ぼくが「彼岸」という言葉を使っているのは、すべてが数値化の結果を受けて序列化され、それに基づいて価値付けが行われてしまうような現代社会を「此岸」としたときに、そうではない世界としての「彼岸」が必要なのではないかという思いがあったからです。(p.3)
ぼくは、彼岸とアジールを同じような意味で使っています。そして自宅を開いて図書館を運営する活動自体が、アジールを手作りすることを意味しているのではないか」(p.5)
もし、今いる場所が自分に合っていないなら、つまり自分の「土着の知」と社会の折り合いが悪いなら、なんらかの形でそこから立ち去る準備をしなければなりません。…「逃げる」ことも「地に足をつける」ことも、自分の中の生き物の部分に気づくことを意味しています。それはつまり「土着の知」の存在に気づくことなのです。(p.7)
前段のところは、現代社会は「人」を数値化する社会で、自分がその中で息苦しさを感じていて、同じように息苦しさを感じている人に、ひとときそこから逃れられる空間と時間を提供したい、という、このブログに私が書き連ねてきたことと本当にいっしょだと思いました。この方は「土着」「手づくり」というところに、その解決を見出しておられます。
手づくりとは、誰もが対価を払えば手に入れられる商品とは異なり、自身の個別性、身体性を手がかりに行う行為です。そして、個別性や身体性に触れるためには、コントロールできない社会の外部が自分の中にもあることを認める必要があります。(p.176)
社会の近代化に伴い、人はどこにでも住めるようになり、土地性が喪失した。…そのせいで社会が想定する人間像もどんどんヴァーチャルになり、誰にとっても生きやすい社会を目指すはずが、誰にとっても生きにくい社会になってしまうのではないか…だから、抽象的になってしまった人類を、再び土着化させ、土地に結び付けて具体的な存在として考えなおしたい。(p.182)
彼岸の図書館も、以前にこのブログで紹介した島根県隠岐郡海士町も、商品で満たされた都会から離れているという意味で、とても不便なところです。地理的な制約が多く「こうしたい」と思うように自分の環境をコントロールすることが難しい。そういうところでその制約を受け入れながら生活することを「土着」と仰っておられるのだと思います。
これからは「みんなのため」ではなく「自分のため」に生きていくべきだと思います。それは自分たちや身の回りの物を「商品として見ない」ということです。…世の中が教えてくれる「みんな」基準の人生から、「自分」のための人生へ。この転換は、ぼくたちが幼少期から信じてきたものを、ポイっと捨てることを意味します。…ぼくたちはさまざまな可能性を信じるように、夢に向かって自己実現するように…つまり人気商品としての「自分」の形成に日々努力してきたのです。(pp.160-161)
ここでいう「みんなのため」というのは、おカネを支払えば誰もが購入できる「商品」を提供することを意味していますから、「おカネのため」というのと同義語です。
何かを成し遂げようとすることは、商品的人間として「みんなのため」に生きていくということです。一方、手づくり的人間は「自分のために」生きていきます。「自分らしく」とか「自分らしくない」とか、そういうことは気にしません。「自分らしく」生きていくとは、実は商品的人間として生きていくことを意味します。商品的人間の特徴は、他社の眼差しが内面化されているということです。社会的評価を気にしてしまうとも言い換えられます。決して気負う必要はありません。むしろ、ただこの世界を「自分のために」生き延びること。それが結果として誰かのためになるかもしれないし、ならないかもしれない。(pp.164-165)
そうそう。そういう生き方なんです。草径庵の庵主さんが「人など来るはずもなく、正直、来なくてもよい」と割り切っておられることにも通じます。
このブログを始めてから何度か「背中を押される」思いをしているのですが、この本との出会いも、私にとっては大きな励みになりました。
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