2026/04/22

価格と尊厳

 エマニュエル・カントというドイツ人の哲学者がいました。私は直接会ったことがないので、人伝に聞きかじったことに過ぎないのですが、彼がこんなことを言っているそうです。

目的の国においてはすべてのものは、価格をもつか、それとも尊厳を持つか、そのいずれかである。価格のもつものは、何か他のものがその等価物にされうる。それに対してあらゆる価格を超えていて、それゆえいかなる等価物も許さないものは、尊厳をもつ。

 コンビニや居酒屋のアルバイトがすべてそういうわけではないのですが、そういう仕事の中には比較的短期間のうちに辞めていく人が多いことを前提に雇われている人も多いと思います。辞めていけば、その人と同じ時給で求人を掛けて別の人を「補充」する。この労働力には「時給○○円」という価格がついていて、他の人によって代替が可能なのです。

 私は、先月退職した会社に30年以上勤めてきましたが、自分の仕事は簡単には代替できないと思ってきました。もちろんそれでは困るので、人事異動や係替えがあればその日から、自分のやる仕事の記録を作り始め、いつでも引継ができるように努めてきました。しかし、そうしたハウツーは引き継げても、それを実施するためにはスキルが必要です。さらにキャリアというものは人それぞれについているものですから、引き継ぐことはできません。例えば、取引先や先生方との信頼関係などといったものは、私の経験によって築き上げてきたものですから、年収1千万、2千万の後任者をアサインしても再現することは不可能なんです。私はそこに自分の「尊厳」があると自負してきました。しかし、会社はけっしてそれを認めませんでした。非正規雇用の方が退職した時の後任者の採用を、辞めていく本人の前でも新任者の前でも「補充」といって憚らない会社です。正社員の扱いもそれと大きくは変わりません。だから残念ながら、そこでは自分の尊厳を守ることはできないと思いました。

 本当に価値のある仕事とは何でしょう。例えば居酒屋に入って「ここの店はいい仕事しているね」と思ったり、何かの道具を使ってみて「これを作った人はいい仕事をしているね」と思ったりするとき、どちらかというと「価格」よりも「尊厳」でその仕事を評価しているのではないでしょうか。「この料理なら○○円を払ってもいい」とか「この道具には○○円の価値がある」ということではなく、この店でしか食べられない料理、その道具にしかない特性や性能。そういったものに対する称賛の思いが「いい仕事」という言葉に込められているのではないでしょうか。

 DIYで改装工事をしながらそんなことを思うのです。「あぁ、ここにいるとなんだか落ち着く」「ここにいると自分を取り戻していける気がする」。そう思っていただけるような場所をどのように作ればいいのか。どこにでもあるカフェではなく、どこにもない空間を提供したい。自分にしか提供できないものを提供したい。

 何か上手にキレイなものを作ろうとすると、どこにでもあるようなものに落ち着いてしまいます。でも、まったく新しいものを作っていこうとすると時間も費用もおそろしくかかってしまう。そんな中で開館までの試行錯誤を続けています。


2026/04/21

「仕事」の健全性

 現代社会では、多くのものが「商品」として扱われます。商品には価格がつき、その多寡によって価値が測られることになります。私たちの「仕事」も例外ではなく、その有益性が賃金の多寡によって評価されがちです。しかし、そのことが仕事の意味をどこかで歪めているのではないか、という気もするのです。

 最近読んだ本に、『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』(酒井隆史 著. 講談社. 2021)があります。そこでは、社会にとって必要性が疑わしい仕事や、本人ですら意味を見出しにくい仕事が数多く存在していることが指摘されています。そして興味深いのは、そういう仕事に限って報酬が高い、という点です。この本の内容をそのまま受け入れるかどうかは別として、例えば慢性的に人手不足といわれる介護の現場や、運転手不足で減便を余儀なくされている公共交通機関の状況を見ると、賃金という指標だけで労働力が適切に配分されているとは言いがたい側面があるように思えます。その仕事の価格、即ち賃金の多寡だけがその仕事の価値の尺度ではない。そう思えるのです。

