2024/05/28

ないものはない

  前回の記事で、奈良県東吉野村で私設図書館を運営されている青木真兵さんの「彼岸」「アジール」という言葉が、自分が Cafe & Library でやろうとしているコンセプトに近いということを書いたのですが、それは、私が「いつか私設図書館をやりたい」と思うようになった直接のきっかけとなった、島根県隠岐郡海士町の「島まるごと図書館」に通じるところがあると思うのです。

 島には大勢の「Iターン」者がおられました。島にはもともと縁のなかった人が、まるで郷里にUターンするように、島に移住してこられているのです。移住まではいかなくても、高校や小中学校に「留学」してくる子どもたちや青年たちもいる。高校に通う3年間というは、あるいは人生のもっとも大切な時間かもしれません。その3年間をこの島で過ごすのですから、よほどの魅力があるはずです。失礼な言い方を許していただくなら、島にはさしたる産業もなければ、観光名所もありません。それでもこの島は、これだけ多くの人を惹きつける魅力を持っています。移住はしていませんが、私もこの島に惹きつけられた一人なんです。その魅力の根幹が「彼岸」あるいは「アジール」という言葉で説明できそうに思うのです。

 島には、私たちの様々な欲求を満たしてくれる商品が十分にはありません。夜中に小腹が空いたからといっておにぎりを買うコンビニもありません。自動販売機もどこにあったか思い出せません(すみません。これは思い違いです。自動販売機はそこそこにありました。2024/6/20)。ニトリも無印良品もありませんから、本棚のようなちょっとした家具ならDIYで作りたいところですが、その材料を売っているホームセンターもありません。映画館もショッピングモールもない。宅配便もたぶん特別料金だと思います(これも思い違いで、ヤマト運輸の営業所があるので普通に届くとのことでした。2024/6/20)。都会にいると気づかないのですが、これらは全部、商品として提供されているものなのです。コンビニで売っているおにぎりも商品ですが、そのおにぎりを24時間いつでも手に入れることが出来るというサービスそのものが商品なのです。都会にいれば当たり前に享受できるこれらのサービスを、海士町では享受することが出来ない。だから海士町では、生きるために必要なものを、商品としてではなく、別の方法で手に入れなければいけません。例えば、どこかに行くために、地下鉄というサービスを利用することが出来ませんから、クルマを持っておられる方にお願いして乗せていってもらう、といったことです。

 都会では、生きていくために必要なサービスはすべて、商品としておカネと引き換えに手に入れることが出来ます。それがスタンダードになると、おカネがなければ生きていくために必要なサービスを受けることができなくなる。そうすると、生きるためにおカネが必要になりますから、そのおカネを得るための「労働」が必要になる。そしてその「労働」が、次第に人生を侵食していく。会社に拘束されている時間はもちろん、それ以外の時間も、自分の労働力としての価値を高めるための行動を強いられる。受験勉強も就職活動も資格取得も、もしかするとジムやネイルサロンに通うことですら、「自分への投資」と位置付けられ、カネ勘定に結びつく。それは知らず知らずのうちに、自分を息苦しいところに追い込んでいきます。その息苦しさに気づかないのは幸せなのですが。

 海士町には、おカネと引き換えに手に入れることができる「商品」としてのサービスが十分にはない分、商品を得るために必要なおカネを手に入れる「労働」の必然性が小さいと思うのです。それは、働かなくてもいいということではありません。おカネで解決できない分、自分でやらないといけないことは増えるのです。例えば、都会なら24時間いつでも牛丼が食べられるサービスがありますが、海士町にはそれがないから、お弁当を作って出かけないといけない。お弁当を作る時間は必要なのですが、それはおカネを得るための「労働」ではありません。都会にいると、そのお弁当を作る時間をおカネに換えることが出来ます。私のような昭和人の感覚では、朝のひととき新聞を読むのはサラリーマンの嗜みのようなもの。お弁当を作る時間を新聞を読む時間に充て、仕事で会う人との共通の話題を作ったり、新たなビジネスチャンスに結びつけたりすれば、自分の労働力としての価値を高めることができます。すぐに給料は上がりませんが、いつか、新聞を読まない人よりも高給なポジションが得られるかもしれません。そのお給料で、自分以外の誰かが牛丼屋で「労働」して作っているサービスを購入して空腹を満たす。もちろん、新聞を読むことは「労働」の価値を高めるための様々な行為の一部でしかないのですが、そこを単純化すれば、都会では、毎朝新聞を読んで、上司や取引先との会話に気を遣わなければ、空腹を満たすことが出来ない、ということになります。おカネは確かに便利なものですが、一歩間違うと、私たちの人生がおカネによって支配されてしまうことにもなりかねません。たいして関心もないのに「新聞ぐらい読まなきゃ」という義務感から新聞を読むことを強いられる。新聞を読んで感じたこととは別に、上司や取引先に迎合して話題を提供しなければならない。新聞を読んで、本当に憤りを感じて、誰かに聞いてほしい話題に限って、上司や取引先との会話には適さないことが多いものです。こういう新聞の読み方は、「文化的」なようには見えますが、本当の意味ではあまり「文化的」ではないですね。

 海士町の港や役場には「ないものはない」というポスターが掲げられていました。図書館の館長さんからいただいた名刺にも書いてありました。「ないものはないのだから仕方がない。」という意味と、「ないものなんてない。すべてがある。」という二重の意味があるそうです。生きていくために必要なサービスが商品として提供されていて、おカネと引き換えにいつでも入手できるわけではないけれど、必要なものは必ずありますよ、という意味なんだと思います。そういうところが、青木さんの「彼岸」「アジール」という言葉に結びついているように思うのです。


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