2024/04/30

承認欲求

 ここまでつらつらいろんなことを書いて、あらためて、人間が労働力という商品として値踏みされる世界がどうして出来てしまうのかと考えてみると、その背景には、これも誰もが本能的に持っている承認欲求というものがあるように思うのです。何度も言いますが、人間は、組織や社会を作らないと生存できない生物ですから、その組織や社会の中で自分の存在を意味付けようとする本能を持っています。その本能がコミュニケーション能力であったり承認欲求であったりするのだと思うのです。商品経済の中で、労働力という商品としての価値があるかどうかが、その人の評価基準として明示されれば、たいていの人はその基準で評価を高めようと躍起になります。それは、単に給料を上げようとか、組織や社会の中での地位を高めようということばかりではなく、そういったことにはまったく関係がなくても、人間には他の人間に自分の価値を認めさせたいという承認欲求が必ずあって、それが人間の商品化の背景になっているのだと思うのです。

 コミュニケーションの方は、複雑で高度になっていること、あるいは歪んでいることがストレスになっている場合、しばしそこから離れることができますが、承認欲求の方は、本能的な欲求であるがゆえに、過度になったものを取り除いたり緩和したりすることが難しい。ここに Cafe & Library としてどのように向き合っていけばいいのでしょう。

 視点はふたつあると思うのです。

 ひとつは、この Cafe & Library を利用する人の視点で、その人たちの承認欲求をどう満たしてあげられるのかという視点。でも、これは出来ません。なにせ「脱・コミュニケーション」を掲げているのですから。コミュニケーションなしに承認欲求が満たされることは考えにくい。もしかすると、その空間の雰囲気で「自分が受け入れられている」という印象を得て、そのことによって承認欲求が満たされることがあるかもしれません。以前に紹介した「彼岸の図書館」に私が初めて行ったときに受けた印象がそうでした。でも私の場合、その印象だけでは満たされず、司書さんとのコミュニケーションでやっと承認されたような気分になったことも、すでに述べたとおり。それは司書さんのコミュニケーション能力があってのことで、私には、Cafe & Library を利用される方の承認欲求を満たすようなコミュニケーション能力はありません。

 もうひとつの視点は私自身の視点です。読書カフェにしろ私設図書館にしろ、広く社会に向けて開かれた空間を提供しているのですから、誰かに来てほしい、利用してほしいと思うのは必然です。誰も来てくれないと、自分がしていることが誰からも承認されなかったということになりますから、承認欲求が満たされず絶望するかもしれません。横浜で「草径庵」を営まれている「庵主」さんが、エッセイで

もちろん、人など来るはずもなく、正直、来なくてもよいのだった。こうして一年、二年と過ぎ、三年目くらいから、驚くべきことに「お客さん」と呼べるような人が来始めたのである。

と仰っている境地は、そういう承認欲求から解放された境地なのかもしれません。そういう境地に至ることが出来ないと、Cafe & Library は私自身を苦しめる取り組みになってしまうかもしれません。

 承認欲求が満たされずに苦しむ経験は、会社勤めの中でも何度も経験しましたが、Cafe & Library で経験するかもしれない苦しみとは質的に異なるかもしれません。会社に提供しているのは、自分の中の労働力としての側面だけで、人格まで提供しているわけではありませんから、承認欲求が満たされないとしても、人格まで否定されたと思い悩む必要はありません。現実にはそういう割り切りが出来なくて苦労するのですが、原理的にはそういうことで十分なのです。しかし Cafe & Library は、人間が人間として存在できる時間と空間を提供しているわけですから、その意味では、提供する側の全人格が掛かっているともいえます。自分がこれまでに手にしたことのある本が並べられている書架を見て「いろんな本を読んでおられるんですね」と好意的なお言葉をいただけると、私の承認欲求は深く満たされると思います。しかし、「たいした本はありませんね」と言われれば、全人格を否定されたように思うかもしれません。

 こうした承認欲求を持ったまま Cafe & Library を運営するのは、とても辛いことになるかもしれません。誰も来ない。来たらケチを付けられる。人格まで否定される。いやそれでも自分はこういう価値を提供したいのだ、という信念を持つことは大事なことかもしれませんが、その信念が受け入れられるかどうかを気にしだすと、続けていくことは難しいかもしれません。

 草径庵の庵主さんのエッセイを読んで、「少し肩の力を抜こう」、そんなことを考えているところです。とにかく自分にとって居心地の良いところを作ることがいちばん大切。「お客さま」は二の次。そうでなければ、自分自身の人格のすべてを商品にして、どこにでもあるカフェ同士の競争に参入することになってしまう。そういう世界から離れることが目的なのですから、「なんとかしなきゃ」と焦るのではなく、もう少し余裕を持って自分自身を眺める必要があるように思います。

 




2024/04/19

草径庵を知る

  ブログを始めてまだ2ヶ月なのですが、最近では「本の庵」でネット検索すると、このブログがいちばん上に表示されるようになりました。そして、いつも2番目に表示されるのが「本とお茶ときどき手紙 草径庵」という、横浜にある、きっとそれほど大きくはない読書カフェ。気になって、ホームページを拝見しようと「草径庵」でネット検索をすると、「庵主」さんの書かれた『閑事:草径庵の日々』というエッセイに辿り着きました。さっそく、勤めている大学の書店に取り寄せてもらって拝読。これまでいろいろ思い悩んでいたことが溶けていくような思いで読了しました。

一年目はこの場所で過ごす時間のほとんどが自分の休養と読書所間だった。…はじめのひとり。友人や私のことを知ってくれている近所の人たちではない、草径庵を目指してわざわざ足を運んで来てくれた最初のひとり。その人との出会いが草径庵の始まった日といえるのではないだろうか。(pp.38-39)

自分が機嫌よくいるために始めた草径庵で、私はのんびりと日常を離れて過ごす喜びを感じていた。…週末のたった二日、ほんの数時間をここで過ごすことが自分の心と体を労わり、安らぎを与えるということを知った。もちろん、人など来るはずもなく、正直、来なくてもよいのだった。こうして一年、二年と過ぎ、三年目くらいから、驚くべきことに「お客さん」と呼べるような人が来始めたのである。…ほとんどの人が一人でやって来て…それぞれの時間を過ごして帰って行く。お茶を出したり食器を下げたりしつつさりげなく観察しているうちに、こんなことに気づいた。ひょっとしたらこの人たちは、かつての私のように、日常を離れてゆっくりしたい、一人になりたいのではないか。人に何かをしてもらったりされたりするより、なにもされず安心して「自分」でいられる時間と空間をここで過ごしているのではないかと。(pp84-85)

 私がこれから作ろうとしている Cafe & Library のことをあまり理解してくれない来訪者が、その場の雰囲気を台無しにしてしまうのではないだろうか、などと心配をしていたのですが、そんな心配は不要かもしれません。草径庵の庵主さんの仰るように「人など来るはずもなく、正直、来なくてもよい」と割り切ってしまえばいいのですから。

 それに、このブログにウダウダと書き連ねている Cafe & Library のコンセプトなんて、どうでもいいことのようにさえ思えてきます。確かに、カフェを開業するためのノウハウが書かれた実用書を見れば、最初にコンセプトをしっかりしておきましょう、というようなことが書かれている。けれど、それはあくまでも商業的に成功するためのハウツーであって、そのコンセプトのなかで商業主義からの脱却を謳いながら、商業的な成功のためのセオリーに縛られているのも可笑しな話です。庵主さんの仰るように「自分が機嫌よくいるために」始めて、もし自分と同じように思う人がいれば、自然とそういう人たちが寄ってくるような場所を作ればいいのかもしれません。

 本を読んで、この草径庵がどんなところなのか自分の目で確かめたいと思いました。ゴールデンウイークが過ぎたら、新幹線の中でゆっくりと本を読みながら、庵主さんのお話を聞きに行こうと思います。会ってくださるかしら?




