2024/03/19

覚悟

  彼岸の図書館のような施設を運営するにもいろいろな覚悟が必要だと思うのですが、読書カフェを作りにも、やはりいろいろな覚悟が必要だと思うのです。図書館に来る人と違って、読書カフェに来る人はおカネを払います。おカネを払えば、その対価に見合ったサービスが得られたかということを値踏みします。おカネの多寡には関係ありません。自分が提供するサービスも、自分が作り出した空間も、そして自分自身も、そういう評価に晒されるのです。その評価はシビアです。そして常に減点法です。嫌なことがあれば二度と行こうとは思いません。
雰囲気も良かったし、コーヒーも美味しかったけれど、BGMが煩くて落ち着かなかったな
と思えば、もうその人は来ないと思っていた方がいいでしょう。「BGMは煩くて落ち着かなかったけど、雰囲気も良かったし、コーヒーの美味しかったから、また行こう」と好意的に評価してくれるとは、あまり期待しない方がいい。そうなるのは、常に来訪者の方が立場が上だからです。来訪者は、たとえ少額であったとしても、自分はおカネを払っているんだという意識でそこに来ます。それに見合うサービスが提供されるのは当然のことなのです。
そういう世界から離れるために Cafe & Library を作りたいのに
でも、ここは自分で覚悟を決めないといけない。おカネ儲けのためにカフェをやるのではないという確信と、こういう場所を作りたいんだという明確なヴィジョンを持っていれば、だれも来てくれなくて売り上げが伸びないからといって、もともとのヴィジョンを捨てて、万人受けするような、つまりは何処にでもあるようなカフェを作ることもないと思うのです。

 ひとつのカギとなる考え方は、なにか「成功する」ことを考えるのではなく、「失敗しない」道を、ゆっくりといつまでも歩いていく、ということではないか。例えば、このカフェのために借金を重ねて老後の生活がままならなくなるというのは「失敗」ですが、このカフェで何百万も稼ぐとか、カフェの規模を大きくするとか、人を雇って事業を拡大するとか、そういう「成功」を考える必要なんてないのだと思うのです。人間は欲が深いですから、ちょっと軌道に乗ってきて稼ぎが出てくると、もっと稼ごうと思ってしまう。そうなると、最初のヴィジョンなんてどうでもよくなって、稼ぐためにはどうしたらいいか、ということばかりを考えてしまうんです。そうすると、おカネを払う来評者に迎合することになる。インスタ映えするメニューを作るなんてことを考えたりしてしまう。
そうじゃないんだ。
自分が提供したい時間と空間を作り出すための能力と機会を、この市場経済の中で手に入れていく。けれど、その市場経済の中に身を投じるのではなく、その市場経済から離れることが出来る時間と空間を作るのだ。カッコよく言えばそういう覚悟かも知れません。もっとベタに言えば「成功しない覚悟」かも。

 いや、それ以上に、自分の思いとは関係なく、カネ勘定と他人の評価に、学校や会社というクッションなしに、直接自分が晒されるという覚悟。その中にあっても自分を見失わないという覚悟。妄想から始まって、やっとそんなことが分かってきたように思います。




和田竜 著. 2010. 『のぼうの城. 小学館.

石田三成率いる2万人を超える豊臣軍を前に、わずか3千人で忍城に籠城する成田長親。成田家は、北条に味方すると見せかけて、裏では豊臣に内通している。

「戦いまする」


和戦いずれかを問う光成の使者に、決定的な一言を発する長親。唖然とする家臣。

「強者の侮辱にへつらい顔で臨むなら、その者はすでに男ではない。強者の侮辱と不当な要求に断固、否と叫ぶ者を勇者と呼ぶなら、紛れもなくこの男は、満座の中でただ一人の勇者であった。(上pp.181-182)

しかし、この一言によって、領地も領民も地獄の戦いに巻き込まれていく。領主たるもの、このような私情で軽はずみに戦いをしてはならぬもの。ところが、この領主は、とにかく人に愛されている。

「のぼう様が戦するってえならよう、我ら百姓が助けてやんなきゃどうしようもあんめえよ。」(上p.212)

こうして、関東平野の小さな城で戦国史に残る戦が始まる。

時代小説というのは、残されている史料をもとに作者が創作したフィクションです。この小説には、その時代を支配する論理に一矢報いようとすることに対する作者の共感が込められているのだと思います。






2024/03/17

アジール

  大河ドラマ「どうする家康」で三河一向一揆が描かれたときに、家康が治める三河国の中にあっても大寺院には不輸不入の権利が認められていて、そこに逃げ込んでしまえば、年貢の取り立てからも役務からも逃れられる、アジールのような場所が描かれていました。家康が不用意にそこから年貢を取り立てようとしたことから、家臣団を二分し親子兄弟で戦うような修羅場の戦になっていくというストーリー。現代社会の根底に市場経済と貨幣至上主義があるように、中世は、武力のある者がすべてを支配する世界で、それによって息苦しい思いをしている人もいれば、当時のことですから、精神的な苦しさだけではなくで、物理的に虐げられたり生命さえも危険にさらされたりしている人もいたことでしょう。不輸不入の権利によって守られている大寺院は、そういう現実から逃れられる、まさに「駆け込み寺」だったのかもしれません。

 私が作ろうとしているのは、こういうアジールなのかもしれません。

 近代になっても、農村には古いしきたりが残り、前近代的な息苦しい社会が残っていたのかもしれません。近世にはそれを息苦しいとは感じなかった人も、近代的なものの考え方に触れれば、それを息苦しいと感じたのかもしれません。そういう人にとって、近代的な建物が立ち並び、大きな工場に大勢の工夫が働く都会は、巨大なアジールだったのかもしれません。しかし、中世においても近世においても近代においても、それらのアジールは決して楽園のようなところではなかったのではないか。アジールの中にも厳しい労働があったり、理不尽な戒律があったり、武力が世の中を支配する世界では、アジールもそれに対抗する武力を持ち、貨幣が世の中を支配する世界では、アジールが貨幣の集積場となることで、アジールとしての機能を果たしてきた、といえるのではないでしょうか。そして、そのアジールの中に生まれた新しい息苦しさが、また新しいアジールを必要としている。けれど、そのアジールもまた、貨幣が支配する世の中の外には作れないのではないか。

