2025/11/24

負けの美学

 奈良県東吉野村で青木真兵さん・海青子さん夫妻が主宰する私設図書館「ルチャ・リブロ」を訪れたときのことです。

 部屋で本を読んでいると、20代と思しき若い男性4人が来館して、司書席の青木さんに何か話しています。聞くつもりはなかったのですが、自然と耳に入ってくる話から、どうやら彼らは東北地方の中学校の同級生。仕事に疑問を感じていたときに、青木さんの『手づくりのアジール』と出会い、郷里に戻ることを決めたとのことでした。青木さんは、本を読んでいる私に配慮されたのか「外でゆっくり話しましょう」と声をかけられましたが、私は「ぜひ私にも聞かせてください」とお願いし、縁側で一緒に話を聞かせてもらうことになりました。

 話してくれた1人は、不動産リース会社を辞め、郷里で不動産屋を始める準備をしているとのこと。

仕事で悩んでいたときに、こいつからこの本を紹介されたんです

と言って友人を指し、青木真兵さんの著書『手づくりのアジール』を掲げました。4人のうちのひとりがこの本に感銘を受けて、他の3人に次々に奨め、それぞれがこの本に書かれているような、いま現に私たちが生きている世界とは別の価値観を求めて、郷里で新たな人生を歩もうとしているとのこと。それで、著者の青木さんに感想を聞いてもらいつつ、直接、会って話がしたくて、飛行機とレンタカーで遥々とやってきたのだそうです。

 これはすごいことですね。本が何冊売れたということではなく、その本に書いた内容がこんなに深く読者に届いている。そしてその人の人生を変えようとしている。青木さんの語る「オルタネイティブな世界」は、まさにこういう価値観で支えられていると感じました。

 さてその不動産屋さんの彼によると、会社を辞める際、100人ほどに挨拶して回ったそうですが、1人だけこう言われたそうです。

逃げるんだね

悪気なく言った言葉だったようですが、それでも棘のように心に刺さったのでしょう。そして彼はこう続けました。

逃げるって、なんか負けたみたいじゃないですか。

これは私も同感です。青木さんは「逃げる」はけっしてネガティヴな行動ではなく、積極的な意味を持っている行動だと主張されています。不動産屋さんの彼も私もそのことは知っているのですが、言葉が持つニュアンスとしてどうしてもネガティブに響く。なんとか「逃げ出す」ではなく「飛び出す」と言える形にできないか。この間、私はずっとそんなことを考えてきました。

 そんな話をしているときに、彼らのリーダー格の一人が、「負けの美学」という話を始めたのです。

いまの世の中って、勝ったら何をしてもよくて、負けたらすべて終わり、みたいな感じがするんです。総合格闘技みたいに、相手をそこまで叩き潰さなくてもいいのに。だけどプロレスって『負けの美学』があるじゃないですか。技だって掛ける人と掛けられる人がいて初めて成立する。負けたからってもう終わりじゃなくて、それはそれとしてプロレスを続けていられる。負けても勝っても存在が許されていると思うんです。

私には格闘技の知識はありませんが、この説明はまるで、ガードの甘い私の脇腹に不意に入ったボディーブローのように効きました。

 私はこれまで、現代社会を、お金がすべての目的になっている世界、すべてが記号化される世界、地位や学歴といったアイテムをゲットしながらおカネというポイントを稼いでいくロールプレイゲームのような世界、などと捉えてきました。しかし、それの何が嫌なのかをうまく説明できませんでした。でも、

勝った人がすべてを取り、負けたら何も残らない世界

という捉え方は、直感的に自分の忌避感の正体を射抜いていると思ったのです。

 勝負を望んでいるわけではないのに、常に何かと競争させられて、それに勝ち続けていないと存在が許されなくなる世界。「負けの美学」が存在しない世界とはそういう世界なのです。そんな世界、たとえ自分がいま「勝ち組」にいたとしても、この先もずっとそこにいたいとは思えないです。

 彼らはその価値観とは違う世界を作ろうとしているのです。それでもなお「逃げる」と言われると後ろめたさが残る。まるで「負けた」みたいだ。自分たちのつくろうとしている世界の方がいいということを、自信と誇りをもって伝えたいし、理解もしてほしい。そう話す彼らを見ながら、私はふと気づいたのです。

勝ち負けじゃない世界を作ろうとしているのに、その世界と勝ち負けの世界を比べて、どちらが勝った/負けたと言うのは、もうすでに勝ち負けの世界に呑み込まれているじゃないか。