安木由美子 著. 2022. 『閑事:草径庵の日々』. ユニコ舎.

著者紹介には「ライター」「構成作家」という職業が書かれているのですが、私の周囲にはおられませんので、どんなお仕事なのか、うまく想像ができません。けれど、書いておられる文章を読めば、プロの文章だなあと率直に思います。思いつくまま、思ったことをそのまま書いておられるように見えて、しっかり読む人のことを意識されておらえる。あるいは、意識しなくてもこういう文章が書けるのがプロなのかもしれません。

このブログも、もうちょっと読む人のことを意識して書かないといけませんね。

2024/04/16

シートチャージ

 私たちの周辺にある図書館は県立や市立のものがほとんどです。図書館法 第17条には「公立図書館は、入館料その他図書館資料の利用に対するいかなる対価をも徴収してはならない」と定めていますので、図書館と言えば無料の施設と考えがちです。しかし、図書館法 第28条には「私立図書館は、入館料その他図書館資料の利用に対する対価を徴収することができる」と書かれていますから、私がこれから作ろうとしている Cafe & Library で入館料を取ることは、法的には可能です。

 Cafe & Library 構想を人に話すと、何人かの方がこんなことを仰います。
それはコーヒー1杯いくらっておカネを取るのか。
1時間いくらっておカネを取るのか、どっちなん?
実はこれは構想のかなり早い段階から悩んでいることで、まだ結論が出ていないことなんです。

 普通のカフェなら、コーヒー1杯いくらというおカネの取り方をします。スタバのような大きなカフェだと、その1杯で何時間も居座って、パソコンで何か作業をされたり、ノートを拡げて勉強のようなことをされている人も見かけます。しかし、個人でされているお店の方に訊くと、正直に言って、そういう感覚で長居をされるとちょっと困る、と仰います。個人でやっているお店だから席数は少ないし、お店の方に申し訳ないと思って追加注文をしてくださるお客さんならいいけれど、そういうお客さんはそこそこの時間で帰って行って、そういうことに気の回らないお客さんだけが長居をされていく、ということになるのだそうです。私がやろうとしている Cafe & Library は、その空間で過ごす時間が大切な商品ですから、そこに価値を見出していただける方にこそ、ゆっくりとしていっていただきたいのですが、その価値が分かるような分別のある方は常識的な範囲を気にされて長居を避けられ、そういう価値の分からない人に限っていつまでも帰らない、という逆転が生じるかもしれません。

 1時間いくら、という料金体系でおカネを取る典型はネットカフェです。マンガ読み放題、フリードリンクで、1時間いくら。使い方はお客さん次第で、マンガを読んでいる人もいれば、パソコンで何かしている人もいる。本を読んでいても、ネット配信の映画を観ていても、居眠りしていても自由。誰にも拘束されない時間を過ごすことが出来る。置いてある本は違いますが、それといっしょなんじゃないのか、などと仰る方もいました。ネットカフェと同じものを作ろうとしているつもりではないのですが、それは、スタバと同じものを作ろうとしているつもりではないということと同じかもしれません。Cafe & Library は、スタバとも共通点がありますし、ネットカフェとも共通点があります。

 こんな考えもできます。

 例えば、入館料と称して300円をいただく。入館料には1時間分のシートチャージが含まれる。あとは2時間ごとに300円のシートチャージをいただく。つまり、コーヒーも何も注文せずに3時間滞在された方からは、600円をいただく。5時間なら900円ということです。ここのポイントは、コーヒーも何も注文しなくてもよいということです。ただし、飲食物の持ち込みはNGですが。

 こうすることで、純粋に Cafe & Library の空間と時間に価格を付けることが出来ます。「何か注文しないと申し訳ないかな」などと考えずに、おカネでその空間と時間を買うことが出来るようになります。

 コーヒーの価格は500円。その500円の中には入館料またはシートチャージが含まれる。コーヒーを1杯飲んで1時間で帰られた方からは500円をいただく。3時間おられたら、そこにチートチャージを加えて800円をいただく。コーヒー1杯500円は普通のカフェと同じです。滞在時間が1時間を超えると、コーヒー1杯が800円。3時間を超えると1100円となります。コーヒーをお替りして2杯注文してもらえば、3時間まで1,000円。カフェでコーヒーを2杯飲んでいるのですから、決して高くはありません。

 例えば Cafe & Library が好きで、お昼から時間があるから、午後1から夕方の4時までここで過ごそうという方がおられたとして、何も注文されないのなら600円。コーヒーを1杯注文すると800円。お替りすると1,000円。食事メニューをどうするかとかはまだ考えていませんが、とにかく、何も注文しなくてもいいし、何か注文すればなんだか得したような気分になる。一方で Cafe & Library のことをよく知らない方が通りすがりに入ってきて、コーヒーを1杯注文すれば500円。そういう方はたいてい1時間ほどで帰られますが、たまたま Cafe & Library の雰囲気を気に入っていただいて長居をされたら、その時間に応じておカネをいただく。雰囲気が気に入っているのだから、シートチャージを取られることも納得されるはずです。

 そんな感じでいろいろ考えは巡るのですが、これは実際に Cafe & Library の形が見えてこないとなかなか決められない。出来上がった空間を見て、自分ならこの空間で過ごす時間にいくら払うか、自分で自分の値踏みをして、それで納得できるおカネの取り方をするしかないでしょう。


 


2024/04/15

家賃を払わない

 何か事業をすれば、月々の固定費を払わないわけにはいきません。テナントを借りていれば家賃が必要です。厨房機器をリースすればリース料。「ここはカフェではなく図書館です」と言ったところで、家賃を値切ってくれるわけではありません。

 ただし、家賃について言えば、払わなくていい方法もあります。

 家賃はテナントを借りるから支払わなければいけないのであって、買ってしまえば払わなくてよい。それも、借金をして買った物件でカフェを運営するならば、月々の家賃が月々の返済に代わるだけで、固定費に追われる構造は変わりませんが。自己資金で買って、しかもその投資資金の回収の必要がないとすれば、ある程度、自分の自由度は増します。収益のことを気にして、なんとか固定客を掴もうと無理な努力をしたり、少しでも多くの人に来てもらおうと、例えば、インスタ映えするメニューを考える、などということは、しなくてもよくなります。