 株式市場や商品先物市場で投機的な売買を繰り返す。そんな仕事で稼ぐには多くのノウハウや経験、人的ネットワークに支えられた情報などが必要です。ただ、そのようにして濡れ手に泡の如くおカネを稼ぐ仕事は価値のある仕事といえるのでしょうか。もちろん、それらの仕事が有益なものなのかどうかについては、その人なりの言い分もありますし、門外漢の私がそれを一方的に判断するのはよいことではありません。私がやろうとしている「本の庵」にしても、妻に言わせれば何の有益性も見出せない自分よがりでしかないのです。

 それでもこんなことは言えないでしょうか。仕事の価値を測るのに、金銭的対価の多寡だけではなく、別の軸があってもいいのではないか。それを仮に「健全性」とでもいいましょうか。金銭的には何の対価もなくても、何か人のためになっている。世の中を良くしようとしている。そういう仕事はあると思うのです。例えば、子供たちの登校時間に合わせて交差点で交通整理をすること。そこには金銭以外の対価があると思うのです。例えば感謝、賛同、称賛。そういった対価があるからこそ、それが仕事としての実感を得られる思うのです。

 そういえば、物理の時間に「作用・反作用」ということを習いましたね。仕事が「他のものに作用して、その状態を変化させること」とすれば、その反作用が必ずある。それは必ずしも言葉や報酬として返ってくるとは限りませんが、それでも「誰かのためになっている」と感じられる手応えがある。その手応えこそが、ここでいう「健全性」なのではないかと思うのです。

 「本の庵」を開くにあたって、収益性についてはほとんど考えていません。儲からないことは織り込み済みなので、「儲からなかったらどうしよう」という不安はあまりありません。ただ、「誰も来てくれなかったらどうしよう」という思いが、ときどき頭をよぎります。それは金銭的な問題というよりも、自分のしていることに対する「反応」がまったく返ってこないということです。つまり、自分の仕事が誰にも作用していないのではないか、という不安なのです。

 どうやら私にとって「仕事」とは、その反応がどこかから返ってくること、その手応えを感じられることなのかもしれません。


2026/04/20

藤ノ木の家での「仕事」

 きのうの記事でも触れましたが、2月前半に事実上、会社を退職してから、ほぼ毎日、朝の9時から夕方5時までは、「本の庵」になる予定の物件(所在地の旧町名に因んで「藤ノ木の家」と呼んでいる)に詰めています。工務店による改装工事もちょうどその時期に行われました。開業資金が潤沢ではないこちらの都合に気を利かせてくださって、工事は最小限にして、あとはDIYですることになりました。家一軒を丸ごとDIYでリフォームするようなものです。そんな訳でこのところは土日も関係なく毎日、日曜大工に勤しんでいる状態です。

 退職したので毎日が日曜日。そういう意味では「毎日、日曜大工」ということもできるのですが、これが「仕事」だとすると、毎日、休みなしに仕事をしているということもできます。

 きのうの記事で「仕事」の意味を「他のものに作用して、その状態を変化させること。特にその変化が有益である場合に用いられることが多い。」と解釈しました。「本の庵」そのものは、来館される方に「自分を取り戻す」時間を提供しようとしています。これは、来館された方に作用して、その方の状態を有益な方向に変化させることを企図していますので、胸を張って「仕事」といえます。改装工事はそのための準備ですから、やはり他に作用して有益な変化をもたらすための行為として「仕事」といっていいと思います。

 こんな解釈もできます。毎日やっている作業は、藤ノ木の家に作用して、その家を図書館やカフェのサービスが出来る状態に変化させていること。こう解釈しても「仕事」の定義には当てはまります。

 しかし、先述の「仕事」の語釈は、変化が有益であることを念頭に入れています。「本の庵」でやろうとしていることを有益だと思うかどうか。それによっては、私が毎日休みなしにしていることも、これが完成して始めようとしていることも「仕事」になったりならなかったりします。妻が「カフェでも図書館でもいいけど、ちゃっと他で仕事してや」という背景には、収入があるかどうかというだけではなく、「本の庵」でやろうとしていることの有益性そのものに対する懐疑的な見方があるのだと理解することも出来ます。

 夫婦のような身近な関係の中でも、「その仕事が有益かどうか」をめぐって評価が必ず一致するとは限りません。たとえば家事のように、日常の中で繰り返される行為であっても、そのやり方や質については、それぞれの基準があり、他者からは十分に評価されないこともあります。例えば、食事の片づけをしていると、妻から、水の出し過ぎだの洗剤の使い過ぎだの洗った食器の並べ方が乱雑だのと小言ばかりを聞かされる。そんなことはありませんか。自分では有益だと思っていることが、別の人から見るとそうではない。そうしたズレは、特別なことではなく、むしろどこにでもあるものなのかもしれません。

 ある仕事が有益かどうか。多くの場合、自分の仕事は有益だと信じられていますが、それを他人から見たときにその有益性が必ずしも理解されるわけではありません。そこが、仕事に関係する「生き辛さ」「居心地のわるさ」のもとになっているように思えます。


2026/04/19

「仕事」って何?

