こういう回り道がいっぱいあります。

結局ホームセンターには行かず、その店で店員さんのアドバイスを聞きながら、ソケットと電球を購入。実際に取り付けてみると、これがことのほか良くて、さっきまでのネガティヴな気持ちが一気にアゲアゲモードになりました。

 本の庵は「脱・コミュニケーション」を掲げていますが、この店員さんのような誠実な方と巡り合えると、とてもいい気持ちになれます。コミュニケーションのすべてを否定するわけではなくて、自分もこういう良質なコミュニケーションを提供して、来館される方にポジティヴな気持ちになっていただけるといいなと思います。


2026/03/21

同時並行思考の重み

 このブログを始めて2年以上が経ちますが、開館準備は先月からやっと本格化したところです。構想ばかりに時間を掛けてしまいましたが、最初は輪郭の定まらなかったものがやっと形になってきました。

 先月から、工務店による改装工事が入りました。水回り、窓ガラスの取り換え、内窓の設置、押入れのなかの造作工事など、ちょっと素人ではできないところを中心に、項目を絞り込んで実施してもらいました。あとはDIYです。とはいってもこれがなかかな進みません。設計図は出来るのですが、そこから先の作業が回り道ややり直しばかり。人に頼めば早くて仕上がりもきれいなのですが、DIYはどうしても素人臭さがあって、時間も掛かり、もしかするとおカネも掛かっているのかもしれません。それに考えることがあまりにも多すぎて、次々にいろんなことが気になりだして、結局、何も決められていない、なんて日も珍しくありません。それをいくつも同時並行で考えていかないといけないのですが、そんな状態で1週間、1ヶ月という単位で時間が過ぎると、焦りや不安といった気持ちが出てこないわけでもありません。

 いまやっていることを書き出すと、だいたい次のことをやっています。

  1. 庭に芝生を植える準備
    なぜこれがいちばん最初なんだ、と自分でも思うのですが、いちばん時間を取っています。秋に一度、鍬を打って雑草の根を取っているのですが、再び、今度は剣スコで40~50センチの深さまで掘って根を一掃し、排水溝を掘って廃材を埋めたり、芝の根が畑まで入り込まないように区切りを付けたり、均したり施肥したり…。これをやっている間は無心になれますので、つい時間を掛けてしまいます。
  2. 看板の製作
    捨てられていた足場板をきれいに塗装し、外灯とアクリルフォトスタンドを取り付け、ブロックに挟んで看板にする予定です。部材の到着待ちです。このアイデアを思いつくまでに紆余曲折がありました。
  3. 机の製作
    そもそも机のレイアウトをどうするかで紆余曲折があったのですが、もうこれで大丈夫、と思って部材の購入を進めています。天板はほとんど衝動買いですぐに買って塗装をしたのですが、通販で購入した脚が不良品で、交換をもとめているのになかなか届かず、作業が止まっています。机ができたら、各席の卓上灯の選定と購入、そこへの電源ケーブルをどうするか、席と席の間の間仕切りの製作、ブラインドカーテンの設置などをしていかないといけません。
  4. 椅子の購入
    椅子は体重を預ける什器ですので、さすがにDIYでは危ないと思って、既製品を購入しました。けっして高価ではありませんが、来館いただいた方にゆっくりとお過ごしいただけるように、座り心地のいいものを選びました。これはすでに搬入済みです。
  5. ウッドデッキの製作
    最終的に、窓に向かって座っていただく座席レイアウトにしましたので、庭はきれいにしておかないといけません。ウッドデッキはあとで、と思っていたのですが、急遽、優先順位を上げて作業することになりました。現在、設計が終わって、来週、材木屋さんに相談するところ。塗料や金具などはネットで購入して、DIYで組み立てます。ウッドデッキができれば、いろいろな工作作業をウッドデッキの上でできますので、作業効率が上がるかもしれません。
  6. 押入の改装仕上げ
    床と壁は工務店にお願いして、丈夫な合板やボードにしていただきました。あとは壁紙を貼ってください、と言われていたのですが、ボードを貼ったままの感じがよくて、これに塗料を塗って撥水処理したいと思っているところです。試しに塗った塗料は大失敗。塗料の種類を変えて再チャレンジする予定ですが、後回しになってしまっています。
  7. 押入書架と押入席の製作
    ボードへの塗装ができたら、書架と座席を製作します。押入だったところに設置する書架は、棚幅30センチの深い棚で、美術書や百科事典などの大型本が並べられる予定。この書架は、壁と床に固定します。ウッドデッキと同様、設計は出来ていて、来週、材木屋さんに材料の調達について相談予定です。
  8. 一般書架の製作
    一般書架は壁に沿って、ツーバイフォー材を使って、棚幅14センチで製作予定。文庫、新書、四六判の本が中心です。この書架は壁に固定されます。これも設計は出来ていて、材木屋さんとの相談待ちです。
  9. カーペットの採寸と調達
    押入書架が完成したら、室内の採寸をして絨毯を発注。これを敷き詰めます。
  10. 照明器具の選定
    ネット通販でアンティークなランプシェードを購入したのですが、これに合うソケットが、ホームセンターにも家電量販店にもありませんでした。来週、京都にある専門店に相談に行く予定です。
  11. 空調の設置
    これはさすがにDIYではできません。家電量販店にお願いするしかないのですが、まだ検討も出来ていません。空調を発注するときに、いっしょに換気扇の取り換えとレンジフードの取り付け、換気扇周りの電源工事もお願いする予定です。
  12. 洗面所とトイレの仕上げ
    洗面所は工務店さんにお願いしてお洒落に改装していただきました。塗装などはDIYでということになっていましたが、無事に完了。トイレは、改装の必要はないのですが、たわしやトイレットペーパーの置き場などを確保する必要があり、ホームセンターで適当なものを買ってきて置くようにしました。トイレの扉は、ドアノブの交換を含む補修が必要。洗面所の入口には扉がないのですが、これだとトイレに入るところが閲覧室から丸見えなので、扉を製作して取り付けます。
  13. 玄関回りの検討
    傘立ては庭に捨てられていた一升瓶ケースに色を塗って、水受けトレーや底マットを付けて完成。スリッパとスリッパ置き場を用意しないといけません。下足箱を置くスペースがないので、靴を持って入っていただけるような工夫が必要です。