 最近、新聞記事などで、遺産相続した古い家屋の買い手がつかないといった話を目にします。「不動産」ではなくて「負動産」なんだそうです。おカネを払ってでも引き取ってほしい。そんな家があるなら、そこを改装して開業するということもできるかもしれません。ちなみに、不動産会社のWebサイトなら、地域を指定して、300万円までで手に入る物件は、なんて検索もできますし、実際にそういう物件もなくはありません。古い物件だと、改装にはそこそこのおカネがかかりますが、賃貸のテナントに比べて、自分の思うような内装や外装に仕上げることはできます。これをなんとか自己資金でやりきれば、家賃や借金の返済に追われる心配はなくなります。

 もちろん、厨房機器も同じで、リースではなく買切ってしまえばよい。中古でもよければ購入資金は節約できます。それに、身の丈に合わない機器は買わない。冷蔵庫なんかも、飲食店でよく見かけるのは、中古でも数十万円しますが、どれぐらいの食材をストックしておけばいいのかを考えれば、同じ値段で家庭用の新品を買う方がいいかもしれません。プロ仕様の焙煎機などは、最初から用意するのではなく、ある程度の収益が見込めるようになってからでもいい。そういう割り切りによって固定費を縮小していけます。

 固定費が少なければ、日々の売り上げを過度に追いかける必要がない。そうすると、たとえ来店客が少なくても、自分はこういうことをやりたいのだ、というコンセプトがより強く出せるので、どこにでもあるカフェとは違う店作りができます。それが世間に受け入れられるには時間がかかりますが、それを待つ余裕はできます。

 あまり大きなことは考えない。あまりいろんなことは考えない。身の丈にあわせて何ができるのかを考える。当たり前のセオリーなんですが、それを、いま自分が置かれている状況に照らして考えるのは、意外と難しいものです。時間はかかりましたが、少しそういうことを考えることが出来ました。




2024/04/14

カフェの収益性

 カネ勘定で値踏みされる世界からの逃避場所として Cafe & Library を作るのに、そこでおカネを取ることについて、ある程度、自分なりの納得が出来たので、再びカフェの収益性について考えるようになりました。

 しかし、この思考はいつまでも堂々巡りなんです。

 たとえアルバイトを雇わずに自分だけでやるとしても、カフェとして維持していくには、どうしても収益性を考えないといけない。カネ勘定で値踏みされるのが嫌だといっても、金額を提示すれば必ず値踏みされます。それに、収益性を考えれば、自分自身が来てくださる方を値踏みするようになるのも避けられそうにない。月々の固定費を賄うには客単価はこれぐらいで席の回転率はこれぐらいという数字を、どうしても頭の片隅に置いておかないといけない。コーヒー1杯で何時間も座席を占有する人がいれば、「カネにならない客」なんて考えが脳裏をよぎることは仕方がありません。

 武力がすべてを支配する戦国時代に、平安時代からの不輸不入の権を持っている大寺院などが、苦しむ民衆にとってのアジールとして機能しました。しかし、そのアジールを守るためには武力が必要で、そうした大寺院の指導者は、ときには、僧兵だけでなく民衆をも動員した壮絶な武力闘争をしてきました。

 カネ勘定がすべてを支配する現代社会で、それに抗って Cafe & Library を運営しようという場合も同じで、そこを守るためにはやはりカネ勘定を頭に入れておかないといけない。一方では、ユートピアのような世界を提供しようとしているのに、他方では、月々の支払いという現実と対峙する。その間にあるのは、大寺院の巨大権力ではなく、ついこの前まで善良なサラリーマンだったひとりの人間に過ぎないのです。

 永遠に続くかもしれないこの思考ですが、ちょっとしたきっかけで次のステップに進むことが出来ました。同じ場所をぐるぐると回っているように見えて、実は少しずつ考えが深まっているようにも思えます。きっと開業したあとも、この堂々巡りは続くのでしょうけれど。




2024/04/10

移住を躊躇う

 島根県の沖合にある隠岐群島のひとつ、中ノ島にある海士町で経験したことは、とても刺激的でした。自分もここに移住してきて、自分の家に小さな図書館を作ろうか、と半分ぐらい本気で考えました。結局は止めたのですが、それから3年が経って、こうしてブログにその時のことを書きながら、考えがぐるっと一周したような思いがします。

 海士町は、本土からフェリーで3時間もかかります。高速船なら1時間ほどですが、1日1本しかなく、欠航しがちです。いままでの自分の生活空間からはかなり隔絶されたところです。移住するということは、いままで勤めていた会社を辞めることになります。家族で移住するなら家族も同様です。家族と離れて単身で移住するとしても、家族を説得しないといけません。親族に急なことがあっても、すぐに駆けつけることもできません。もちろん、自分に何か急なことがあっても、親族は駆けつけて来てはくれません。親しくしていた友人とも、日常的にリアルに会うことは出来なくなります。

 他にも、移住しない理由なら事欠きません。隣の西ノ島には新聞の配達所がありますが、たぶん、朝刊を読めるのはお昼にフェリーが着いた後です。欠航すれば翌日になります。数年前から私は、月に一度は映画を観ると決めているのですが、それも松江か米子に出掛けて1日がかりで観ることになります。島に行った当時、私は地元のアマオケに入っていたのですが、移住となるとそれも辞めないといけません。

 いやでも、もし移住となれば、そういうところが、また面白いところかもしれません。自分の家を図書館にするのだから、ネット版の新聞の契約をして、大判プリンターで印刷すれば、それで近所の人にも、その日の新聞を読んでもらえますし、新聞を口実に毎日来て下さる方もおられるかもしれません。大判プリンターがあればニーズもあります。高校生たちが何かポスターのようなものを作りたいと思ったときに、私のところに来てくれるかもしれません。映画だって、いま話題の映画はともかく、ネットの映画配信サービスの契約をして上映会でもすれば、それもコミュニケーションの切っ掛けになるかも知れません。アマオケのことも、そういえば、島に行ったときに、ヴァイオリンケースを担いでいる人を2回ほど見ました。「おやっ」と思ったのでよく覚えています。島でレッスンが受けられるかもしれませんし、3人集まれば簡単なアンサンブルはできます。そう考えれば、新聞の配達が遅いことも、映画館がないことも、アマオケを辞めなければならないことも、移住を面白くする要素にだってなりうることです。

 結局、移住を躊躇った決定的な理由は、自分のコミュニケーション能力に自信がなかったからだと思うのです。このブログの最初の方でも書いているのですが、私には「コミュ障」なところがあって、ときに周りとあらぬ軋轢を生んできました。誰がわるいのかには関係なく、そういった軋轢の負担を一方的に背負い込んできました。そんな負のコミュニティをいったんリセットしたいという期待は私を移住へと誘うのですが、その一方で「どこへ行っても逃げ場はない」という諦めが、移住を躊躇させます。島内にある隠岐島前高校のことを書いた『未来を変えた島の学校』にはこんなことも書かれていました。

島には逃げ場がありません。…今よりも厳しい生活になります。今できていないのに、島に行ったら変わるとか、できるようになるという甘い考えでは、困ります。(p.106)

