2026/05/03

アメリカ人と英語で喧嘩する

 日本が「Japan as No.1」と持て囃されていた時期に、ある企業の経営者が必要な人材について問われてこう答えたそうです。

アメリカ人と英語で喧嘩できる人材

「英語で」と言っているのですから、殴り合いの喧嘩ではありません。互いを激しく非難しあうような口論のことでしょう。そしてその口論の末にお互いに納得する形で合意点を見出す。そんなことも含意されているのだと思います。

 ここに「コミュニケーション能力」のひとつのモデルがあります。相手は外国人。先日の記事で例にしたようなM-1グランプリや日本の芸能人をコンテキストにした会話ではこちらの意図を伝えることはできません。しかも会話に使われる言語は相手の母語。圧倒的にアウェイな状態に置かれています。そこで相手と対等に自分の意見を主張する。非難されても、その主張を引っ込めるのではなく、意見の違いがどこから生じているのかを冷静に判断しながら、その違いを埋めていく。その先に合意を見出し、相手との間に深い信頼関係を構築する。こういう能力も確かにコミュニケーション能力だと思うのですが、きのうの記事で論じたような「空気を読む」力としてのコミュニケーション能力とは明らかに異なる種類の能力です。

 このような、コンテキストのないところで発揮されるコミュニケーション能力と、濃密なコンテキストがあるところで発揮されるコミュニケーション能力を比較して、どちらがより重要か、あるいはどちらがより高度なのかを論じることには意味はありません。その能力が発揮される場面が全く異なるからです。前者のコミュニケーション能力は、コミュニティの外にいる人とのコミュニケーションで発揮されることが多いでしょう。アメリカ人とまでは言わなくても、別の会社の人や同じ会社であっても初めて会う人と何かを協働でやらなくてはいけないようなときです。後者のコミュニケーション能力は、そのコンテキストを共有しているコミュニティの中で発揮される能力と言えます。どちらも必要です。ただ、学生が就職活動で自分のコミュニケーション能力をアピールしたり、人事考課でコミュニケーション能力を云々したりするときに念頭に置かれているものが、後者の、コミュニティ内のコミュニケーション能力に偏ってはないでしょうか。

 自称「コミュ障」の私自身について言えば、語学力こそありませんが、コンテキストが少ない方を相手に自分の意見を主張し、相手の意見も引き出しながら対等に話すことについてはそれなりにやってきたという自負はあります。そのことによって深い信頼関係を結ぶことができた場面をいくつも思い返すことができます。ただそれはコンテキストがないからこそ可能なコミュニケーションだったのです。

 しかし、日本のコミュニティでは、一般的に強い主張は疎まれます。口論になれば「まあまあ」と割って入る人がいて、その人の顔に免じて主張を取り下げることで場を納める。そういうことができることを以って「コミュニケーション能力」と言っていることが圧倒的に多いと思うのです。「コミュ障」の私にはそれが出来ない。サラリーマン人生のすべては不遇だったわけではないですが、こうして整理していけば、不遇だった理由はどうもこれだったように思えてきます。


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