 先月末で予定通り定年退職をしました。その約2か月前から有給休暇を連続で取得して、事実上の「失業者」にはなっていたのですが、3月末をもって名実ともに「失業者」になりました。毎日、家でダラダラと過ごしてしまわないように、朝の9時から夕方の5時までは勤務時間と考えて、「本の庵」になる予定の藤ノ木の家で過ごしています。最初のうちは思索する時間ばかりが長かったのですが、最近では何かを作るために手を動かしている時間が圧倒的に長くなりました。日が長くなったこともあって5時を過ぎて「残業」することも、土曜日や日曜日に作業をしていることも珍しくはありません。なかなか完成が見通せないのですが、なんとか5月中には図書館として機能するところまでは漕ぎつけ、それからキッチン回りの整備や食器や調理器具の手配を進めていく。正式に開館するまでに「無料見学会」などと称して前宣伝もしていきたい。開館しても儲かる訳ではないので、年金が手に入るまではどこかに勤めに出て生活資金を稼ぐ予定です。

 さて、この生活は「仕事をしている」ことになるのでしょうか。

 「本の庵」は、事業として考えれば儲からないカフェ。DIYでやることにはついついこだわりが出てしまって、費用的に節約ができているのかも怪しいところです。この初期投資が果たして回収できるのか。一方で妻には「ちゃっと仕事してや」と再三言われています。この「仕事」というのはおカネを稼いでくることに他なりません。でも、おカネを稼ぐことと仕事をすることは同義なのでしょうか。それは違うと思うのです。本来は違うのに無意識のうちにそれを同じとみなしてしまっている。それが生き辛さの原因にもなっているんじゃないかと思うのです。

 広辞苑によると「仕事」には三つの語釈が書かれています。

①する事。しなくてはならない事。特に、職業・業務を指す。②事をかまえてすること。また、悪事。③力が働いて物体が移動した時に物体が移動した向きの力の成分と起動した距離との積を、力が物体になした仕事という。単位はジュール。

 広辞苑といえば権威ある辞書ですから、それに異論を唱えるのは勇気のいることですが、なんとなくしっくりこない。「消化酵素の仕事」というときの仕事はどれに該当するのか。普段手にするもの、例えば鋏や包丁などを使ってみて期待以上に使い勝手や良かったときに「いい仕事してるね」などと言ってみたりするのはどれなのか。そういうところが納得できなかったので他の辞書も調べてみました。三笑堂国語辞典によると次の通りです。

①身体や頭を使って働くこと ②職業 ③報酬を得るために働くこと ④その人の力量が発揮された成果 ⑤調理・細工

私のイメージする「仕事」という言葉の意味に少し近付いたように思うのですが、まだなんとなくしっくりきません。「身体や頭を使って働くこと」「報酬を得るために働くこと」という語釈がありますが、「働くこと」のうち「仕事」に該当しないものは何なのか。そこがしっくりこない理由なのかもしれません。それにこれらの語釈はすべて「人」が主体になっています。「消化酵素の仕事」などという用法は擬人的なものということになります。

 どちらの辞書にも「職業」という語釈が含まれています。おカネを稼ぐことです。おカネを稼がない仕事が否定されている訳ではありませんが、おカネを稼ぐ仕事の背後に隠されてしまっているように思うのです。それで、私なりの語釈を考えてみました。

他のものに作用して、その状態を変化させること。特にその変化が有益である場合に用いられることが多い。

この語釈だと、動作の主体は人に限定されません。「働き」という言葉の語釈にも近いのではないかと思います。主体を人として、有益さが金銭的に測られると想定すると「職業」という語釈につながります。