 カフェを作って運営するには、どこか場所を用意しなければいけません。そのためには月々の家賃が必要です。人を雇う気はないのですが、いろいろな器具は用意しないといけません。調理器具にしても冷蔵庫にしても、ひとつひとつが数十万円。リースにすればそれぞれ月々数万円が必要です。上手く運営していこうとすればするほどおカネが必要になる。すると、それを回収するために売り上げのことを考えないといけなくなって、結局、貨幣と現代社会の論理に支配されたカフェが出来てしまう。それでは、煩わしいコミュニケーションから逃れられる時間と空間を提供するという Cafe & Library のコンセプトは実現できません。

 結局、私の能力と覚悟が試されている。

 私自身が現代社会の息苦しさから逃れたいというだけでは、この構想はいつまでも妄想のままで終わってしまいます。その息苦しい現代社会に自ら飛び込んで、カネ勘定と他人の評価に晒されながらでないと、少なくとも「カフェ」という形式でこんなアジールを作り出すことはできないでしょう。

 そうでないなら… 例えば、彼岸の図書館では地元で山を持っている人に気を切り出してもらって本棚を作ったと言います。そういう市場経済とはまったく違う論理で必要なものを得ていく。本棚だけでなく、食べ物だって、庭の畑でとれた野菜と、飼っている鶏だけで生活する、といった、市場経済とはまったく違うところに飛び込んでいく覚悟が必要です。それこそ妄想の世界。彼岸の図書館でもそこまでは徹底していないでしょうし、そこを目指しているわけでもないでしょう。

 武力にものを言わせて年貢を取り立て役務に借り出される世界に抗うアジールを作ろうと思えば、やはりそのアジールを武力で守らないといけない。市場経済の息苦しさから解放されるアジールも、やはり市場経済の原理で作っていかないと実現しないのです。しかも、これまでのように、自分を守ってくれる現代社会の鎧はない。これまでは、学校で習ったから、先生に言われたから、会社で決められたことだから、上司に言われたから、ということで、ずいぶんいろんなことを免責されてきたと思います。その所為で息苦しい思いもしましたが、そのおかげで気楽な気持ちでいられたこともあります。これからはそうはいかない。そういう覚悟が必要なんだと思います。




網野善彦. 1996. 『無縁・公界・楽. 日本中世の自由と平和 (増補). 平凡社.

歴史の中に、学校で教えてもらったこととは違う、何かものすごく大事なことがある。本当に歴史を動かしてきたのは、戦国武将でも勤王の獅子でもなくて、もっとその時代の人々の生活に密接にかかわってきた何かではないか。この著者の本を読んでいるとそんな気がします。そんなことを知ることが、学校でいい成績を、とって友達をたくさん作り、クラブ活動で活躍して、いい大学に行って、いい会社に入って、たくさんお給料をもらうという、既存のルートを離れていくための糧になるような、そんな気がしなくもありません。



2024/03/16

ふりだし

 いったい自分は何がしたいのか。

 それに対する端的な答えは見つからないのですが、彼岸の図書館と同じところを目指しているわけではありません。司書さんの著書を読んで「静かに滔々と流れる大河」を感じたのですが、おそらく彼女の人生の流れは、いろんなところを流れ、いろんな壁に行く手を阻まれながら、流れに流れて、そしてこの彼岸に辿り着いたのでしょう。それを真似ることに意味はありませんし、また真似ることもできないと思うのです。

 その図書館は確かに彼岸にありました。私が息苦しいと思っている此岸ではなく、私を迎え入れてくれる彼岸です。私が思うに、此岸で息苦しい思いをしている人は私だけではなく、いまは気付いていなくてもこれから息苦しく思うかもしれない人も含めれば、けっこう多くの人がそう思っていると思うのです。そして、彼岸の図書館がそれを全部受け入れてくれるわけではないはず。思いはひとりひとり、少しずつ違いますから、此岸で息苦しい思いをしている人すべてが、彼岸の図書館で迎え入れられる訳ではなくて、その図書館が建っている彼岸とは別の彼岸を求めている人もいると思うのです。そこに Cafe & Library を建てたい。それじゃ、それは何処なのか。それは、こうして机上で言葉を引っ搔き回していてもなかなか答えに辿り着けないように思うのです。

 カネ勘定と他人の評価に流されずに、自分のやりたいことをする、というのはとても大変なことだと思います。よほど自分のやりたいことに確信を持っていなければ、必ず流されてしまう。現代社会という枠組みはそれぐらい強固で、そこから逃れて彼岸に行こうとしても、それを此岸に押し戻そうとする大きな力があるように思うのです。それに、自分が行こうとしている彼岸は、ここからは良く見えないし、どこに向かって進めばいいのかもわからない。

 けれど、こうしていろいろ書き連ねる間に、此岸のことは少し見えてきたように思います。普段、地球が丸いことや地球が自転していることを意識している人はあまり多くはいません。それと同じように、この世の中の根本的な仕組みなどというものに対しては、ふつうの人々は無関心で、「世の中はそういうものだ」という一言で分かったようなつもりになっているものなのです。けれど、このブログに書き連ねられた文章や、それにくっつけて紹介している本の紹介文を書くことによって、此岸とはこんな形をしているのではないだろうか、ということが少しずつ分かってきたように思うのです。地球が丸いことを知っていれば月に行ける訳ではありませんが、地球が丸いことを知らなければ月へは行けません。だから、此岸の形を知ることは彼岸への第一歩だと思うのです。

 まるで月に人を送り込むような遠大な計画になってしまいましたが、案外、答えはもっと近くにあるのかもしれません。わざわざ月まで行かなくても、私たちは地上にいながら、この地球が丸いことを知ることも出来ます。彼岸まで行かなくても、此岸の問題を此岸で解決することも出来るのかもしれません。息苦しさの原因がカネ勘定と他人の評価なのだと分かってしまえば、わざわざ彼岸まで出掛けていかなくても、此岸にいながらにしてその息苦しさから解放される時間と場所を提供することが出来るかもしれません。「図書館」という名称に固執せず、いっそうのこと「読書カフェを作る」と言い切ってしまった方が答えに近づくのかもしれない。それはそれで、私にとっては、何千人もの人が関わって月に人を送り込むことと同じぐらいの「ビッグ・プロジェクト」ではあるのですが。




町田そのこ 著. 2020. 『コンビニ兄弟: テンダネス門司港こがね村店. 新潮社.