 これだけのことを並行して考えるというのは、なかなかにたいへんなこと。そうかといって、ひとつづつ片づけていこうとすると、部材の調達がままならなくて作業が止まったり、雨が降ってきて外の作業ができなかったりすると、他の作業もすべてが止まってしまいます。同時には出来なくても並行してやっていくしかありません。

 以前の記事で、京阪津読書カフェ勉強会で京都のマスターさんから出てきた言葉として「店を支配する」という言葉をご紹介しました。細かいルールを決めてお客さんに守ってもらうことではなくて、その店のすべてのことについて、なぜそうなっているのかを説明できる状態にすることを「支配する」と仰っているのです。館長としてここを支配するには、ここに書いたことのすべてについて理由を説明しないといけない。たとえば、どうしてそのランプシェードにしたのか、どうしてその色のカーペットにしたのか、どうして机の色はこの色なのか。おカネをかけるということではなくて、どれも「テキトーにはしない」ということだとおもうのです。たぶんそれが開館したあとの自信につながるのではないかと思うのです。館長である自分が自信をもってその場を「支配」していなければ、館内にいてもどこか落ち着かないと思うのです。そのための手間だと思えば、ここで焦って手を抜くわけにはいきません。

 賢明な方はお気づきだと思いますが、ここまで準備をしてもカフェとしては機能しません。考えるキャパがもういっぱいで、これ以上は頭の中に入ってこないのです。とにかくいまのところ、私設図書館として機能させるところが第一目標。カフェはその後にしました。これでなんとか思考のキャパが溢れないようにしています。当初「2026年5月開館を目指して準備中」としていたのですが、なんとかそれまでに私設図書館としての体裁を整え、「無料見学会」などと称して来館者をお迎えできるといいなと思います。カフェ機能を含めた正式な開館はひとまず後回し。こうして考える順序を決めることで、少し穏やかな気持ちになれました。


2026/02/15

初めての失業と開館準備

 3月末で定年退職となるところ、貯まりに貯まった有給休暇を消化して、2月中旬に事実上の退職をすることとしました。サラリーマン人生の最後にしては不誠実な辞め方だとは思うのですが、これもいろいろ堪りかねる出来事の帰結。最後は何も振り返ることなく辞めてきました。

