2024/03/09

カフェ学校の帰り道

 その日、カフェ学校の説明会を聞いてから、いくつかのカフェを見学しました。といっても、普通にお客さんとして入店し普通に注文して普通にコーヒーを飲んで帰るだけなのですが、気持ちのうえでは「見学」というモードになっている自分がいます。

 そこで感じたことをどう表現すればいいのか、まだ自分の気持の整理がつけられていません。

 カフェに行けば、誰しも、コーヒーの味だとか、メニューだとか、値段だとか、居心地の良さだとか、接客の良し悪しだとか、いろんなことが自然と目に入ってきて、「また行こう」とか「もう行きたくないかな」とか考えるでしょう。それは、カフェや飲食店に限ったことではなくて、どこへ行ってもそういう「値踏み」みたいなことは無意識にしているものだと思います。でも、普通ならそういう「値踏み」はあくまでも主観的なものであって、「ぼくは気に入ったけどなぁ」とか「ちょっとイマイチだったなぁ」とか、知り合いに感想をいうことに重い責任を負う必要もなく、そのカフェでの時間をどれぐらい楽しめたのかを自分なりに評価すればいいだけのことです。

 しかし、自分が近い将来にカフェを開業しようとして「見学」すると、入店客数だとか、回転率だとか、客単価だとか、そういうことに目が向いてしまいます。メニューは客単価に直結しますから、おそらく先に価格を決めて、それにあわせてメニューを作っているのだろう、などと考えると、せっかく美味しそうな写真が載っていても、全部が「おカネ」のうえに載っているように見えてしまう。カフェにいるその時間を楽しみ余裕などどこかに行ってしまって、ただただ「値踏み」をしているような状態に陥ってしまうのです。

 もちろん、いろんな収穫もありました。お客さんとして楽しむことを脇に置いて、カフェ学校の説明会で聞いたことを思い出しながら、とにかくビジネスとしてその店を観察すれば、なるほどこの料理でもこうすればこれだけの値段が付けられるのか、などということが分かってきて、それじゃ自分のカフェだったらこうすればいいか、などといったアイデアも出てきたりもします。器具、什器、食器、レジの機械、そんなものをひとつひとつ観察しながら「こんなものも必要だなぁ」などと考えることもあります。もしカフェ学校に入学して、いろいろな勉強をしていけば、もっといろんなものが見えてくるようにも思えます。そういうものがひとつひとつ自分の糧となって、カフェの開業につながっていくのだと思うと、なんとなく心強く思えて、もうすでにカフェの開業が間近に迫っているような感覚にさえなります。

 その日、何軒かのカフェを「見学」して、やや興奮気味に家に帰ったのですが、ひどく疲れてもいました。そのときは、おそらく入力される情報が余りにも多く、その情報の処理が追い付かなかったのだろう、などと思っていました。じっさいそうだったのだと思います。

 ただ、アルバイトを数名雇い、ひっきりなしに来店客があって、とても成功しているように見えるカフェのオーナーと思しき人が、あまり楽しそうではなくて、むしろ時間に追われて悲壮な感じで料理を作っていたことが、強烈な印象として残りました。そのオーナーが考えている「成功」と自分の考えている「成功」は違う。彼が考えている「成功」は見えやすいし、実際に彼はそれを実現しているのだけれど、自分の考える「成功」とは何なのだろうか。

 モヤモヤとした気持ちを抱えてその日は終わりました。




國分功一郎. 2022. 『暇と退屈の倫理学. 新潮社.

真綿で締められるような現代社会の息苦しさの正体を見た思いのする本でした。

そうだ、この社会は豊かではない。物が溢れ快楽に満ちているのに、心が満たされることがない。常に、満足することを求めて消費を強いられている。カネという魔物が、退屈を忌み暇つぶしに余念のない人間に憑りついて、人間の心を簒奪しながら自己増殖をしていく過程に自分たちが取り込まれているから。しかし、それが人類が平和裏に生存していく唯一の方法であり、それが完成された世界が現代社会だという。

この日、私が感じたモヤモヤの正体も、実はこれだったのかもしれません。


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