現代社会におけるコミュニケーションのあり方をもっとも端的に凝縮したともいえるコンビニエンスストアを舞台に、市場経済とはまったく無関係に「彼岸の人間関係」を描く小説。こんなコンビニはないとわかっていても、「どこかにあったらいいな」と思わせるところが、小説の力、創作の可能性なのかもしれません。コンビニにこれだけの力があるなら、読書カフェだって…。いや、これは創作というより、やはり妄想ですね。


2024/03/14

此岸と彼岸

 彼岸の図書館にやって来て、一方では、司書の方とお話がしたい、自分がここに来た経緯を聞いてほしいと思い、他方では、現代社会の複雑なコミュニケーションを煩わしく思い「脱・コミュニケーション」を掲げて Cafe & Library を作ろうとしているという、矛盾した思いが自分の中にあることに気付きました。それも「これはこれ、あれはあれ」と切り離して考えることが出来ないほど、気持ちの中のごく近い場所にです。構想から妄想に逆戻りした私の Cafe & Library は、混迷の沼に嵌まってしまったようです。
いったい自分は何がしたいのだろう
このブログを書きながら、あらためてそんなことを考えました。

 ヒントになったのは「お気に入りのカフェ」の記事で紹介した『月と六ペンス』だったかもしれません。仕事にも家庭にも、何の不満もない男が、すべてを捨てて画家になる。彼が求めたのは、カネ勘定で測れない幸福、他人からの評価では問うことの出来ない幸福、自分でしか価値を見出すことが出来ない幸福。すべてがカネ勘定で測られカネ勘定で評価される世界から脱したところに、彼の求めた世界があったのではないか。自分もそうなのかもしれない。そんなところから、自分が本当にやりたいことを見つけよう、などという、多少、青臭い気持ちが湧いてきました。この青臭さのことについては、また、どこかで改めて記事を書こうと思うのですが、いまは自分も、就職活動をしながら自分の将来を真剣に考えている学生と同じ立場なんだ、なんてことが脳裡を過ぎります。

 それはさておき、自分が「脱・コミュニケーション」を掲げたときの「コミュニケーション」と、この彼岸の図書館で自分が求めた「コミュニケーション」とは、大きな違いがあります。彼岸の図書館は商業施設ではありません。カフェで来店客に「いらっしゃいませ」と声をかけるのは商行為です。けれど、ここの司書さんが利用者と交わされる会話には商行為の要素がない。私たちは市場経済という枠組みの中にどっぷりと浸かっていますので、店員と客のコミュニケーションだけではなく、例えば、会社で上司にお愛想を言ったり周りに気遣ったりといったコミュニケーションも、それで「あいつはコミュニケーション能力がある」とか「ない」とか評価されることも、すべてが商行為だと言えます。コミュニケーション能力は、市場経済の中での自分の労働力として価値を高めます。言い換えると、労働力の価値に結びつかないコミュニケーション能力は、そもそもコミュニケーション能力とは認められない。私たちは、こうして、すべてがカネ勘定に還元される世界で他人から値踏みされ、そして知らないうちに自分もカネ勘定で他人を値踏みしているのです。そうじゃない世界を作りたい。それが Cafe & Library の出発点のように思うのです。
だったらカフェなんていっておカネ取るの止めたらいいじゃん
確かにそうかもしれません。彼岸の図書館があるその「彼岸」まで、いっきに川を渡ってしまうのもひとつの考えかもしれません。しかし、彼岸の図書館は、何の努力もなしに一夜にしてそこに出来たわけではありません。そこにある本の蓄積だけをとってみても、私など足元にも及ばないのです。私はその岸まで辿り着けるのか。川を渡る前の川岸で、まだ渡るか渡るまいかと思案している自分もいます。





2024/03/12

おカネで買えない時間と場所

 彼岸の図書館に迎え入れられた私は、いつもの癖で、まず書架を見て、どんな本がどんな順に並べられているのかを観察しはじめました。私の場合、通勤時間が主な読書時間ですので、話題になっている小説も文庫化されるのを待つことが多いですし、大学の先生方が書かれるような本も新書で読むことが多いので、必然的に教養書だとか入門書のレベルのものが多くなります。しかし彼岸の図書館は、本を読むことがとても好きな人の書架なんだということがすぐに分かりました。奥付を確認したわけではありませんが、小説などは初版本の初刷みたいなこだわりを感じますし、重厚な装丁の学術書然とした大部なものもたくさんあって、運営されている方の知性や教養が書架から滲み出ています。これだけ本を読まれるなら、本を読む速さに本を収集する速さが追いつかないかもしれません。古書店で購入したような本もあるようです。購入代金の節約のためなのか、あるいはどうしても興味があって読みたいのだけれど、すでに絶版となっていて古書店でしか手に入らなかったものなのか、たまたま立ち寄った古書店でどうしても読みたくなった本なのか、そんな事情は分かりませんが、古い本も結構多いように思えます。冊数はおそらく私の持っている本の10倍ぐらいはあると思います。文庫は文庫ばかり、新書は新書ばかり集められているのですが、それだけでも私の持っている本の総数を超えているでしょう。一般的に図書館によくある全集ものだとかマニアックな事典や辞書などはあまりないのですが、「ここは図書館です」といって恥ずかしくないだけコンテンツが並べられています。これと比べれば、私の作ろうとしている Cafe & Library なんて「図書館ごっこ」に過ぎません。

