以前の記事で、青木真兵さんの著書『手づくりのアジール』を引き合いに、島根県隠岐郡海士町は島全体がアジールのようなものという私の考えを披露しましたが、これはちょっと修正が必要かもしれません。
島にある島根県立隠岐島前高校には、全国から島留学の若者が集まってきます。彼らを見ていると、都会の学校から「逃げ出してきた」というよりも、現代社会という枠組みから「飛び出してきた」ように見える。それと「ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込んだ」(青木真兵, 海青子. 2019.『彼岸の図書館』P.6)という青木さんの言説とのギャップをどう埋めるのか。そこは、海士町まで出掛けて青木さんのお話を聞く動機でもあったのですが、青木さんによれば、アジールというものが何か絶対的な価値観を提供しているのではなくて、それぞれのアジールが社会の多様性の一部で、「アジールとはこうあるべき」といった画一的なものではないということなのです。都会からやってきた高校生にとってこの島の暮らしはアジールかも知れないけれど、都会のように何でもおカネで解決することが出来ないこの島では、周囲との濃密なコミュニケーションが必要になって、ときにはそこから逃れるように、港の売店でソフトクリームを買って人目につかないところで食べる時間が、その人にとってのアジールになるかもしれない。そんな例を挙げておられました。
トークイベントのあとで、島前高校の先生という方に声を掛けていただいて、親しくお話をさせていただいたのですが、「飛び出してくる」若者と「逃げ出してくる」若者は半々ぐらいというようなことを仰っておられました。それを伺って、本当は一人の人間の中にも「飛び出してくる」要素と「逃げ出してくる」要素があって、ある場面では一方が強く出る、ということなんじゃないかな、と思ったりしました。
これはたぶん、自分がやろうとしている Cafe & Library でも同じで、一面では「世の中を変える」とまでは言わないまでも「一隅を照らす」ぐらいの要素はありつつ、他の面では、現代社会の縮図と言えるいまの会社から逃げ出すという要素もある。どっちか一方という二者択一ではないと思うのです。それは、Cafe & Library の重要なコンセプトである「脱コミュニケーション」も同じかもしれません。これまで私は、会社で求められるコミュニケーション能力というのに辟易としていて、とにかくコミュニケーションから逃れられる時間と空間こそが自分にとって必要だと思っていました。それはいまでもそうなのですが、島に行くと私はいろんな方とお話をして、それなりに自分が受け入れられたように思っている。そういう「二面性」みたいなものはあらゆるところにあるもので、どちらかを「善」、どちらかを「悪」とは決められない。
青木さんも、「此岸」と「彼岸」を行き来することの大切さを語られる。ふたつの価値観というのは、「都会」の価値観と「山村」の価値観だったり、個人が強調される「近代」の価値観と地縁や血縁などのコミュニティが強調される「前近代」の価値観だったり、いろいろなパターンがある。ただ、いまは資本の原理に基づく価値観が強すぎるので、それとは異なる価値観が提供されないと、異なる価値観の間を往来する自由が得られなくなって、社会が息苦しくなる。資本の原理が届きにくい場所を作って、そこと、今の世の中で支配的な資本の原理が通用する世界を行き来する。そんな思想に「土着」とか「アジール」という言葉を当てておられるのだと思います。
そんなことで、海士町で開催された青木真兵さんのトークイベントから、あれやこれやと考えてきたのですが、明日は図書館のことを書こうと思います。
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