2024/03/11

市場経済とクッション

 私の住む街は、人口もそこそこにはいるのですが、高層ビルが立ち並び、数分おきに十何両編成の列車が行き交うような都会ではありません。買い物や外食は、国道沿いにあるチェーン店かイオンモール。新聞の求人広告にはそういう店のアルバイト求人がいっぱい。時給も似たり寄ったりで、いちばん下の桁まで同じだったりします。飲食店であれば、そういうアルバイト店員でも店が回せるように、調理方法も提供方法も徹底的に標準化されていて、おかげでそれほどの都会ではないのに東京の大繁華街と同じサービスが受けられます。来店があれば「いらっしゃいませ」と声をかけ、人数を確認して席に案内し、水を出す。全国どこでも同じメニューを示してハンディ端末で注文を受け付ける。最近は席にタブレット端末を置いているような店も増えました。来店客が少しでも効率的に食事ができるよう、さまざまな工夫がされています。合理的に調理された料理。特別な技能を必要としない労働によって提供されるサービス。なんだか餌を食べるブロイラーのような食事を済まして支払う対価は、アルバイト店員の給与となり、そのアルバイト店員もどこかで同じような食事をしている。こういうのを「市場経済」というのですね。私の住む街の生活は、そんな「市場経済」のうえに、何のクッションもなく、直接乗っかっているようなものなのです。

 これが、そこそこの都会であればそんな極端なことはありません。それぞれに趣向が凝らされて、その店のオーナーなりマスターなりが、どんなお客さんに来てほしいのかとか、どんなサービスを提供したいのかといった、生身の人間の思いのようなものがあって、帰り掛けの会計のときに「いい感じのお店ですね」とか「美味しかったですよ」とかお声掛けすれば素直に喜んでいただけて、こちらも「また来よう」などと思ったりもする。食事をした満腹感とか、それに対して支払った対価とかとは別に、そのお店で過ごしたその時間が、そうやって記憶の中に積み重なっていくような思いがするものです。

 ところが、そういった「生身の人間の営み」に見える層を剥がすと、そこにはやはり「市場経済」がある。競争の激しい都会と、競争はあまりない代わりに市場規模の小さい地方の、どちらがより厳しい環境にあるのかは一概には言えませんが、サザエさんに出てくる三河屋さんのような店がいつまでも続けられるような生易しい世界はそうそう存在するものではありません。私がしていた「見学」は、そんな厳しい環境の中で、それぞれのカフェのオーナーなりマスターなりが必死に作り上げて守ろうとしている、その「生身の人間」の部分を無慈悲に剥がし、おカネと記号の世界としてその営みをみることだったのです。

 ああ、なんて馬鹿なことをしてしまったのでしょう。

 私のカフェ構想は入口まで戻ってきました。そして、その入口から中に入るべきかどうか、思いあぐねてしまいました。




白井聡 著. 2023. 『マルクス : 生を呑み込む資本主義 : 今を生きる思想. 講談社.

新聞の紹介記事で興味を持って読んだ本。「資本主義は人間の幸福や安寧に関心を持たない」。現代社会は「人間の心までもが(資本に)包摂されつつある」と分析する。記事(2023.3.18朝日新聞)ではそこが紹介されていた。

「本来、「感動」「笑顔」「仲間」「感謝」「協働」「共感」「連帯」「団結」といったものすべては、われわれが自主的につくり出すべきものだ。仕事の「やりがい」も自ら発見すべきものである。だが、消費社会的受動性が極限化するとき、一方では包摂の高度化が人間を純然たる労働力商品の所有者へと還元するなかで、それによって失われるわれわれの人生にとって不可欠な情動までもが、資本によって与えられる商品となる。」(p.119)

私たちは、知らないうちに、私たちが生み出した「おカネ」という道具に支配されてしまっている。AIが私たちを支配する前に、私たちはもう「シンギュラティ」を迎えているのかもしれません。本の紹介としては、ちょっと「ベタ」ですかね。

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