 「来館者」も多く、私が付いたときには3人の方がすでにおられました。その後そこに滞在していた2時間ほどの間に入れ替わりがあって、いちばん多いときで5人ぐらいだったでしょうか。商店街の中にあるわけではありませんので、おそらくどの方も、なにかの「ついで」に来られたわけではなくて「わざわざ」来られた方に違いありません。

 この図書館のことについて書かれている本の著者、つまりこの図書館の司書さんは、庭に面した閲覧室らしい部屋から襖と壁で隔てられた、おそらく「書庫」という位置づけの部屋の片隅で、黙々と作業をされていました。私は衷心から、その方を羨ましく思いました。「いいなぁ」と思いました。そして「ここに来て良かった」と思いました。この人は、確実に、その存在が認められ必要とされている。対価を支払ってサービスを提供してくれる人としてではなく、この場所と時間を提供してくれる唯一無二の存在として必要とされているのだと思いました。それは、今自分が生きている世界とは対極的な世界で、自分が足を踏み出したいと思っている世界のように思えました。

 この人と話がしてみたい。

 どんな思いでここに移住されてきたのか。どんな思いでご自宅を開いて図書館にされているのか。前日からいろいろなカフェを見て自分が感じているモヤモヤの理由を、この人は知っているかもしれない。この人と話すことで、何かヒントが得られるかもしれない。

 そうは思うのですが、気の利いた話題もありません。と、そのとき、他の書架とは毛色の違う書架を見つけました。どうやら、いま目の前にいるその人の著書が並べられているようです。同じ本が何冊もあるので、多分、ここで売ってもらえるのでしょう。あっ、この本をあそこへ持って行って「買いたい」と言えばお話ができる。私は、何種類かある本のうちの1冊を選んで司書さんのところへ持っていき、今朝ネットに投稿した者であることを告げ、サービスエリアで買った手土産を渡しながら、自分が今日ここに来るまでのいろいろな経緯を手短に話しました。定年後は自分の図書館を作りたくて、大勢の人に図書館に来てほしいと思ってカフェを開業しようと思い、そのための勉強をしようとしているのだけれど、その入口で迷いがあってここへ来た、みたいな話です。私が一方的に話すことを、司書さんは丁寧に聞いてくださって、「開業したら教えてくださいね」と励ましてくれました。やっぱり私が作りたいのはこんな場所なのです。

 本の代金を払い、読了したら感想を書きますね、と約束してその日は帰ったのですが、そのとき話せなかったことを書き留めておきたい、と思って始めたのがこのブログなのです。本の感想を書く前に、その本を読むまでのいきさつを書いていたら、本とまでは言わないまでも、ちいさな冊子になりそうなぐらいの文章になってしまいました。




青木海青子 著. 2023. 『不完全な司書. 晶文社.

水色の表紙カヴァーに惹かれて手に入れたこの本の中には、川の流れがありました。それも、優しい時間も激しい時間もすべて包み込んで静かに滔々と流れる大河のような川がありました。読了したら感想を送る約束だったのですが、言葉にしようとすると自分が感じたものとは違うものになってしまう。川の流れから水を汲み取っても、それが流れる水を代替できないような、そんな言葉のもどかしさを感じつつ、美しく流れる川をずっと見ていたい気持ちになる本でした。

2024/03/11

市場経済とクッション

 私の住む街は、人口もそこそこにはいるのですが、高層ビルが立ち並び、数分おきに十何両編成の列車が行き交うような都会ではありません。買い物や外食は、国道沿いにあるチェーン店かイオンモール。新聞の求人広告にはそういう店のアルバイト求人がいっぱい。時給も似たり寄ったりで、いちばん下の桁まで同じだったりします。飲食店であれば、そういうアルバイト店員でも店が回せるように、調理方法も提供方法も徹底的に標準化されていて、おかげでそれほどの都会ではないのに東京の大繁華街と同じサービスが受けられます。来店があれば「いらっしゃいませ」と声をかけ、人数を確認して席に案内し、水を出す。全国どこでも同じメニューを示してハンディ端末で注文を受け付ける。最近は席にタブレット端末を置いているような店も増えました。来店客が少しでも効率的に食事ができるよう、さまざまな工夫がされています。合理的に調理された料理。特別な技能を必要としない労働によって提供されるサービス。なんだか餌を食べるブロイラーのような食事を済まして支払う対価は、アルバイト店員の給与となり、そのアルバイト店員もどこかで同じような食事をしている。こういうのを「市場経済」というのですね。私の住む街の生活は、そんな「市場経済」のうえに、何のクッションもなく、直接乗っかっているようなものなのです。

 これが、そこそこの都会であればそんな極端なことはありません。それぞれに趣向が凝らされて、その店のオーナーなりマスターなりが、どんなお客さんに来てほしいのかとか、どんなサービスを提供したいのかといった、生身の人間の思いのようなものがあって、帰り掛けの会計のときに「いい感じのお店ですね」とか「美味しかったですよ」とかお声掛けすれば素直に喜んでいただけて、こちらも「また来よう」などと思ったりもする。食事をした満腹感とか、それに対して支払った対価とかとは別に、そのお店で過ごしたその時間が、そうやって記憶の中に積み重なっていくような思いがするものです。

 ところが、そういった「生身の人間の営み」に見える層を剥がすと、そこにはやはり「市場経済」がある。競争の激しい都会と、競争はあまりない代わりに市場規模の小さい地方の、どちらがより厳しい環境にあるのかは一概には言えませんが、サザエさんに出てくる三河屋さんのような店がいつまでも続けられるような生易しい世界はそうそう存在するものではありません。私がしていた「見学」は、そんな厳しい環境の中で、それぞれのカフェのオーナーなりマスターなりが必死に作り上げて守ろうとしている、その「生身の人間」の部分を無慈悲に剥がし、おカネと記号の世界としてその営みをみることだったのです。

 ああ、なんて馬鹿なことをしてしまったのでしょう。

 私のカフェ構想は入口まで戻ってきました。そして、その入口から中に入るべきかどうか、思いあぐねてしまいました。




白井聡 著. 2023. 『マルクス : 生を呑み込む資本主義 : 今を生きる思想. 講談社.

