私は大学の職員ですが、自分の娘を自分の大学に進学させたいとは、小指の爪の先ほども思ったことがありません。私自身に、自分が会社から大切に扱われているという実感が乏しいのと、この大学が学生を大切にしているかという点について大きな疑問があったからです。スポーツ競技で優秀な成績を収めるとか、何か社会的なアピールになるような取り組みをするとか、有名企業に就職するとか、そういう方向に学生を導こうとする。それは学生本人にとってもかけがえのない経験になりますから、一見、学生を大切にしているように見えますが、そのうらに、学生がそうやって活躍するところを社会的にアピールすることによって大学のステータスを高めたいという魂胆があるとすれば、学生という「人間」を大学という「組織」の道具にしているに過ぎません。
とはいうものの、当世の大学ではどこでも大なり小なり同じようなことがあるのかもしれません。ですから、高校生だった娘が、自分の意志で私の勤める大学に進学したいというのであれば、それを止めることはしません。「へぇーそうなの」と聞き流していました。ところが、いくつかの大学のオープンキャンパスに行ってきた娘は、やっぱり別の大学にする、と言い出しました。その理由が的を射ていたのです。
オープンキャンパスというのは、大学が志願者を集めるために、主に高校生を対象に開催する説明会のようなイベントです。そこに行くと、現役の学生たちが自分の大学の素晴らしさを高校生に向けて説明してくれます。娘によれば、その説明のとき、私の勤めている大学の学生は、ほとんど下を見ていたそうです。別の大学では、演台の学生がしっかり高校生たちの方を見て、自信たっぷりに堂々と説明をしていた。自分もあのようになりたい、というのです。学生を、大学のステータスを高めるための道具にすることは、当世の大学ではどこでも同じと思っていましたが、そうではないようです。少なくともその傾向の大小はあるということのようです。
オープンキャンパスでは、高校生に対していろいろなものを見せます。模擬授業をしてみたり、ご自慢の施設や実験装置を見せたり、立派な教室や図書館を見せたり。高校生の前で説明をする学生も、そうした「見せもの」のひとつと考えているのかもしれません。たとえそう思っていても、だからこそ活き活きと自由に説明してほしいと思っていれば、学生たちが活き活きと説明できるような状況が整えられるはずです。ところが、担当の職員が彼らに対して、決まったことを決まったとおりに説明してくれればいい、などと思っていれば、真面目な彼らはその期待に応えようと必死になって、メモを見ながら間違いのないように一生懸命に説明するでしょう。うちの大学はそうだったのかもしれません。
わが娘ながら、なかなか鋭いところを見抜いています。
コロナ前から社会を覆う閉塞感が、大学の閉塞感にもつながっている。日本独自の社会のあり様が日本独自の大学を作ってしまった。「社会に役立つ人材」は生み出せても「社会を変える人材」は生み出せない。
社会で役に立つという能力や知識、技術を効率的に身に付けさせるための仕組みを高度に作り上げた今の大学は、私が大学生だったころとはずいぶん違ったものです。「まるで専門学校みたいだなあ」と思っていたら、どこの大学ももともとは専門学校だった、というのがひとつのオチ。
この本では、コロナ禍のなかで無理やりに進んだオンライン化と、商業的な意味とは異なるグローバル化が、大学を変えていく起点になるかもしれない、といっていますが、はたしてどうなのでしょう。
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