奈良県東吉野村で「彼岸の図書館」を運営されておられる青木真兵さんは、「学者」という顔も持っておられて、博士号もお持ちだし、文筆活動や講演もされています。
ところで、最近の大学の傾向として、「社会に役立つ」ということを盛んに言うようになったと思うのです。私が大学生の頃は、大学生の4年間は「モラトリアム」などと言われていました。おそらく大学に対する公費助成を削減したいと考える人たちの思惑が背景にあったのだと思います。それに対抗するために「社会に役立つ人材の育成」などという大学の機能をアピールする必要があったのかも知れません。しかしそれは、「大学」という場所を「社会」に従属させることになってしまいました。
いやお前、何言っているんだ。「社会」っていうのは「大学」とか「会社」とか「政府」とか、そういうもので構成されるんだから、「大学」が「社会」の一部なのは当たり前じゃないか。社会の役に立たない大学に税金から助成をするなんて話はありえないよね。
お説ごもっともなんですが、大学で行う「学術」という営みは本来、社会からも個人からも離れたところから、社会のあり様や個人の生き方を観察して、理想的な社会や理想的な生き方を提示するという崇高な役割を持っていると思うのです。社会全体に閉塞感が漂う今日にあっては、本来ならば「社会に役立つ人材」ではなくて「社会を変える人材」を輩出していかないといけないところ。そう思いません? でもそれは、社会に反旗を翻すことであって、社会から自由である代わりに、社会から孤立することにもなります。それじゃ研究助成も運営経費助成も受けられないし、新しい学部を作ったりするときに認可されないし、学生の就職先もないから志願者も集まらない。少子化が進む中で、志願者が確保できなければ学生も減って学費収入も減る。公費の助成も減る。たいへんだ。ということで「社会の役に立つ」アピールが強くなっていく。大学間の競争が煽られ、大学の「生き残り戦略」を前面に出した運営がなされ、大学の商業化が進む。社会のあり方や個人の生き方について理想を語る先生は疎まれ、大学はどんどんつまらない場所になっていったのではないか。そう思うのです。博士号まで取得された青木さんが、大学に就職して安定した収入を得る道を捨てて、東吉野村から「社会のあり様」を発信し「新しい生き方」を提示されている背景には、そんなことがあるのかも知れません。
さて、ここからは青木さんがトークイベントで語られたお話しからなのですが、青木さんは「人類のために」などという理想を語る一方で、「地に足を付ける」という言い方で、現実との融和を図られているように思いました。その辺が大学の先生とは違う魅力かも知れません。スポンサーに気兼ねすることなく、自分が言いたいこと、言うべきことを言う拠点を作ること。都市、健常者、私有という近代社会の基底に対抗して、田舎、障害、共有を基底とする世界を作ること。それは理想かも知れないけれど、それを「絶対善」としてしまうと、それはそれで閉塞した世界になってしまう。NPO法人の仕事、図書館の仕事、学者としての仕事の割合を円グラフで示しながら、自分の関心が向けられている割合は図書館が半分以上なのだけれど、収入はNPO法人が中心。ふたつの世界を「此岸」と「彼岸」に例えながら、それを行ったり来たりすることが「地に足を付ける」ことなんだ、とか、固定的に物事を考えずに環境に合わせて活動のスタイルも変化させていくことが大事なんだ、とか、当たり前のことかもしれないけれど、それに「土着する」という言葉を割り当てて、その先に「人類のためにやっている」という理想を持ってくる。そうすると、私がやろうとしていることも、もしかして「人類のために」なるかもしれない、なんて「錯覚」が生まれて、俄然、やる気も出てくる。いっしょに拝聴した方の中にもそんなふうに思われた方がいるんじゃないかと思いました。
明日は、アジールと多様性について考えます。
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