新聞の紹介記事で興味を持って読んだ本。「資本主義は人間の幸福や安寧に関心を持たない」。現代社会は「人間の心までもが(資本に)包摂されつつある」と分析する。記事(2023.3.18朝日新聞)ではそこが紹介されていた。

「本来、「感動」「笑顔」「仲間」「感謝」「協働」「共感」「連帯」「団結」といったものすべては、われわれが自主的につくり出すべきものだ。仕事の「やりがい」も自ら発見すべきものである。だが、消費社会的受動性が極限化するとき、一方では包摂の高度化が人間を純然たる労働力商品の所有者へと還元するなかで、それによって失われるわれわれの人生にとって不可欠な情動までもが、資本によって与えられる商品となる。」(p.119)

私たちは、知らないうちに、私たちが生み出した「おカネ」という道具に支配されてしまっている。AIが私たちを支配する前に、私たちはもう「シンギュラティ」を迎えているのかもしれません。本の紹介としては、ちょっと「ベタ」ですかね。

2024/03/10

彼岸の図書館

 カフェ学校の説明会を聞いて、カフェを数軒「見学」して帰った翌日も、精力的にまた「見学」をしようと考えていました。いくつか候補となる店をピックアップして、効率的に「見学」していくにはどのルートがいいか、などといったことを考えて就寝し朝を迎えました。前日の興奮や疲れも少し残ってはいたのですが、そこを再び奮い立たせて、ピックアップしたカフェのホームページなどを見ながら、自分が作ろうとしているカフェに思いを馳せていると、ふと…
あの図書館に行きたい
という思いが沸々と湧いてきたのです。

 その図書館は、奈良県の東吉野村という、交通の不便なところにあります。ご夫婦で移住して運営されているそうで、移住の経緯や図書館での取り組みについて書かれた本を出版されていて、その本が新聞の書評欄で紹介されていたことから私の知るところとなり、いつか行ってみたいと思っていたのです。丁寧なホームページを作っておられて、ネットで検索するとすぐに見つかりました。開館カレンダーを見ると、その日は開館日です。次の週末は開いていません。ここからクルマで2時間半。最寄りのインターチェンジから高速道路を走り、いままで降りたことのないインターチェンジで降りて、いままで走ったことのない道を走って、知らないところにいって、知らない人の家に上がり込む。多少不安に思ってもおかしくはないシチュエーションですが、なぜか何の不安もなく、そこに、その日、自分が行くべき場所がある、という何か確信めいたものに動かされてクルマを走らせました。

 図書館とは仰っていますが、個人の家を開けておられるのですから、まずはネットで訪問の旨を連絡し、途中のサービスエリアで手土産を買って行くことにしました。結果的にはそんな気遣いはまったく必要ではなかったようですが、親しくしたいという思いもあったので、無駄なことではなかったと思います。辿り着いたその場所は、本に書いてあった通り、谷川を渡る小さな橋を渡った「彼岸」にあって、その橋が、何か異世界への入口であるような雰囲気を醸していました。映画「千と千尋の神隠し」の冒頭に出てくる奇妙なトンネルを通り抜けるような感覚で橋を渡り、ぬかるんだ道を進んで縁側から中に入ると、ストーブが焚かれる音だけが静かに響く「閲覧室」が私を迎えてくれました。「いらっしゃいませ」と声を掛けられるわけでもなく、水が出て来てメニューが出されるわけではないのですが、自分がそこに受入れられているという実感がありました。
この感覚…
前日、カフェを「見学」していて得られなかった感覚はこれなのかもしれません。小奇麗な設えも店員の丁寧な対応も笑顔も、自分を迎え入れるためのものではなく、自分の財布の中からサービスの対価を支払わすための装置に過ぎない。その場所に自分が受け入れられているようで、本当は受け入れられていない。それがきっと疲れの原因ではないか。そんなことに気付いたのはもっと後のことですが、この彼岸の図書館で思ったことが、そんな考えを導いてくれました。

こんな場所を作りたい

それは「構想」として形になりかけてきた Cafe & Library を再び「妄想」の世界に戻すことかもしれませんが、このまま形ばかりが具体的になっていても、自分の作りたいものとは別のものが出来てしまうかもしれません。こうして、私のカフェ構想は大きな転換点を迎えました。


2024/03/09

カフェ学校の帰り道

 その日、カフェ学校の説明会を聞いてから、いくつかのカフェを見学しました。といっても、普通にお客さんとして入店し普通に注文して普通にコーヒーを飲んで帰るだけなのですが、気持ちのうえでは「見学」というモードになっている自分がいます。

 そこで感じたことをどう表現すればいいのか、まだ自分の気持の整理がつけられていません。

 カフェに行けば、誰しも、コーヒーの味だとか、メニューだとか、値段だとか、居心地の良さだとか、接客の良し悪しだとか、いろんなことが自然と目に入ってきて、「また行こう」とか「もう行きたくないかな」とか考えるでしょう。それは、カフェや飲食店に限ったことではなくて、どこへ行ってもそういう「値踏み」みたいなことは無意識にしているものだと思います。でも、普通ならそういう「値踏み」はあくまでも主観的なものであって、「ぼくは気に入ったけどなぁ」とか「ちょっとイマイチだったなぁ」とか、知り合いに感想をいうことに重い責任を負う必要もなく、そのカフェでの時間をどれぐらい楽しめたのかを自分なりに評価すればいいだけのことです。