いまなら、会社でうまくいかなくても、どこかに逃げ場があります。誰も話してくれなくても、おカネを払えば「いらっしゃいませ」と声を掛けてくれる人がいます。そんな世界で息苦しい思いをしている自分が、そういう逃げ場もないところに移住なんて出来っこない。移住したからといって、この島でお会いした方のように、自信たっぷりに自分の考えを雄弁に語れるようになんてなれっこないんだ。そんな考えが、自分を狭い世界に押し込んでしまいました。

 でも、こうして Cade & Library を作って、そこをコミュニケーションから解放されるアジールのような空間にしようなどということを考え始めると、また考えが変わってきます。

 海士町は、島そのものがアジールだったのではないか。

 島を訪れた当時の私は、もし島に移住したら、どうやって生活に必要なおカネを稼ぐのかを考えました。大阪の都心の、カフェやネイルサロン、雑貨屋などが立ち並ぶ小洒落た地区で、何人ものアルバイトを雇って成功しているカフェと同じようなものを、この島に作ることはできません。それは分かっているのですが、どうしてもそういう発想になってしまうのです。競争の中から一歩抜きん出て成功する。そんな発想です。

 でも、島の発想は違う。カネ勘定から少し離れて、この島をどんな島にしたいのかというような、どこか青臭い話を真剣にできるコミュニティ。そんなコミュニティの中心に図書館があって、それを必要としている人に助けてもらいながら、自分も、自分の図書館を作ることを通じて、アジールの中で求められる存在になっていくことが出来る。そんなことを考えると、定年という、サラリーマン生活のゴールが見えてきた今、この島への移住は、あるいは現実的な選択なのかもしれないと思えてきます。

 しかし、そこまで考えがまとまってくると、反対に、それならわざわざ、いままで自分の周りにあった人やものとの関係を断ち切って、島に移住する必要もないようにも思えてきます。自分は、いまいるこの場所で息苦しい思いをしてきました。私のほかにも、そんな息苦しさを感じている人はいると思います。その人たちに自分ができることは、島に移住することではなくて、いまいるこの場所に小さなアジールを作ることかもしれません。

 ということで、島への移住を巡る考えは、ぐるっと一周しました。しかし、ここが最終到達点なのかどうかは分かりません。ここを通り越して半周すると、そこには移住というゴールがあるのかもしれません。でも、いまのところ Cafe & Library を作ることに傾注していて、とても移住を考える余裕がありません。Cafe & Library 構想が行き詰ったときに、再び検討の俎上にあがるのか。いや、できればその行き詰まりを克服して、構想を実現していきたいのですが。








2024/04/08

課題を解決しない図書館

 大学図書館の名刺のおかげか、海士町ではいろんな方とお話が出来ました。なかでも中央図書館の館長さんからは親しくお話を聞かせていただきましたが、ご自身がこの島でされていることについて、とても自信を持っておられる様子でした。この島でお話を聞く方が、みなさん、こんなふうに自己肯定感に包まれているのです。本当にすごい島だと思いました。

 館長さんのお話の中で、その時は「意外だなぁ」と思ったのが「サードプレイスとしての図書館」という考え方でした。いま私が考えている Cafe & Library なんかは、もしかしたらその考えの延長にあるのかもしれません。あるいは、私自身が館長さんの掌の上で藻掻いているだけで、もし私がこの島に移住して、この館長さんの手に掛かれば、あっという間に Cafe & Library が出来てしまう。出来上がった Cafe & Library は、館長さんが考える「サードプレイスとしての図書館」なのかもしれません。

 その話をする前に「課題解決型図書館」の話を聞いてください。

 もともとは文部科学省が2005年にまとめた「地域の情報ハブとしての図書館(課題解決型の図書館を目指して)」という文書があって、その中に、図書館が「地域課題の解決支援」を積極的に担っていくことが謳われていて、具体例として「ビジネス支援」「行政情報提供」「医療関連情報提供」「法務関連情報提供」「学校教育支援(子育て支援含む)」「地域情報提供・地域文化発信」などといった機能を図書館が担うべきだ、と言っているのです。例えば、カフェを開業したいと思っている人が図書館に行って「起業・創業支援に関連する法律、会計、税務、特許等の制度を解説した資料の提供」や「起業・創業に関連する補助金・助成金の手続や関連行政窓口の案内及び申し込み手続資料の提供」といったサービスが受けられるようにする、というものです。

 なんだか難しい単語ばっかりですね。漢字ばっかりだし。役所の文書なので仕方がありません。とても大事な国の方針を決めようという文書なのですから。

 それまでの図書館は、「一般公衆の…教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資する」(図書館法第2条)といった抽象的な役割しか与えられていませんでした。だから、文部科学省のこんな文書を読んで「これからはもっと積極的に利用者の課題解決にアプローチしていかなくては」と考える図書館員もたくさんいたと思います。それが図書館のひとつの流れになっていました。以前の記事で紹介した埜納タオさんのマンガ『夜明けの図書館』に描かれる図書館員も、この流れの中にあるといっていいでしょう。主人公の司書は、図書館を訪れる利用者の様々な問題を解決していきます。図書館員が利用者の役に立つ職業として、図書館が社会の役に立つ施設として描かれています。当時は私も図書館員でしたから、自分がしていることが誰かの役に立つということを必死にアピールしようとしていました。

 でも、それは、商品経済の中で、労働力という商品である自分自身の価値を高めるための課題であったり、消費者としてより活発な消費活動をするための課題であったり、商品経済のプレーヤーとしてより優れたパフォーマンスができるようになるための課題であったり、どこかでカネ勘定につながっている課題の解決が大半を占めているように思うのです。そのときはそんなふうには思わなかったのですが、図書館を商品経済の中に組み込んでいく流れだったのかもしれません。

 館長さんはその先を行っておられた。というか、島全体がその先を行っているのかもしれません。そのときはピンとこなかったのですが、いまになってやっと館長さんの背中が見えてきた思いです。

 フェリーが着く港の近くに「研修交流センター」という、島の高校生がよく使う施設があって、そこも図書館の分館になっていました。高校のオープンスクールの日は、大勢の中学生が先輩高校生の話を眼を輝かせて聞いていた施設です。中学生たちが帰ったあとここを見学させてもらいました。そのあと、そこにおられた学校関係者の方(2024/4/6の記事で紹介した『未来を変えた島の学校』の著者のお一人)にご案内いただいて、高校の寮にある分館も見学させていただきました。その時は寮生のひとりがアテンドをしてくれたのですが、その彼が、自分たちはやりたいことがいっぱいあって本を読む時間が惜しい、というようなことを言ったうえで推薦本を尋ねてきたのです。さあここは図書館員の腕の見せ所、と気負ったのはいいのですが、うまく本が推薦できません。この時の経験には、島から帰った後も悶々とさせられました。自分の図書館員としての力のなさを突き付けられた思いでした。

