「本の庵」のコンセプトは「脱・コミュニケーション」。これを最近「コミュニケーション・デトックス」と言い換えたのです。するとすごいですね。すぐに「自分と向き合うんですね」という反応が返ってくる。こういう会話を「ハイ・コンテキストな会話」というのだそうです。会話の当事者の間で共有されている暗黙知に依存して成り立つ会話、とでもいいましょうか。もしこういう暗黙知がなければどうなるでしょう。例えば、こんな説明をすれば会話が成立するでしょうか。
毎年12月に放送される、漫才師の日本一を決める「M-1グランプリ」という番組で、昨年、決勝戦に進出したドンデコルテというコンビが「デジタル・デトックス」をネタにした漫才を披露した。そこでデジタル・デトックスをすると自分と向き合うことができるといいつつ、低収入で充実した生活をしているとは言い難い自分にとっては、そんな現実と向き合う必要などなく、むしろスマホの中にある虚構の世界に没頭する方が幸福でいられるといったことを力説する。その説明が、まるで新興宗教の勧誘やマルチ商法の売り込みを思わせるような、言葉巧みで軽妙なところが面白い。それだけでなく、ある意味で現代社会の問題に切り込む視座も持っていて、漫才の面白さを超える面白さを持っていた。
この説明で意味は分かってもらえるかもしれません。けれど面白さは伝わらないでしょう。話している私と、それを聞いた相手の方が、それぞれ同じ番組を見ていて、同じ漫才を面白いと思った経験を共有しているからこそ、「コミュニケーション・デトックス」のひとことで私が「本の庵」でやろうとしていることが伝わる。コンテキストがあることによって、言葉のもつ表面的な意味以上の情報を伝えることができるのです。しかし一方でこの会話は、コンテキストを持っていない人を会話から排除することになる危険性も持っています。M-1グランプリを見ていない人にはどうも居心地のわるい会話になってしまいます。
以前、とある大学の先生から、日本の社会はハイ・コンテキストな社会だ、ということを聞いたことがあります。当時放送されていたテレビCMを例に「あれは欧米では何を言いたいのか理解してもらえない」とおっしゃっていました。いまでいえば綾瀬はるかさんのユニクロのCMなんかを例に挙げればいいのでしょうか。
ユニクロといえば、シンプルなデザインでスタイリッシュ、しかもお手頃価格、という情報は、CMの制作者と視聴者の間で共有されています。CMでは、綾瀬はるかさんがユニクロの商品をスタイリッシュに着こなし、画面の隅に商品名とその価格も表示して、「ほら、スタイリッシュでしょ」「お手頃価格でしょ」という情報を伝えます。でも、このCMで伝えられるもっと大事な情報はそんなことではなく、「ユニクロは安物ではない」「ダサくない」というイメージだと思うのです。「あの綾瀬はるかさんが着ているんだ」「こんな素敵な人と会う時にユニクロのジャケットで行っても恥ずかしくないんだ」。そういうことを伝えたいのだと思うのです。それが伝わるのは、綾瀬はるかさんの持っているイメージを制作者と視聴者が共有しているからです。逆の言い方をすれば、そういうコンテキストを呼び起こせる人を起用しないと成り立たないCMなのです。
少し古い例ですが、ハズキルーペのCMにも、起用されている俳優さんの持っているコンテキストが活かされています。あのCMを見ると「こんな細かい文字も読める」「踏みつけても壊れない」といった商品の機能を説明しているように表面的には思えます。けれどもっと深層では「この眼鏡を使っていることはダサくない」というメッセージが伝わっていると思うのです。
私には欧米人の知り合いがいないのですが、その先生によると、欧米人はこういうCMをみても何が言いたいのかがわからない。日本でもよくあるテレビショッピングのように、商品の特性や機能を詳しく説明し、価格を示して、いかにこの商品を購入することが有益かを直接的に訴える。そういう伝え方でないと伝わらないのだそうです。そういう欧米人にハズキルーペのCMを見せても「細かい字が読めるんだ」「踏んでも壊れないんだ」という表面的なことしか伝わらない。反対に日本のようなハイ・コンテキストな社会で、ユニクロの商品やハズキルーペをテレビショッピングのようなCMでプロモーションしても「ダサい」というイメージが伝わるばかりじゃないかと思うのです。
以前の記事で、世間でよく言われる「コミュニケーション能力」というのが、実は場の空気を読んで当たり障りのない会話ができるかどうか、というようなことに過ぎないのではないか、という話をしましたが、日本がハイ・コンテキストな社会であるということを念頭に入れると、いままで見ていたものの見え方が変わるかもしれません。
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