 この語釈をもとにして、何回かに分けて仕事について考察してみようと思います。


2026/04/18

専門性の罠

仕事も社会も複雑化している。だから、これまで以上に専門的な知識や能力が求められるようになっている

そうした言説を、無批判に受け入れてよいのか迷うところです。本当に仕事や社会は複雑になっているのか。自分が歳をとったので同じことでも複雑に感じるようになっているのかもしれません。加齢とともに複雑な仕事や社会の側面と接する機会が増えたのかもしれません。その前に、そもそも「複雑化」とは何を指すのか。それによって、なぜ専門性が必要になるのか。こうした問いを突き詰めれば一冊の本が書けそうですが、ここではいったん脇に置き、「専門性」そのものについて考えてみます。

 「専門的能力」や「専門的知識」と聞くと、特別な訓練や教育を受けた人だけが持つ強み、というイメージがあります。ところが、その強みが必ずしも報われるわけではありません。

 昨日の記事で触れたように、経理の仕事であっても簿記の知識や経験が求められないことがあります。私自身も、専門的な知識や能力が都合よく使われることはあっても、それが正当に評価されることはほとんどありませんでした。それどころか、「仕事は誰でもできるようにしておかなければならない」と言われ、例えばWordの差込機能を使って仕事を効率化すると、「そんな専門的なやり方をするな」と否定されることすらあります。

 中小企業の社長が大学院を卒業したような優秀な技術者を使いこなせない、というようなことならよくありそうな話です。しかし、私が経験した限りでは実態は深刻です。ひとりひとりの社員がどんな専門性を持っているのかを組織的に把握する仕組みはありませんし、上長も本当のところは把握していません。そして、その職場の仕事を遂行するためにどんな専門性が必要なのかについて、誰も示すことができていません。そしてその「専門性」と言われる内容も、簿記の知識やWORDの差込印字のレベルなのです。

 どうしてこんなことになったのでしょうか。

 「複雑化」という言説には、たしかに一理あるように思えます。新しい商品やサービスが生まれれば、それに伴って新しい知識が必要になります。これまでにはなかった問い合わせやクレームにも対応しなければいけません。非正規雇用や派遣制度の拡大は、労務管理を複雑にしました。補助金や助成金の制度が増えれば、それに対応する業務も増えます。こうして新しい仕事が次々と生まれていくことを「複雑化」と呼ぶことはできるでしょう。

 しかし、この流れは今に始まったことではありません。昔から制度や仕組みは増え続けてきました。ただ、その流れがコンピュータの普及によって加速し、人の対応能力を超えるスピードになっている、という側面はあるかもしれません。

 そして現代では、この「複雑化」に正面から向き合わなくても済む便利な言葉があります。それが「専門性」ではないか、と思うのです。

 「専門性」とは、日常的には扱わなくてもよいが、いざというときに必要になるもの——そんな位置づけで語られることがあります。この「日常的には扱わなくてもよい」という点が重要です。

 1990年代以降、大企業の現場では非正規雇用や業務委託が急速に進みました。その結果、正社員は実務から離れ、日常的に専門的な仕事を担わなくなっていきました。実務の多くは非正規雇用に委ねられ、まとまった仕事は外部に委託される。そうした環境の中で、正社員は専門性を身につける機会そのものを失っていったのです。そして、そんな環境でスポイルされた正社員がいま管理職に就いているのです。

 「専門的能力」や「専門的知識」を基準に人を評価することは、本来とても難しいことです。それを活かすにも、評価するにも、同程度の専門性が必要になるからです。ところが、実務から離れたまま管理職になった人に、それができるはずがありません。

 そこで、いくつかの振る舞いが生まれます。

 第一に、自分が専門的な知識や能力を持っていないことの正当化です。たとえば、異動してきた上長が「自分は素人だから、分かるように説明するのは君の責任だ」と言うような場面です。本来は部下の教育は上司の役割ですから、その意味ではこんなことを言う人は上司として機能していません。

 第二に、自分にできないことを、部下にやらせないことです。「仕事は誰でもできるようにしておいてほしい」と言いながら、自ら学ぼうともせず、育成もしません。その結果、最も能力の低い人や意欲の低い人に合わせて仕事の水準が決まってしまいます。

 そして最後に登場するのが、「コミュニケーション能力」です。しかもそれは、真の意味での対話力ではなく、上長にとって居心地のよい空気をつくれるかどうか、という基準です。これなら、専門性を持たない上長でも評価ができます。

 こうして重用されるのは、能力や意欲よりも、その場の空気に適応する「お調子者」です。その人たちが管理職となり、同じ基準で人を評価していく。いったんこの構造が出来上がると、組織を立て直すことは極めて困難になります。