 でもいまなら大丈夫です。本を読む時間が惜しいという彼に本を推薦する必要はありません。彼は、読書を通じた間接的な経験ではなく、実際のリアルな経験で満たされているのです。本を通じた著者とのコミュニケーションではなく、彼の周りにいる仲間や彼を支えてくれるいろんな方とのコミュニケーションで満たされているのです。本を必要としていない人に本が必要になるように仕向けることは、少なくとも私の役割ではありません。水を必要としない人に無理に水を勧めるのではなく、水が必要になったときにいつでも飲めるようにしておく。図書館の役割はそういうものかもしれません。リアルな世界でのコミュニケーションに疲れたときのセーフティーネットとしての図書館。それが、館長が仰る「サードプレイスとしての図書館」ではないかと思うのです。それは、何か具体的な課題に対して解決策を提示するような、本に喩えれば、読めば答えが書かれている実用書のような、そんな施設ではありません。けれど、人が人として存在していくために必要な施設なんだと思うのです。

 Cafe & Library は、複雑化した現代社会のコミュニケーションからいったん解放される空間を提供するというコンセプトを持っています。一見、何の課題も解決してくれていないように見える図書館なんだけれど、実は、現代社会が抱えるとても深刻な問題の解決に取り組んでいる。利用する人が、労働力という商品としてではなく、人として存在することが出来る時間と空間を提供する。Cafe & Library の私設図書館としての側面は、そういうものなんだろうと思います。




瀬尾まいこ. 2009. 『図書館の神様. 筑摩書房.

学校の中で生き辛さを抱える生徒にとって保健室が一種の避難所として機能している事例をよく耳にしますが、この小説では、図書館がそうした役割を担っているように描かれています。これの面白いところは、生き辛さを抱えているのは、生徒ではなくて先生の方で、それを文芸部の生徒が救ってくれるというところなんです。

海士町の高校の近くには、おそらく新進の建築士が設計したと思われる斬新なデザインのホテルがあって、そこにも図書館の分館があります。ホテルの方に聞くと、ときどき高校生がやってきて静かに本を読んでいるとか。島に向かうフェリーの中から、彼らのバイタリティーには圧倒され続けてきましたが、彼らも人間ですから、ときには疲れて休息を必要としているのかもしれません。

2024/04/07

島まるごと図書館

 海士町の「島まるごと図書館」という取り組みは、もともと図書館のなかった町のいろいろな施設に、図書館的な機能を持たせて、それらをネットワーク化することで、町全体を図書館にしようというものです。中心になったのは公民館の図書室ですが、その他は、地区の集会所だとか、病院の待合室だとか、フェリーの着く港の待合所だとか、学校の図書室だとか、飲食店だとか、民家だとか、そういうところの本棚を開放して、そこを「図書館だ」と言ってしまう。そんな取り組みだったようです。2007年に始まって、3年後には中央図書館ができます。その過程で蔵書整備も進められるのですが、それも町ぐるみで取り組まれたようです。いろんな方が関わって出来た図書館なのです。

 中央図書館が出来てからは「分館」という位置づけになったそれぞれの施設では、病院であればお医者さんが、飲食店であれば店主さんが、民家であればその家の方が持っておられる本を読むことが出来るのですが、その他に、中央図書館の蔵書の一部が配架されていて、貸出もできるようになっています。どういう本を配架するのがよいのかは、中央図書館の司書さんの腕の見せ所。この方の家ならこんな本、このお店ならこんな本というのが、実によく考えられて配架されています。もし自分がこの島に移住してきて、自分の家を図書館の分館にしたら、いったいどんな本を配架してくださるのだろう、と考えるだけでワクワクします。

 人口2千人ほどの町に、図書館が30館近く。100人に1館以上の割合であって、それぞれのところに、図書館の本だけで数百冊。私蔵の本をあわせるとその数倍の本があるのですから、町中に図書館があるというよりも、図書館の中に町があるようなところです。2泊3日の予定で上陸した私は、その間に1館でも多くこれらを訪問したいと思っていました。しかし、そこでちょっと困ったことに気付きました。ホームページによると、中央図書館の休館日は火曜日で、それ以外は10時から6時まで開館しているということが書かれているのですが、分館の開館時間については一切書かれていません。島に滞在するのは秋の3連休。病院の待合所だったら、ずっと閉館かもしれません。それでまず中央図書館に行って、分館の開館時間を尋ねることにしたのですが、そこで、どうやら島外から来た私が考えるのとは全く違うシステムなんだということが分かりました。対応してくださったのは館長さんでした。当時は大学の図書館に配属されていましたので、名刺を渡して、図書館の見学をしたい旨を伝えたところ、そこから分館に電話をしていただいて、「ここはいまおられます」「ここは夕方ごろならとおっしゃっています」というような案内をしてくださるのです。集会所などの場合は、朝、どなたかが鍵を開けて、夕方に締めるといったことをされているようなので、いつでも利用できるようなのですが、その代わり、日中は誰もおられません。せっかくなので、人がおられるところに行ってお話も聞いてみたいと思い、紹介された2軒の民家を訪ねることにしました。

 1軒目は、島外から移住されて農業を営みつつ、リモートワークで生計を立てておられるご一家。2軒目は、夫さんを横浜に残して、小学生を連れて2年間の島留学をさせておられているお母さんでした。おそらくこれまでもに、いろんな方が来られて、その度に、どうして移住したのか、どうして島留学をさせようと思ったのか、繰り返しお話をされておられるのだと思います。お話されるのにとても慣れておられて、しかも自信に満ちた語り口。1軒目の方は海外で仕事をされた経験もあるとのこと。2軒目の方は、お子様に、いまこの年齢でしか経験できないことを経験させたいと思って、海外も含めていろいろなところを見て回ったが、最終的にこの島にしたとのこと。日本の中でも同様の取り組みをしているところはあったけれど、どこも役所の人が立派なパンフレットを見せながら説明してくれるところを、この島では、いま現に島留学をしている人が、雄弁に語ってくれるのを見て、ここに決めた、というようなことを仰っていました。昨日の記事に書いた隠岐島前高校と同じですね。

 この島では、都会では考えられないような濃密なコミュニケーションがあると思いました。ただ濃密というのではなく、普段の私の周りにあるコミュニケーションとは全く異質のコミュニケーションだと思うのです。市場経済の中で労働力としての自らの価値を高めるためのコミュニケーションではなく、人が人らしく生きるために必要なコミュニケーション。カネ勘定と他人の評価に迎合するのではなく、それぞれの人が自分の考えを持って、相互に信頼しあえるコミュニケーション。その中心が高校であったり図書館であったりする。
いいなぁ
私も移住しようかなぁ
半ば本気でそんなことを考えたりもしました。自分の家を図書館にしたいという発想は、たぶん、この時に芽生えたのだと思います。




磯谷 奈緒子. (2016). 「離島の小さな図書館にできること─海士町中央図書館の歩み」. 青柳英治 編著, 岡本真 監修. 2016. 『ささえあう図書館. 「社会装置」としての新たなモデルと役割. 勉誠出版. 第2章, pp.33-52.

