2026/04/21

「仕事」の健全性

 現代社会では、多くのものが「商品」として扱われます。商品には価格がつき、その多寡によって価値が測られることになります。私たちの「仕事」も例外ではなく、その有益性が賃金の多寡によって評価されがちです。しかし、そのことが仕事の意味をどこかで歪めているのではないか、という気もするのです。

 最近読んだ本に、『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』(酒井隆史 著. 講談社. 2021)があります。そこでは、社会にとって必要性が疑わしい仕事や、本人ですら意味を見出しにくい仕事が数多く存在していることが指摘されています。そして興味深いのは、そういう仕事に限って報酬が高い、という点です。この本の内容をそのまま受け入れるかどうかは別として、例えば慢性的に人手不足といわれる介護の現場や、運転手不足で減便を余儀なくされている公共交通機関の状況を見ると、賃金という指標だけで労働力が適切に配分されているとは言いがたい側面があるように思えます。その仕事の価格、即ち賃金の多寡だけがその仕事の価値の尺度ではない。そう思えるのです。

 株式市場や商品先物市場で投機的な売買を繰り返す。そんな仕事で稼ぐには多くのノウハウや経験、人的ネットワークに支えられた情報などが必要です。ただ、そのようにして濡れ手に泡の如くおカネを稼ぐ仕事は価値のある仕事といえるのでしょうか。もちろん、それらの仕事が有益なものなのかどうかについては、その人なりの言い分もありますし、門外漢の私がそれを一方的に判断するのはよいことではありません。私がやろうとしている「本の庵」にしても、妻に言わせれば何の有益性も見出せない自分よがりでしかないのです。

 それでもこんなことは言えないでしょうか。仕事の価値を測るのに、金銭的対価の多寡だけではなく、別の軸があってもいいのではないか。それを仮に「健全性」とでもいいましょうか。金銭的には何の対価もなくても、何か人のためになっている。世の中を良くしようとしている。そういう仕事はあると思うのです。例えば、子供たちの登校時間に合わせて交差点で交通整理をすること。そこには金銭以外の対価があると思うのです。例えば感謝、賛同、称賛。そういった対価があるからこそ、それが仕事としての実感を得られる思うのです。

 そういえば、物理の時間に「作用・反作用」ということを習いましたね。仕事が「他のものに作用して、その状態を変化させること」とすれば、その反作用が必ずある。それは必ずしも言葉や報酬として返ってくるとは限りませんが、それでも「誰かのためになっている」と感じられる手応えがある。その手応えこそが、ここでいう「健全性」なのではないかと思うのです。

 「本の庵」を開くにあたって、収益性についてはほとんど考えていません。儲からないことは織り込み済みなので、「儲からなかったらどうしよう」という不安はあまりありません。ただ、「誰も来てくれなかったらどうしよう」という思いが、ときどき頭をよぎります。それは金銭的な問題というよりも、自分のしていることに対する「反応」がまったく返ってこないということです。つまり、自分の仕事が誰にも作用していないのではないか、という不安なのです。

 どうやら私にとって「仕事」とは、その反応がどこかから返ってくること、その手応えを感じられることなのかもしれません。


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