来館された方に、自分がその空間に存在することが許されているという感覚を提供したい。それが「本の庵」の目指すところです。その感覚は、この館長日記で何度か紹介している、奈良県東吉野村の私設図書館ルチャ・リブロに初めて行ったときに私が感じた感覚なのです。
では、現代社会において私たちが、自分がそこに存在してはいけないと思うような感覚、言い換えれば息苦しさや生き辛さは何に由来しているのでしょう。先日から何度かにわたって、日本の社会がハイ・コンテキストな社会であること、ハイ・コンテキストなコミュニティは効率的である一方、過度に空気を読むことを強いるコミュニティであること、そうしたコミュニティでのコミュニケーションが内向きで閉鎖的なものになる危険性を持っていることなどを述べてきました。この文脈で考えると、ハイ・コンテキストなコミュニティで自分だけがそのコンテキストを共有していない感覚、あるいはそのコンテキストに溶け込めない感覚、そういう感覚が、何かそこに自分が存在できないような感覚の原因じゃないかと思うのです。
そんな息苦しさや生き辛さを抱えている人に「本の庵」が提供できることはふたつあると思います。ひとつはコンテキストからの解放。もうひとつはコンテキストの差し換えです。
過度に「空気を読む」ことを強いられるというのは、コンテキストを押し付けられていることにほかなりません。なぜ押し付けられるのかと言えば、そうすることによってコミュニケーションが効率的になる、言い換えれば無駄な説明なしに意思疎通ができると、周囲の人たちみんなが思っているからです。コミュニケーションも意思疎通も必要ではない空間があれば、コンテキストを押し付けられる必然性はありません。これが、これまで「脱・コミュニケーション」と言ってきたコンセプトの先にあるものだと思うのです。
でも、ただ「脱・コミュニケーション」というだけなら、ひとりカラオケでも、ひとりでスーパー銭湯の湯に浸かることでも、コミュニケーションから自分を解放することはできます。「本の庵」の存在意義は、本を並べることによって、「脱・コミュニケーション」の先に「自分と向き合う」「自分を取り戻す」という余韻が生まれるところじゃないかと思うのです。それは「自己との対話」と言ってもいいと思います。一見コミュニケーションとは離れているように見えても、実は自分自身とコミュニケーションをしているのです。
「本の庵」は、図書館とはいっても蔵書は約700冊。それも私がいままでに読んだ本、あるいは読んでいないとしても少なくとも何かの興味があって手にした本ばかりです。その蔵書には館長である私の思想が反映されています。主張の強い本もありますから、すべての本がすべての人に受け入れられるわけではありません。でも、その中に1冊でも自分の心の中にあるものと響き合う本があれば、そこが自己との対話の起点になるかもしれません。そして記憶の中にあるその本の内容が、対話の主体である自分と対話の相手である自己との間に共有されたコンテキストとして、その対話を支えてくれると思うのです。
公共図書館ではこんな偏った選書はできません。「図書館の自由に関する宣言」というのが定められていて、そこに「図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない」と明記されているのです。その基準でいえば、「本の庵」は蔵書構成に偏りのある「偏向図書館」なのですが、その偏りこそが「本の庵」の強みであり存在価値だと思うのです。
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