コミュニケーションの中心に図書館がある。これは、この島で何人かの方のお話を聞けばすぐに実感できることなのですが、これを読めば、島に行かなくても、それがどういうことかわかると思います。コミュニケーションの中心にあるということは、図書館が、人づくり、町づくりの中心にあるともいえます。移住してきた人が、図書館のない海士町なんて想像ができない、と仰るほど、この島では、図書館はなくてはならないものになっているのです。



2024/04/06

隠岐郡海士町

  私設図書館のことを語るのになくてはならないロールモデルは、島根県隠岐郡海士町の「島まるこご図書館」です。ここでご紹介する図書館は、海士町が運営する海士町中央図書館の分館ですので、図書館の分類でいえば「公共図書館」ということになるのですが、そんなことは大きな問題ではありません。

 海士町の図書館の取り組みは、2014年に「Library of the Year」として表彰されました。以来、全国からこの離島に図書館関係者が訪問しているのだそうです。私が訪ねたのは2020年の秋。夏季休暇に行くつもりだったのが、新型コロナウィルス感染症の大騒ぎで延期していたのです。その頃もコロナは猛威を振るっていましたが、人々の生活にはちょっと落ち着きが見え始めていました。

 図書館の話をする前に、海士町の話をしなければなりません。島根県沖に浮かぶ隠岐群島には、いわゆる「隠岐の島」といわれる道後と、その手前に、中ノ島、西ノ島、知夫里島からなる島前(どうぜん)諸島で構成されます。島前には、3つの島に、海士町、西ノ島町、知夫村の3町村があって、そのうち海士町に、島根県立隠岐島前高校があります。

 この隠岐島前高校というのがただの県立高校ではありません。全国から、この島の高校に通いたいという子供たちが集まってきて、親元を離れて、3年間の寮生活をしながら通う高校なのです。島を訪れた日はこの高校のオープンスクールの日。全国からこの高校を見学しようという中学生が島を訪ねて来ていて、島中の宿泊施設は超満員。そんなこととは知らず、手当たり次第に電話を掛けたりしていたのですが、どこも予約が取れないので、3軒目ぐらいに「何があるんですか」と聞いたところ、そんなことを聞かされて、町の観光協会に泣きついて何とか宿をとってもらったというような次第。

 そして当然のことながらフェリーもたいへんな混み具合。中学生と思しき少年・少女たちとその親御さんがわんさかと乗船していました。本土からは約3時間の船旅。そんな短時間にどんな子供なのか決めつけることは出来ないのですが、少なくとも、それぞれの郷里で何か問題を抱えて離島の高校に逃避するといった感じではありません。中には、1学年に何クラスもあるような学校で生徒会長をしていてもおかしくないような雰囲気の子供もいます。いや「子供」というより「青年」といった方がいいかもしれません。総じて、私が勤めている大学の学生よりも大人びている感じがしました。

 あとで、この高校の寮にある図書館の分館も見学させてもらったのですが、そのときアテンドしてくれた高校生も、とてもしっかりした人でした。高校のある丘の坂道を降りたところの集落に、高校生のための交流施設のような学習塾のようなところがあるのですが、そこにも図書館の分館があるので見学しようとしたところ、たくさんの中学生が現役の高校生と話をしている真っ最中でした。中に入るのはちょっと遠慮させてもらって、遠巻きに見ていたのですが、話をする高校生も、聞いている中学生も、とにかく目が輝いている。自信に満ちている。先輩高校生のこういう様子を見て、自分もそうなりたいという憧れを持って中学生が入学してくる。そして、その入学した人がまた次の中学生を呼び込む。そんな構造が出来上がっているのです。

 コミュニケーション能力というのは、このブログに通底するひとつのテーマですが、彼らのコミュニケーション能力は本当にすごい。それも、カネ勘定に汚れていない、純粋な、この島のコミュニティの中でより良く生きていくために必要な、そしてこの島のコミュニティをより良くしていくようなコミュニケーション能力だと思うのです。

 高校生だけではありません。人口2千人ほどのうち、約2割ぐらいが移住者なんだそうです。実際に住んでいないので分かりませんが、お話を聞いている限り、田舎にありがちな閉鎖的なコミュニティではなく、本当に開放的で、移住者が温かく受け入れられている。そしてそのコミュニティの中心に図書館があるようなのです。

 少し前置きが長くなってしまいましたが、次の記事で、この島で見たこと、体験したこと、思ったことを綴っていこうと思います。




山内道雄, 岩本悠, & 田中輝美. 2015. 『未来を変えた島の学校. 隠岐島前発ふるさと再興への挑戦. 岩波書店.

高校の生徒数が減る→教員が削減される→物理の授業が出来なくなる→理系進学希望者が島外に進学するようになる→高校進学を切っ掛けに離島する家庭が増える→高校の廃校→人口の減少→フェリーの減便→生活不安からさらに人口が減る→医療崩壊、行政サービスの崩壊→町村合併→集団離島

そんな暗い未来を変えるために高校を変える。プロジェクトX張りのドラマがそこにある。そして、確かに高校は変わった。島も変わった。

この記事を読んで海士町に興味を持たれた方、ぜひ、この本を読んでから行ってみてください。





2024/04/05

私設図書館

 いつの間にか読書カフェを作る方向に舵が切られているのですが、Cafe & Library 構想の最初の走り出しは「私設図書館」でした。それを自宅というプライベートな空間ですることには抵抗があって、ひとりの個人が作り出せるパブリックな空間としてのカフェを活用しながら、そこを私設図書館にする。それが Cafe & Library 構想の始まりなのです。

 ただ、ここで作ろうとしている図書館というものが何なのか。これにもいくつかのロールモデルがありつつも、やはり自分が作ろうとしているものは、それらとは違うもののように思います。

 そもそも「図書館」とは何なのか。例えば「日本大百科事典(ニッポニカ)」では、次のように説明されています。

図書館は、図書その他の資料を収集・保存し、一般あるいは特定の利用者のため、閲覧、貸出し、参考調査(レファレンス)などのサービスを提供する機関である。(中略) 図書館は設立主体によって学校図書館、大学図書館、公共図書館、専門図書館と分けられてきたが、後に国立図書館という種類を加えて考えるようになった。

 設立主体によって国立、公立、大学、学校と分類して、残りは「専門図書館」だというのであれば、「私設図書館」はすべからく「専門図書館」ということになるのですが、私が作ろうとしている Cafe & Library が専門図書館になるとはちょっと考えにくい。強いていうなら、私が手に取った本を並べているので、その本を見ることによって私の考え方とか人となりとかがよくわかる、という専門性はあるのですが、そうなると、むしろ図書館というよりも、資料館に近いかもしれません。

 図書館法という法律によると

この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする施設で、地方公共団体、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。

ということですので、これも私が作ろうとしている Cafe & Library を包摂するような定義ではありません。この条文をそのまま読めば、私設図書館を設立するには、社団法人か財団法人を設立しないといけないことになってしまいます。ただ図書館法第29条には「図書館と同種の施設は、何人もこれを設置することができる」とも書かれていますので、法人ではなくて個人でも設置できるのかもしれません。しかし、何のために私設図書館を作るのかといわれて「一般公衆の…教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資する」ため、なんて訳ではありませんし、そもそも来ていただく方を「一般公衆」などといって、そのマウントをとれるようなサービスも提供できません。

 ここからしばらく、読書カフェのことを考えながら、私設図書館のことについても考えていこうと思います。




埜納タオ 著. 2011. 『夜明けの図書館. 双葉社.

