みなさんは「コミュ障」ってご存知ですか。
「コミュニケーション障害」のことなんですが、もっと軽い意味で使われるときは、社交性に乏しく他人と上手に接することが出来ない人を揶揄する意味で使われることが多いように思います。世の中には、精神医学的に「コミュニケーション障害」だと診断される方もおられます。その方たちが置かれている立場や、その障害によってもたらされるさまざまな不利益を思うと、そんな軽い意味でこの言葉が使われることにはいろいろな問題があると思うのですが、私自身はそのような問題について語れるような知識もありません。ただ、自分は「コミュ障」じゃないかと思う当事者として、この言葉と向き合っていこうと思います。
人間は、誰かと協力したり、ときには組織や社会を構成しないと生きていくことが出来ません。ロビンソン・クルーソーのようにひとり絶海の孤島に生きていくなどということは不可能です。いや、ロビンソン・クルーソーにしても、島での生活の初期においては、難破した船からさまざまな生活の糧を得ていました。それは、彼が港を出発する前に彼が暮らしていた社会が生み出した産物ですから、ロビンソン・クルーソーとて社会から完全に切り離されているわけではないのです。だから、人間は、生きていくために、自分が存在している社会や組織の中で自分を位置づけていくために、同じ社会や組織にいる他人とコミュニケーションを交わさないといけません。そういう意味では、コミュニケーション能力というのは、人間に、本能的に備わっている能力なのかもしれません。
しかし、その社会や組織にいる他人が、常に自分に対して好意的に接してくれるとは限りません。社会や組織が大きくなり構造が複雑になれば、その中での生存競争が生まれます。限られた資源を自分に有利に分配しようと画策する人も現れます。コミュニケーションを誤ると、自分が生きていくために必要な資源を同じ社会や組織にいる他の人に奪われてしまう。特殊詐欺なんてその典型ですよね。そこまでではなくても、コミュニケーションが自分の生存にとってのリスクになることも現われてくる。そうなると、それに対する防御本能だって必要なわけですから、活発なコミュニケーションができることが常に望ましいわけでもありません。
このように、自分の生存に必要なコミュニケーションと、自分にとってリスクとなるようなコミュニケーションを、本能的に峻別して、前者をより活発にしながら、後者を適切に排除していく。現代社会においては、おそらくこんな複雑なコミュニケーションをやっていかないといけません。こんなことが出来る人は、それはすごい能力を持っていると言えますが、それが出来ないからといって即それがその人の欠陥になるものでもないでしょう。立派なコミュニケーション能力を持っている人たちの中で上手く立ち振る舞うことが出来ない人であっても、その人にしか出来ないことが少なからずあるはずです。しかし、コミュニケーション能力がないと、そういった能力を周りに理解してもらえません。
あいつのやっていることはよく分からない
分かってもらおうと丁寧に説明すると
あいつの話は長い
最後には
あいつは役に立たない、
使えない、
価値のないやつだ
などと断じられてしまう。会社に勤めていれば、他の誰もが気付かないような問題に直面することもあります。誰にでも簡単にできるようなアプローチでは解決できない問題だってあります。専門的な知識と能力がなければできないような仕事だってありますし、簡単には説明できないこともあります。説明が分かりにくかったり長かったりするのは、説明をする側の話が下手だからではなくて、話を聞く側の知識や能力、それに話を理解しようとする忍耐力の不足による場合が多いように思います。あるいは、聞き手の問題意識が話し手のそれに追いついていなければ、その話の価値に気付くこともありません。結果として、その話は「役に立たない」話になってしまい、話し手は「役に立たない人間」とされてしまう。果ては「価値のない」人間だと人格までも否定されてしまうのです。
そうなると、会社の中でのコミュニケーションは、その人を組織の中に位置づけていくための有益なものではなく、その人が組織から排除されるリスクになっていきます。当然、それは煩わしいものになっていきます。
最近の「優しい会社」では、そういう人に対して、専門的な病院に行って診察や検査を受けさせて、コミュニケーション障害の有無を調べ、「配慮」という名の「排除」をしていくのがトレンドのようです。
あいつの言っていることはよく分からないと思っていたけど、
やっぱりコミュニケーション障害を持っていたのか
聞き手の側の問題は一切なかったことになって、コミュニケーションが上手く出来なかった原因がすべて話し手の側の「コミュニケーション障害」の所為になって一件落着。その人が、他の誰もが持っていない専門的な知識と能力によって解決しようとしていた問題は、最初からなかったことになって、認識すらされない。
そんなことを考えたときに、この「コミュ障」という、軽い自虐のニュアンスを含んだ言葉はたいへん便利な言葉かもしれません。会社の中でコミュニケーションを上手く取れないことは、当人にとっては深刻な問題ですが、他人が深刻に捉えても問題は深刻になるばかりです。「オレ、コミュ障だからなぁ」なんて言って軽く受け流す。それがコミュニケーション能力のない人が最後にとる行動なのかもしれません。
外交会議が行なわれるほどの由緒ある邸宅の執事が主人公。「コミュ障」の私が読めば、この主人公がいわゆる発達障害を抱えているのは明らかなように思えます。しかし、あえてそうした設定にしないことによって、そうした障害とは無縁の人が読んで、自分の中にもその主人公のような部分があるな、と感じながら読んでいくことが出来ます。作者は、この主人公のこれまでの半生をとても丁寧に描き出していきますが、その先の人生には何の救いも与えないで小説は終わります。そこに読者が主人公の人生を考える余韻がある。そして、それを通じて読者自身の人生を考える余韻も残される本だと思います。
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