 しかし、自分が近い将来にカフェを開業しようとして「見学」すると、入店客数だとか、回転率だとか、客単価だとか、そういうことに目が向いてしまいます。メニューは客単価に直結しますから、おそらく先に価格を決めて、それにあわせてメニューを作っているのだろう、などと考えると、せっかく美味しそうな写真が載っていても、全部が「おカネ」のうえに載っているように見えてしまう。カフェにいるその時間を楽しみ余裕などどこかに行ってしまって、ただただ「値踏み」をしているような状態に陥ってしまうのです。

 もちろん、いろんな収穫もありました。お客さんとして楽しむことを脇に置いて、カフェ学校の説明会で聞いたことを思い出しながら、とにかくビジネスとしてその店を観察すれば、なるほどこの料理でもこうすればこれだけの値段が付けられるのか、などということが分かってきて、それじゃ自分のカフェだったらこうすればいいか、などといったアイデアも出てきたりもします。器具、什器、食器、レジの機械、そんなものをひとつひとつ観察しながら「こんなものも必要だなぁ」などと考えることもあります。もしカフェ学校に入学して、いろいろな勉強をしていけば、もっといろんなものが見えてくるようにも思えます。そういうものがひとつひとつ自分の糧となって、カフェの開業につながっていくのだと思うと、なんとなく心強く思えて、もうすでにカフェの開業が間近に迫っているような感覚にさえなります。

 その日、何軒かのカフェを「見学」して、やや興奮気味に家に帰ったのですが、ひどく疲れてもいました。そのときは、おそらく入力される情報が余りにも多く、その情報の処理が追い付かなかったのだろう、などと思っていました。じっさいそうだったのだと思います。

 ただ、アルバイトを数名雇い、ひっきりなしに来店客があって、とても成功しているように見えるカフェのオーナーと思しき人が、あまり楽しそうではなくて、むしろ時間に追われて悲壮な感じで料理を作っていたことが、強烈な印象として残りました。そのオーナーが考えている「成功」と自分の考えている「成功」は違う。彼が考えている「成功」は見えやすいし、実際に彼はそれを実現しているのだけれど、自分の考える「成功」とは何なのだろうか。

 モヤモヤとした気持ちを抱えてその日は終わりました。




國分功一郎. 2022. 『暇と退屈の倫理学. 新潮社.

真綿で締められるような現代社会の息苦しさの正体を見た思いのする本でした。

そうだ、この社会は豊かではない。物が溢れ快楽に満ちているのに、心が満たされることがない。常に、満足することを求めて消費を強いられている。カネという魔物が、退屈を忌み暇つぶしに余念のない人間に憑りついて、人間の心を簒奪しながら自己増殖をしていく過程に自分たちが取り込まれているから。しかし、それが人類が平和裏に生存していく唯一の方法であり、それが完成された世界が現代社会だという。

この日、私が感じたモヤモヤの正体も、実はこれだったのかもしれません。


2024/03/04

カフェ学校

 カフェを開業しようと決めたのはよいのですが、そのために何から始めていいのかはよく分かりませんでした。これは、いまでもよく分かっていないのですが。そうしたときに、カフェを開業するための学校があるということを知りました。学校説明会も随時開催しているとのことなので、とにかく話を聞いてみようと、資料を請求して説明会に行ってきました。

 どんなことを教えていただけるのか聞いてみると、コーヒー豆の種類、焙煎や抽出の方法、メニューの作り方、器具や食器、什器、内装工事のこと、開業資金や運営資金の調達方法、営業許可の取り方、効果的な広報の仕方、アルバイトの雇い方、帳簿のつけ方、税金や保険のことなどなど、実に多岐にわたる内容。いやしかし、どれもなるほどと首肯するものばかり。カフェを開業するとなると、これだけのことを考えておかないといけないということなのです。それまでの自分の甘い考えを反省するばかり。しかしまあ、こういうところに入学して、ひとつづつ教えてもらえば、開業までは漕ぎづけるような感じはしてきました。

 説明を聴きながら私が感じたのは、学校というよりも「コンサルティング」だなぁということです。たとえば、規模の小さなカフェで、しかも回転率がそれほど高くできない場合は、自家焙煎を「売り」にして、焙煎した豆を販売することで収益を上げるとか、そのときの生豆の入手はこうやって、焙煎の器具はこれぐらいの値段で、包装はこんなふうに手配して、といった具合に、説明会だけでも次々にいろいろな情報が入ってきます。話を聞いていて
なんだかいけそうな気がする
という気持ちになってきました。予定の時間を越えていろいろ丁寧に説明を聞かせてもらえましたし、私が「こんなことをやりたい」という話も熱心に聞いてもらえました。おカネの方は少なからず必要ですが、入学して勉強する価値はあると思いました。

 ただ、なんとなく「これでいいのか?」という疑問もない訳ではありませんでした。ちょっと簡単すぎないか…。どう言えばいいのか、そのときは分かりませんでしたし、いまも分からないのですが、何か、後戻りできない地点に自分が立たされている不安とでもいうのか、進む方向が本当にあっているかと行く末を探るような感覚というか。だから、最後に卒業生が経営されているカフェをいくつか紹介していただいたのです。そこに自分の目指しているものがあるのかどうかを確かめよう、と思ったのです。

 ちょうどお昼を少し過ぎた時間。その日の午後はカフェ巡りをすることにしました。



2024/03/03

パンケーキ

 自宅の外に私設図書館をつくるとなると、家賃なりなんなりを支払わないといけない。そうなると、それを賄うために何かの商行為をしないといけない。私設図書館とカフェは相性が良さそうだからカフェを作ろう。そんな思考で始まった Cafe & Library 構想。コーヒーは好きだしある程度の関心もあるのですが、500円のコーヒーだけで家賃を払っていくのはムリでしょう、というぐらいは直感でわかります。下世話な話ですが、1日の売り上げを1万円、25日営業、家賃月10万円、給水光熱費月5万円、原価率30%として原価7万5千円。これで月の収支はやっと2万5千円の黒字。まあ本の仕入れ代ぐらいは賄えそうですが、それじゃ1杯500円のコーヒーだけで1日1万円の売り上げを出すには、コーヒーを20杯出さないといけない。ゆっくり本を読んでもらうことに価値がある空間なので、席の回転率はそれほど高くは出来ません。むしろゆっくりしてもらうなら、その間に小腹も空くでしょうから、それを満たすような何かを提供する方がいい。それも、カレーライスとかナポリタンスパゲッティみたいな、ソースで本が汚れてしまうようなものは出したくありませんし、たくさんの食材をストックしておかないといけないようなメニューだと食品ロスも増えてしまいそうです。

