こうして自分のカフェを作ろう、いや、自分が作ろうとしている図書館をカフェにしよう、いや、カフェを作ってそこで図書館をやろう、いやその辺りはまだどの言い方がいちばん自分の思いに近いのか、まだはっきりしないのですが、とにかくそんなことを考えたときにモデルになったカフェがあります。
そこは、100万都市・京都のどまんなか。とはいっても高層ビルはなく、古い民家や商店に比較的小さなマンションや雑居ビルなどが立ち並ぶ地域。そのカフェは、そんな地域にある古い雑居ビルの2階に、人知れず営業している店です。「人知れず」などというと失礼かもしれませんが、どうやら、マスターの方針がそうらしいのです。目立った看板もなく、クルマがすれ違うことが出来ない狭い通りから、暗い階段を2階に上がり、本当に入ってもいいのかと思うような鉄扉に小さな看板というか掲示のようなものがあって、会員様以外はお断り、みたいなことが書いてあるのです。
私が初めて行ったときは、会員云々という看板はなくて、そのあと2度ばかり訪れたことがあります。2~3ヶ月ぐらいは間があいていたと思います。そして何度目に行くとそんなことが書いてあったのです。「えい、まあ、入ってみよう」と扉を開けて、「会員じゃないですけど、今日、会員になれますか」と告げると、マスターは私のことを覚えてくださっている様子で、「もちろんです」と仰ってくださる。誤解されると困るので断っておきますが、前に訪ねたときになにかトラブルを起こしたとか、変な人だと印象に残るようなことをしたわけではありません。それなら、会員になることをやんわりと断られていたかもしれませんから。
お店の中では、マスターがオーダーを取る小さな声と、空調やコーヒーミルの音のほかには、ほとんど音がありません。BGMは小さく流れていますが、ときどき外を通るクルマの音や自転車の鈴の音が聞こえてくるような、静かな店内です。席は窓に向かってカウンター形式になっており、そのカウンターに、おそらく1千冊を超えるぐらいの文庫本やそのほかの本が並べられているのです。書架(図書館員は「本棚」のことを「書架」というのですが)があるわけではなく、たまたま座った席の前にある本に手を伸ばして読む。そういう趣向なのです。自分の本を読むときもあるのですが、たいていは目の前にある本を手に取って、パラパラと数ページを読み、気に入った本があれば表紙の写真を撮って、あとで大学の書店で注文する、というような感じで、ひととき、読書に身を投じるんです。私は図書館員のくせにコレクター志向が強く、気に入った本があったら自分のものにしたい、という意思が先に出てしまうので、つい買ってしまうのですが、言ったら貸してもらえるのかもしれません。
そんな静かな時間が流れる店内で、コーヒーとサンドウィッチだけで(というかそれ以外にあまりメニューがないのですが)ときには2~3時間もいることがあるます。そんなに長い時間いると本当は迷惑なんじゃないかなと、こっちが気を遣うほどマスターは物静かな方です。そしてマスターは、どのお客さんのこともよく覚えておられて、レジのときに二言三言、言葉を交わされています。これは私にはない才能だと思います。マスターに顔を覚えてもらっていると思うと、誰しもまた行きたくなります。
あぁこんなカフェを作りたい。
自分はカフェについてはまったくの素人なんですが、本の並べ方ならいろいろ思うところもあります。自分ならこんなふうに並べるかな、とか、また妄想ばかりが拡がっていきます。
仕事にも家庭にも、何の不満もない男が、すべてを捨てて画家になるのだが、周囲には何も告げずに、突然、失踪するようにパリに旅立ってしまうので、周囲は、浮気ではないかなどと考えて彼を探す。画商から画家になったゴーギャンをモデルにしていると言われる。この小説の主人公は株取引の仕事をしているのだが、画家とはかなり縁遠い仕事だ。もしかすると、画商をしていたころのゴーギャンとっても、画家は、すぐ近くにいながら縁遠い存在だったのかもしれない。
金勘定では測れない幸福。他人からの評価では問うことの出来ない幸福。自分でしか価値を見出すことが出来ない幸福への渇望。そんなことがテーマになっているように思う。この小説が古典として多くの人を魅了するのは、それだけ多くの人が、金勘定と他人の評価の中に生きることに息苦しさを感じているということなのかもしれません。
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