 3月まではお給料がもらえるのですが、生活としては事実上の失業者。ただそれではダラダラと過ごすばかりになってしまいますので、いちおうはけじめをつけて、朝9時から夕方5時までは勤務時間。同じダラダラするなら「本の庵」になる予定の「藤ノ木の家」で過ごすこととしました。「藤ノ木の家」は現在改装中。それと水道やガスの開栓、光ファイバーの接続など、毎日訪問者があって、開館に向けたいろいろな作業をしていただいています。

 退職すると、時間の流れだけでなく、物事の決め方だとか考えごとの作法だとか、そういうものがガラリと変わってしまいます。勤めていたころは他者からやることと期日が与えられていましたから、そこから逆算して、自分ができることをプロットしていくというようなことを無意識にしていました。予定調和的に適当なところに落とし込む。初めてやることでもある程度の先は見通せましたし、「ここまでなら出来る」という落しどころも掴むことができました。その感覚が違うのです。

 開業に向けて、あれもやりたい、これもやらなければ、とアイデアは次々に浮かんでくる。でもいざそっちに進めようとすると「本当にそれでいいのか」と自分にブレーキがかかってしまうのです。例えば机の並べ方なのですが、最初は学校の教室のようにみんなが同じ方向を向くように考えていた。けれどそのレイアウトを実現するには改装が大掛かりになるので、工務店さんのアドバイスもあって改装を最小限にできる案を考えた。それで部屋の中央に間仕切り付きの机を並べるレイアウトを考えて、そこに照明が当たるように天井の真ん中にダクトレールを付けてもらった。ところが窓の改装をしてもらうとこれがことのほか良く、それじゃみんな窓の方を向いて一列で座ってもらうレイアウトを考えた。窓に向かって座るということは庭を見て座るということだから、庭をきれいにしないといけない。ウッドデッキと芝生でどうするか考えないといけないと思った。昼間は窓からの明かりで本が読めるけど、日が沈めば暗くなる。ダクトレールは天井の真ん中に付けてしまったから各席に照明を付けないといけない。それじゃ机の天板の下にテーブルタップを隠してそこからクリップライトの電源を取ればいい。机の間仕切りはこんな感じで、読書会をやるときはこんなふうに席を移動させて、、、
もうアイデアだけなら暴走状態なのですが、それが暴走あるいは妄想だという自覚があるので、最初の一歩が踏み出せないのです。窓の方を向いて座ればいいと思いついたときには「よしっ」て思ったのですが、それまでに何度もイメージが変わっているので、これが本当の最終形なのか自分でも確信が持てない状況。勤めているときはそれでも期日があるので進めていかなければいけなかったのですが、期日がないというだけでこんなに決め方や作法が変わってしまうんですね。

 それに、ときどき勤めていた会社のことを思い出して、あれをしておけばよかった、ああ言ってやればよかったと逡巡する時間があります。もちろん考えても仕方のないことなのですが、それだけに思索には限りがありません。これは、本来なら開業に向けて前向きに考えごとをするべき時間を、後ろ向きな後悔で浪費している訳ですし、精神衛生上もよくありません。ただ止まっているだけでも前を向いて止まっているならまだ良いのですが、前が見えないがためについつい後ろを振り返ってしまうという状態なのです。

 先に退職した人の話によると、その人は退職してそのあとの当てがないのですが、「何とでもなるわ」と超楽観的。職がないとマンションを借りることも出来ないので、まだ籍があるうちに退職金を当て込んで新しいマンションへ引っ越したんだそうです。ソファーなどの什器は新しい部屋に合ったもので揃えたい。その他、新しい生活に関わるものはとにかく「こだわり」を以って選んだそうです。別にいつまでにという期日がある訳ではない。時間はいくらでもある。本当に気に入ったものに出会うまでとことん選んだというのです。

 「本の庵」に関して言えば、決めないといけないのは机だけではありません。キッチンのこと。食器のこと。そのまえにメニューのこと。書架のこと。本の並べ方。レジや会計のこと。靴箱や傘立てのこと。看板のこと。何から考えていいのかさえわかりません。この感覚を重圧と呼ぶのか、それとも「こだわりへの自由」と呼ぶのか。退職後の作法に慣れるのにはいま少し時間がかかりそうです。