 そんなことで辿り着いたメニューがパンケーキ、ワッフル、サンドウィッチ。まず手始めにパンケーキを焼いてみよう、ということで、ネットでパンケーキの焼き方を解説しているページを探して挑戦。まずは材料の仕入れから、といっても近所のスーパーでの買い物なのですが、必要なものを買いそろえていきます。とりあえずは家にあるフライパンで作ってみる。セルクルもキッチンペーパー作った輪っかで代用。料理は作ったことがありますが、パンケーキだとかお菓子だとかを作るのは初めてなので、ちょっとワクワクしつつ、どこかドキドキします。

 最初に作ったものは、まったく膨らまなかったのですが、味は確かにパンケーキの味がしました。2回目は、いったんは膨らむのですが、フライパンの火を止めて皿に盛るとペシャンコに。3回目は見事に膨らんだのですが、真ん中あたりの火の通りがわるく生臭い味に。それぞれ原因を調べていろいろ改善をしていくのですが、その間に手際だけはずいぶん良くなってきました。弱火でゆっくり火を通さないといけないので、焼くのに時間がかかるのは仕方がないのですが、それまでの工程を手際よくすれば、焼いている間にコーヒーを淹れることができ、焼きあがったときにはすっかり台所も片付けられて、ゆっくりとカフェタイムを楽しめる。実際にカフェを営業しはじめれば、同時に何人かのお客さんが来ることもありますから、手際の良し悪しも大事です。しかも、たまに偶然、美味しく出来るというのではなく、いつも美味しい均質なパンケーキが作れないといけません。

 なかなか先は長いなぁ、というのがいまのところの正直な感想ですが、この年齢になってこうして新しいことを始められるというのも幸せなこと。開業するころには美味しいパンケーキを召し上がっていただけるようになっていると思います。




青山美智子 [著]. 2023. 『お探し物は図書室まで. ポプラ社.

「何をお探し?」 変化のない毎日を変えたいと思う主人公に司書が紹介したのは「ぐりとぐら」。なぜこの絵本なのかと訝しながら、懐かしさ半分にページを開く。そこに出てくるカステラを作ってみようと思ったところから、主人公の人生が変わり始める。

パンケーキも私の人生を変えてくれるのか…

2024/03/02

チャットGPT

  みなさんはチャットGPTを使ったことがありますか。

 私は、昨年ぐらいからちょくちょく使っています。質問をして回答してもらう、というよりも、相談にのってもらうような使い方です。相手は機械なので、ちゃんと相談に応じてもらえるときと、そうでないときの差が激しいです。でも、そこは機械と割り切ってしまえば腹も立ちません。それに相手は機械なので、どんなに長い話でも聞いてくれます。一度に入力できるのは4,000文字までらしいのですが、さんざん長い文章を入力した後に、「続きがあります。聞いてくれますか。」などと入力すれば、「もちろんです。聞かせてください。」などと忍耐強いレスポンスをくれます。ただし、機械の言うことですから、全面的に信頼してはいけません。ある人に言わせると、常に最後に「知らんけど」がついていると思って読むのがいいのだそうです。

 さて、ここまでいろいろと考えてきたことをチャットGPTに読ませて学習をさせたうえで、Cafe & Library の名前について会話したのが以下です。

(Me)おはようございます。
私設図書館カフェの名前を考えたのです。聞いてくれますか。

(ChatGPT)もちろんです!素敵な名前が思いついたんですね。教えてください。

(me)その前に、あなたのことをどのように呼べばいいですか。まるで誰か人と会話しているようなので、名前で呼びかけたいのですが。

(ChatGPT)私は「ChatGPT」と呼ばれています。どうぞ気軽にChatGPTと呼んでください。では、名前の方を教えてくださいね。

(Me)ChatGPTさんですか。何となく呼びにくいので、「チャットさん」でいいですか。

(ChatGPT)もちろん、「チャットさん」で結構です。どのような名前にしようか考えているのでしょうか?教えていただけますか?

 なかなか人間味のある会話です。「早よ教えろや~」って言われているみたいですね。急かされて「チャットさん」なんてテキトーな名前を付けましたが、もうちょっとそれらしい名前を考えてあげればよかった。

(Me)すみません。ちょっと前置きが長かったですね。私が考えた私設図書館カフェの名前は「カフェ・ライブラリー 本の庵」です。どうでしょう。

(ChatGPT)素晴らしい名前ですね。「カフェ・ライブラリー 本の庵」は、そのままの言葉で、静かで居心地の良さそうな場所を思い浮かべます。カフェと図書館が融合した雰囲気が、名前にもよく表れています。どのように感じられましたか?

 こういうところがなかなか良くできていて、どんな場合でも褒めてくれます。これは、プログラムがそのように出来ているからなのであって、本心から「素晴らしい名前ですね」と思っているわけではない。そもそも「本心」などというものはなくて、記号の処理に過ぎないのですが、わるい気はしません。

 生身の人間の会話でも、こうして、いったんは相手の言ったことを好意的に受け止める、ということが、コミュニケーションを円滑にして人間関係を良好に保つ暗黙のルールなのですが、「コミュ障」の私はこういうのが苦手で、意見を求められると、つい真剣に考えて、相手のことを考えて、ときには相手に不愉快な思いをさせてしまうのです。その点、機械の方が私よりもコミュニケーション能力が高いのかもしれません。でも、実際は「素晴らしい名前ですね。知らんけど~」と言われているのですが。