暁月市という架空の街の公共図書館に勤める司書が主役のマンガ。図書館を舞台に、司書同士や利用者との様々なコミュニケーションが描かれています。一般の方から見た図書館員のイメージは、物静かで内向的なイメージかも知れませんが、このマンガには、図書館に勤めている人が理想だと思う、コミュニケーションに対してとてもアクティヴな図書館員像が描かれていると思います。けれど、私が作ろうとしている私設図書館は、これとはかなり違う。蔵書だってそんなにたくさんある訳ではありませんので、こんなレファレンス・ニーズ(調べもののお手伝いをするニーズ、というようなことです)に応えられる訳はありません。

2024/04/04

おカネの壁

 カネ勘定で値踏みされる世界からの逃避場所として Cafe & Library を作るのに、そこでおカネを取ることを、自分の中でどう説明するのか。おカネを取れば、「いらっしゃいませ」と声を掛けるところからすべてが商行為ですから、そのお客さんからいくらおカネが取れるかということがすべての行動の基準になってしまいます。常に愛想よく振る舞い、けっしてお客さんに不愉快な思いをさせない。そんな行動が求められます。そういうことが嫌で Cafe & Library を作っているのに… そういうところから逃避したい人に来てほしいのに…。

 おカネを取れば、それを惜しんで来ない人もいます。カネ勘定と他人の評価で息苦しい思いをしている人の役に立ちたいのに、おカネが障壁になってしまう。

 でも待てよ。

 自分がやりたいことは、カネ勘定と他人の評価で息苦しい思いをしている人にそっと寄り添ってあげるとか、そっと背中を押してあげるとか、そういうことであって、誰彼構わず来店者を増やして、別に息苦しさを感じていない人に、このブログに書き綴っているような話を聞かせて息苦しい思いにさせることではありません。つまり、Cafe & Library に来てほしいターゲットは、最初に絞り込まれているのです。

 もしおカネを取らない施設なら、誰彼構わずやってきます。それは、本当にこの Cafe & Library を必要としている人にとっては、あまり歓迎されることではありません。おカネを取れば、本当にここに来たい人だけが来る。それによって、この Cafe & Library のコンセプトを理解して、それに共感できる人だけの世界が作れるかもしれません。

 以前に紹介したお気に入りのカフェは、価格設定は高めです。わざわざ他店よりも高いおカネを払ってでもその店に来たい人だけが行く。その店の価値を知っている人だけが行くのです。そう考えると、この店の場合は、おカネの壁が高いことが、そのお店の価値を高めていると言えます。

 これも以前の記事で紹介した彼岸の図書館は確かに無料ですが、交通の便がとても不便なところにあります。交通費だけでも、コーヒー1杯分では行けません。時間はかかる。交通費はかかる。それでコーヒーの1杯も出ないのですから、カネ勘定でその価値を測ろうという人には価値を見出すことはできない。やはり、その彼岸の図書館の価値を知っていて、わざわざそこまで行こうという人しか行きません。それと同じことを交通の便が良い町でやれば、誰彼なくやって来ることになりますから、思うような空間にすることは難しくなります。

 おカネの壁は、Cafe & Library のコンセプトに共感し、それを求めてやってくる人を拒む壁ではなく、Cafe & Library を必要としていない人に来場を思いとどまっていただくための壁。その壁のおかげで、たとえ短い時間であっても、世間から隔てられたユートピアがそこに出来るのかもしれません。

 そのことに確信を持っていれば、読書カフェと私設図書館のコンセプトは、矛盾せずにひとつの空間に溶けあえるのではないかと思います。おカネ欲しさに来場者に媚びたり迎合したりしないこと。価値が分からない人には、無理に価値を説明するのではなく、価値が分かってから来ていただくようにすること。そういうところがブレなければ、おカネを取ったからそれは商行為だ、とも言いきれませんし、それで Cafe & Library が市場経済に呑み込まれてしまう訳でもない。私の考え方次第なんです。


2024/04/03

Re-Communication

  Kさんは私の高校時代の同級生で、卒業したあとも付き合いが続いている友人です。Kさんは昔は会社員でしたが、30歳代で退職して、居酒屋を経営するようになり、いまは京都市内の自宅の1階を店にして、夫婦で切り盛りしています。卒業してからもう40年が経つのですが、これだけ付き合いが続いている理由のひとつは、彼が店を出していることだと思うのです。彼がどこかの会社に勤めているなら、彼と何か話をしようと思えば、日時と場所を調整して合わないといけません。彼が店を出しているおかげで、彼と話をしたいと思えばいつでも彼と会えるわけです。

 夫婦だけで切り盛りしている店ですから、5人も客が入ると雰囲気的にはもう満員。実際には20席ぐらいあったと思うのですが、そんなに人が入ると手が回りそうにありません。見たところ、ひとりか少人数のグループで来る人が多く、通りすがりの「一見さん」ではなくて「馴染みの客」ばかりのようです。Kさんにとっては、それはとても居心地がとてもいいのだそうです。どの人もKさんに興味や関心があって、Kさんと話をすることを楽しみに店に来てくれる。自分のことを好きな人に囲まれて、そういう人だけを相手にしていればいい。それがいいんだというような話をしてくれました。羨ましい限り。自分もそのような店を作りたいものです。

 先日、彼の店を訪ねて、自分の Cafe & Library の話をしていたのですが、どうも「脱・コミュニケーション」というコンセプトが上手く伝わらない。Kさんにとっては、店はコミュニケーションの場なので、それをしない店というのがイメージできない。ネットカフェとどう違うんだ。ネットカフェだって、ブースの中に閉じこもって普段の煩わしいコミュニケーションから解放されるじゃないか、というのです。きのうの記事で紹介した焙煎ワークショップなんかを引き合いに、やっぱりコミュニケーションをしようとしているじゃないか、なんてことも言われました。

 この場合、私が思っていることが伝わらないのは、相手が何か誤解をしているわけではありません。私に迷いとかブレがあるからなのです。それは以前の記事(2024/3/14付「此岸と彼岸」)で解決を試みて、結局未解決のままになった課題です。けれど、これもKさんと話したおかげで、少し出口が消えてきました。以前の記事(2024/2/26付「読書とコミュニケーション」)で、「De-Communication」の先に「Re-Communication」を目指すという趣旨のことを書いているのですが、それをきちんと他人に理解してもらえるレベルまで落とし込んで、自分なりに確信を深めていく必要があるのだと思います。

 人間は、誰かと協力したり、ときには組織や社会を構成しないと生きていくことが出来ませんから、コミュニケーションに対する欲求は本能的な欲求だと思うのです。ところが、市場経済の中で、言い換えればすべてがカネ勘定という記号に還元されてしまう世の中の仕組みの中で、商行為としてのコミュニケーションや、自分の労働力としての価値を高めるためのコミュニケーションばかりを求められ、そうしたコミュニケーションによって自分の価値を高めることが出来ないことを障害や病気として捉えるような社会が出来てしまうと、そこから逃れたいという欲求も生まれてくる。そういう欲求を持った人たちに「脱・コミュニケーション」の場を提供する。そこまではいいのですが、住み込みの施設を作るわけではありませんので、Cafe & Library に来た人は、その日のうちにそこを出ていかなければなりません。その戻る先が元の煩わしいコミュニケーションを求める社会だとすると、そうした「脱・コミュニケーション」の場を「消費」することが商行為の対象となってしまう。ネットカフェなんかはその典型だと思うのです。