 昨日述べた「コミュニケーション能力」偏重と同じように、「専門性」が活かされない、あるいは報われないという状況もまた、特定の会社に限った問題ではないように思われます。


2026/04/17

コミュニケーション能力の罠

 いまさら勤めていた会社のことをわるくいうつもりはないのですが、同じようなことはどこでも起きているように思うので筆を執りました。私が何に苦しめられていたのか。それを考えてここに至ったのです。

 その会社では、とにかく「コミュニケーション能力」が重視されていました。コミュニケーション能力があれば何をやっても許される。コミュニケーション能力がなければ何をやっても報われない。そんな風土でした。しかし、その「コミュニケーション能力」の実態は「場の空気を読んで、それを乱さない」といったことでしかなく、正しいことを主張しようとしたり間違いを正そうとしたりすれば、たちまち「コミュ障」のレッテルを貼られてしまう。それが実情でした。

 私の最後の職場での担当は経理関係の仕事でした。正社員3人と非正規雇用11人のチームでした。非正規雇用の人の中には数ヶ月で辞めていく人もいて、ほぼ常に採用人事が行われていました。派遣社員は人材派遣会社から派遣してもらうのですが、直接雇用の契約社員も「紹介予定派遣」という制度を利用して、求人は人材派遣会社に任せっぱなしでした。上長は、人材派遣会社が短期間で辞める人ばかりを送ってくると、不満の矛先をそちらに向けていました。たまたま上長の話がそのことに及んで、こんなことを言いました。

ぼくは、経理の仕事だからといって、簿記の知識だとか経理事務の経験だとか、そんなことは必要でないと言っている。強いて言うならコミュニケーション能力かな。

 どんな仕事でもコミュニケーション能力は必要です。しかし営業や接客に比べて経理の仕事は、コミュニケーション能力というよりも、正確に仕事をこなす能力だとか論理的な思考能力だとか月末などの繁忙期でも冷静に根気よく仕事をしていく素養だとか、そういった能力がより求められる仕事ではないかと思うのです。コミュニケーション能力に自信がなくて営業や接客の仕事に就業することを躊躇する人でも、経理の仕事なら自分に向いているかもしれない、と考えて就く仕事かもしれません。採用する側もそうした適性を汲んで「この仕事はきっと貴方に向いていますよ」とアプローチすることで、仕事と人をマッチングさせられるのだと思うのです。上長の言ったことは、図らずも人が定着しない理由を明らかにしたものと言えます。

 求人の段階で求められる能力や人物像が示されなければ、人材派遣会社も適切な人を紹介できません。実際には、豊富な経験や専門的な知識を持った方も来られていましたが、それが活かされることはありませんでした。特別な知識や経験は不要ということは、その人がそれまでに蓄積してきた知識や経験を否定することにもなります。経験や能力のある人にとっては、これは耐え難いことだと思うのです。

 さらに言えば、「専門知識は不要」ということは、「誰でもいい」ということでもあります。実際にこの上長は、後任者の採用のことを「補充人事」といって憚りませんでした。採用された人が、自分がただの“穴埋め”なのだと感じても仕方がありません。

 それでもなお「コミュニケーション能力」が求められる。そしてその実態は、当たり障りのない会話で場を和ませたり盛り上げたりすること、要するに上長にとって居心地のよい空気をつくることにほかなりません。それが、コミュニケーション能力さえあれば何をしても許され、コミュニケーション能力がなければ何をしても報われない職場風土を作ります。これは非正規雇用の方だけの問題ではなく、正社員の問題でもあります。そして上長もまたそういった風土の中で「コミュニケーション能力」を買われて上長になっているのですから、制度的・組織的に「確立された」風土といっていいと思います。

 こうした状況は、決してひとつの会社だけの問題ではないように思えます。同じようなことが、私の勤めていた会社以外のさまざまな会社でも、経理部門以外の様々な職場で起きているように思うのです。そしてこの「コミュニケーション能力」偏重が、仕事そのものの質を、大袈裟に言えば日本経済の屋台骨を、あるいは社会全体を、政治の世界でさえも、少しずつ蝕んでいるのではないか。そんな不安を覚えます。

 なぜこのようなことが起きるのか。この点については、あらためて考えてみたいと思います。