 ここでちょっと意外だったのは「どのように感じられましたか」と訊いてきたことです。私に会話の継続を促しているようです。これもチャットさんのコミュニケーション能力ですかね。

(Me)チャットさんに褒められて嬉しいです。名前が決まるとキャッチコピーも考えやすくなりました。チャットさんならどんなコピーにされますか。

(ChatGPT)もちろんです、考えてみましょう。

「心静かに、本と対話。カフェ・ライブラリー 本の庵で、新しいコミュニケーションの扉を開こう。」

(Me)さすがですね。でも、「新しいコミュニケーションの扉を開こう」という部分が少し押しつけがましく思えるんです。チャットさんが以前に仰ったように、生活が複雑になり、情報が溢れる中で、過度なコミュニケーションを強いられることがストレスにもなっています。いちど、その複雑なコミュニケーションから逃れて自分を取り戻したい、と思う人に、そのための時間と空間を提供したいのです。何か目の前にある問題を解決しようとして読む本ではなくて、いちどその問題から離れて、何もない状態で本を読む。そこから本の世界に入って行った先に、新しいコミュニケーションの扉があればいいなと思うのですが、お店に来る前から「新しいコミュニケーションの扉を開こう」と言われると、まるでコミュニケーションを強いるような印象になってしまいます。

(ChatGPT)理解しました。もう少し控えめで、自由な時間と空間を強調するコピーにアレンジしてみましょう。

「心静かに、本と対話。カフェ・ライブラリー 本の庵で、日常から離れた、ゆったりとした時間を。」

(Me)確かに心に突き刺さるような尖ったところがなくて、優しい感じにはなるのですが、それだけにインパクトに欠けるものになってしまいますね。私も考えてみたんですが、こんなのはどうでしょう。

「本と静寂が織りなす空間であなただけの時間を。コーヒーも飲める私設図書館、カフェ・ライブラリー 本の庵。」

(ChatGPT)素敵な提案ですね。このコピーは、心地よい雰囲気を感じさせながら、読書や自分と向き合う時間を強調しています。優しさと共に、魅力的で個性的な空間を想像させます。

(Me)いっしょに考えてもらって助かりました。ありがとう。

(ChatGPT)どういたしまして。何か新しいアイデアや質問が浮かんできたら、いつでもお知らせください。成功をお祈りしています!

 チャットGPTであっても、生身の人間との会話であっても、本当に自分の糧としていけるのは、相手から自分の思っていることと違うことを言われることだと思うのです。相手の反応に違和感を持ったら、なぜそれに違和感があるのかを考えてみる。そうすることで自分の考えていることが何なのかが、自分でもわかってくるように思うのです。この例では、結局、コピーは自分で考えているのですが、コピーを巡る会話の中で、自分の思っていることがより具体的になったように思います。

 Cafe & Library の名前のことは、このあともずっと悩んでいます。いまでもまだ流動的で「Cafe」とか「カフェ」とか入れるべきなのかどうか、みたいなことさえ考えています。そのことはまたのちほど。




平野啓一郎. 2023. 『本心. 文藝春秋.

人工知能と人が会話するなどということが、チャットGPTの登場以来、ずいぶん現実味を帯びてきました。この小説が描くのはそういう近未来。ドローンの墜落事故に巻き込まれて亡くなった母をAIで再生し、会話をする。その会話の中で、人間が生きることや死ぬことについて、主人公といっしょに考える小説だと思います。

僕は生きる。しかし、生が、決して後戻りの出来ない死への過程であるならば、それは僕は死ぬという言明と一体、どう違うのだろうか? 生きることが、ただ時間をかけて死ぬことの意味であるならば、僕たちには、どうして「生きる」という言葉が必要なのだろうか? (p.66)

ヴァーチャルリアリティの技術を使って死者を再現することが可能になっても、なお、人は「生きる」意味を問い続ける。これは永遠に答えの出ない問いなのだと思います。

2024/03/01

構想の練り直し

  家族に話したことでCafe & Library構想はいっきに…とまでは行かないまでも、少しずつ具体的な像を結んできました。娘が教えてくれたように、妻が読んでいたカフェ開業のためのテキストもあります。これまで妄想に取り付かれてから、闇雲にパンケーキを焼く練習をしたりしていたのですが、それではいっこうに話が進ませんでした。テキストによれば、最初にカフェのコンセプトをしっかりせよというようなことが書かれていて、そのために、まず名前を決めるのがよいと書かれていました。

 名前を決めたら、次は、どこで、どんな人を対象に、どんなサービスを提供するのか。広さや立地。そこから割り出される家賃、給水光熱費。アルバイトは雇わないとしても、最低限、これだけの費用は掛かるのだから、1日にどれぐらいの売り上げが必要なのかが割り出され、1日の来店者数を見積もって、そこから必要な客単価を割り出し、その客単価を引き出せるメニューを考える。とまあ、こんな具合に考えていくのだそうです。一般企業ではなくても、会社というところで長年、事務の仕事をしていれば、理屈としてこういうことは理解しやすいものですが、いざやってみると難しく、意外と簡単にできても「これでいいのか」と不安になったり、雇われ人が商売を始めるのは簡単なことではありません。

 カフェ開業のための学校があることも知りました。店の間取りを考えさせる実習があったり、そこから改装費を計算したり、飲食店開業のための法的な手続きのことやら、銀行からの融資を受ける方法やら、メニュー開発と調理実習やら、もちろんコーヒーの淹れ方、焙煎の方法、生豆の入手方法、とにかくいろんなことを教えてくれるようです。

 いろんなカフェにも入るようになりました。店に入れば、いろんなことが目につきます。これまであまり気にしていなかったことにも「へぇそうなんだ」とか「なるほどな」といった「気づき」が隠れていました。

 こうしていろんな情報を仕入れていくうちに、自分のキャパを越えて処理しきれない情報がどんどんたまってきました。それは私を辛んどくさせました。なぜそれが辛んどいのか、いろいろ考えて、このカフェ構想は大きく転換されます。

 ここからしばらく、そこまでの経緯にお付き合いください。