 そこで大切なのが「Re-Communication」。コミュニケーションの再構築だと思うのです。Cafe & Library を出た後に戻る世界を、もともとその人がいた煩わしい世界の外に作って、そこに戻ってもらう。そうしないと、コミュニケーションによって息苦しい思いをしている人の本当のニーズには応えられないと思うのです。その「Re-Communication」の切っ掛けが読書であったり、焙煎ワークショップだったりする。そんな構図だと思うのです。

 それを押しつけがましくするのではなく、できるだけさりげなくやりたい。現代社会に息苦しさを感じるという問題を解決できるのは、その息苦しさを感じている当の本人しかいません。私が何か助言をして解決するわけではないのです。カウンセラーでもありませんから。だから、「新しいコミュニケーションの扉を開こう」などというキャッチコピーはやめて、「本と静寂が織りなす空間であなただけの時間を」などといった、静かな空間とゆっくり流れる時間をアピールする。それが前面にあるので、その背景にある構図は分かりにくいのですが、それは敢えて分かりにくくしているだけであって、私はちゃんとわかっていないと駄目なところです。

 ここへ来る人の背中をそっと押してあげる。

 それはあくまでも「そっと」であって、あまり力強く押してしまうと、その人を却って苦しめることになってしまいます。




2024/04/02

展示会

 大阪で、カフェや飲食店を対象とした展示会があったので行ってきました。食材、厨房機器、食器、什器、包装、レジ、衛生管理、Webページ作成など、飲食店が1軒ある背景にこれだけの人たちが関わっているのかと、改めて感心します。これからカフェを開業しようとしている人を対象としたセミナーなどもあって、出席者の数にも驚きました。講師によれば、カフェという業態は新規参入が容易な業態なんだそうです。確かに、これから板前になると思うと、修行している間に命が尽きてしまうかもしれませんが、カフェのマスターならなれそうだ、などと思うのは私だけではないようです。それだけに競争も激しくなります。自分自身は競争をするつもりではなくても、市場経済はそういう個人の思いとは裏腹にすべてをカネ勘定に呑み込んでいくもの。そういう競争の中で生き残っていくためには、というよりもその競争に巻き込まれないためには、他にない価値を提供してく必要があります。私の Cafe & Library に関して言えば、それも私設図書館の部分は脇に置いて読書カフェの側面だけを見れば、いかに他店にないようなコーヒーを提供するかということになりますが、裏返せば、コーヒー以外のところでいかに簡略化するかという問題でもあります。

 コーヒーに関して言うと、自家焙煎というのは気になっていたテーマです。ネットを見れば、家庭用の焙煎機が数万円から売られているので、そういうものに手を出すというのもひとつの手かもしれないのですが、展示会では、もう少しランクが上の「業務用」のものがいくつか展示されていました。最下位ランクでも数十万円。しかし、モノはしっかりしていますし、ユーザーを対象にした使い方のセミナーなどもやっているらしいので、これを持って市場参入というのもわるくはなさそうです。展示会では、実際にそれを扱わせてもらって、焙煎されたコーヒー豆を持って帰らせてくれました。

 そうやって展示されている焙煎機を触らせてもらって、この焙煎機を使った「焙煎ワークショップ」なんてことができないか、なんてことを思いつきました。私が展示会でやったように、Cafe & Library に来た方に焙煎機を操作してもらって、自分好みの焙煎をしてもらい、出来た豆を自分でミルして、自分でドリップする。余った豆は持って帰れる。どれぐらいの値段を付ければよいのかよく分からないのですが、他店ではないサービスなので、関心を持ってくださる方もおられるかもしれません。

 一方で、プロユースな冷凍の食材なども多数展示されていて、そういうものを使いながら、限られた人的資源(おそらく永遠に私一人)を有効に活用していく。なんだか経営者になったような気分です。経営者には違いないのですが。



2024/04/01

読書カフェ

 私が構想している Cafe & Library には、カフェという側面と私設図書館という側面があります。カフェとして経営的に成功することだけを目指しているわけではなく、私設図書館という存在にユートピアを求めているわけでもないのですが、それだけに、開業に向けた(「開館」といった方が良いのか?)構想を練り上げているいまは、ゴールが見えない暗闇の中で手探りをしているような苦しい状態です。カフェを作ると割り切ってしまえば、そのロールモデルはあります。こんなふうに本を並べているカフェを、一般に「ブックカフェ」というのだそうですが、その中には書店のように本を売っているカフェもあります。参考にしているカフェは、いずれも本の販売はしていなくて、「読書カフェ」を自称されています。そういう先輩カフェを見ていれば「こうなったら成功」というゴールも見えやすくなります。けれど、それではここまでこのブログで縷々(というかウダウダと)述べてきた構想とは異なるものになってしまいます。

 少し大袈裟な言い方をすれば、現代社会の問題を解決できるような、ここにしかない価値を作り出したいのです。いまの世の中を根本的に変えるような、何か革命のようなことを考えるのではないのですが、自分の周りのほんの小さな世界に、いまの世の中では解決できない問題を解決できるような空間を作り、いまの世の中に苦しんでいる人を解放できるような時間を提供したい、とそんなことをなんとなく考えて、思考の中を行きつ戻りつしているような状態になってしまいました。

 そんなときに、先日の記事(2024/2/27付「お気に入りのカフェ」)で紹介したカフェのマスターさんからメールをいただきました。このブログでお店の紹介させていただいたのですが、あるいはマスターがそういったことをあまり望まれていないのであれば、謝罪して記事を削除しなければ、と思って、先日、お店で名刺をお渡ししていたのです。マスターさんは、これまでに私が書いた記事を全部読んでいただいたうえで、この構想をたいへん好意的に受け止めていただいたようでした。構想が少し行き詰っていただけに、このメールがとても励みになりました。まるでラブレターをもらったように何度も読み返してお返事を書きました。いつか自分も、このマスターさんのように、自分の店に来た人の背中をそっと押してあげられるような存在になりたいと思いました。それが、自分の周りの小さな世界でいまの世の中の問題を解決する、ということなのかもしれません。

 ここまでは、時系列に沿って「妄想から構想へ」「構想の練り直し」とブログを更新してきたのですが、ここからはしばらく、ブックカフェとしてどうしたいのか、私設図書館としてどうしたいのか、並行してブログを更新していこうと思います。更新した順に読んでいくと、急に話が跳んでしまうことがあるのですが、いちおう、それぞれの記事に「ラベル」をつけて、第03章はブックカフェ、第04章は私設図書館のことを書いていきます。図書館って、雑誌とか新聞とかの記事だとか、収集した本に、こんなふうにラベル(「サブジェクトヘッダー」などというのですが)を付けるのが大事な仕事だったりするのです。図書館の職員だった者としては、こんなことがチョイチョイとできないとダメなんですが、果たして…。