他の人の話を聞いていれば分かることなのですが、実は私自身もそうやっていまの世界の価値観に呑み込まれていたのです。「逃げ出すか」「飛び出すか」という言葉の選択にこだわっていたのは、突き詰めれば、いまの社会の価値基準でいう“負けたのか/勝ったのか”を気にしていたからに他なりません。

 結局のところ、「逃げ出す」か「飛び出す」かという二分法そのものが、勝負の世界の発想だったのだと気づきました。ルチャ・リブロはそんな気付きを与えてくれる場所でした。そもそもその問いそのものがルチャ・リブロから発せられたものだったとも言えます。「本の庵」もそんな問いが見つかる場所であってほしい。そしてその問いに対する答えを静かに探す空間であってほしい。「脱コミュニケーション」の先にある「シン・コミュニケーション」がおぼろげに見えてきたような気がしました。


2025/10/18

地位と収入を超えて

 昨日の記事で紹介した娘の言葉をきっかけに、「働くこと」と「おカネ」の関係について考えました。

 私の妻は、結婚と出産を機に会社勤めを辞め、いまはパートタイムで働いています。地位や収入よりも家事や育児を優先した生き方を選んだように見えます。
しかし、自分が家事や育児をしてきたおかげで夫が働けた、という意識が強い。
結局のところ、自分の働き(家庭内労働)も夫の収入とリンクしている。
家庭の中で生きているように見える妻も、「女の人はみんな働きたいと思っている、と思っている人」も、結局、私たちはどこかで“おカネがヒトを回す”世界の中で、息をしているのかもしれません。

 そう考えると、私が定年を機に会社を離れ、「収入」や「地位」とは無縁の生き方をしようとすることに、妻が強く反発する理由も見えてきます。妻にしてみれば、夫の収入によって蓄えられた資金によって約束されるはずの老後の安定した生活に、自分も家事と育児を通して貢献してきた、と思っているのでしょう。そこに全く別の価値観が持ち込まれるわけですから「梯子を外された」ような感覚なのかもしれません。

 私の思いとしては、「働くこと」と「収入を得ること」を切り離して考えてほしいのです。感覚的なことですが、お金と切り離されたところで社会的に意義のある活動をしているのは、女性の方が多いように思います。
たとえば、子ども食堂や地域のボランティアなど。

 一方、男性の多くは「職業=収入」と強く結びついていて、「それでいくら稼げるのか」という尺度から自由になれない。自分の存在意義を地位や収入に関連付けて考える。その枠から出ない限り、自分のしていることの本当の価値が見えにくくなるのです。

 家庭に入った女性もまた、夫の収入を支える形で自分の役割を見いだしている限り、「お金」と無縁ではいられません。だからこそ、夫が定年後に会社勤めを辞め、「お金がヒトを回す構造の外側」で生きたいと言い出すと、違和感を覚えるのだと思うのです。

 おカネには確かに人を幸せにするチカラがあると思います。すべての財貨やサービスが商品としておカネと交換できる社会にあって、おカネなしで幸せになるのは難しいことかもしれません。けれどおカネがあれば幸せになれるのかというと、そうでもないような気がします。そこにオルタネイティブな価値観を示す。「本の庵」でやろうとしていることをカッコよく言えばそういうことかもしれません。

2025/10/17

娘のひとことから考える

 下の娘は社会人1年生。話を聞いている限り、会社では大切に扱われているようで、本人もそれには感謝しているようですが、やはり1年目というのは苦労も多いようです。

 その娘がこんなことを言いました。

女の人で、女の人はみんな働きたいと思っている、と思っている人がいちばんうっとうしい。

 女性の中には、会社に勤めて収入を得ることや、そこで出世して責任の重い仕事を担うことにはそれほど関心がなく、結婚して家庭に入り家事や育児に力を注ぎたいという人もいます。女性がみんな同じ考えではないのに、性別だけで一括りにしてしまう。

そして、娘はこうも言います。

「男性は家庭や育児には関心がなく、金銭欲と出世欲の中で働いている、という前提で話が進む。女性も同じように働くべきだ、という価値観を押し付けているのではないか」と。

 おそらく娘の中にも、会社でバリバリ働いて認められたいと思う自分と、仕事からは距離を置いて自分が将来もつであろう家族の中に幸福を見出したいという自分が同居しているのでしょう。「あなたはどちら派?」といわれてそんな単純に答えられるものでもありません。

 私の見立てですが、会社というのは「地位」や「収入」という資源を配分することによって、人を自らの意思に従わせる仕組みだと思うのです。会社なんて無機物ですから「意思」がある訳ではないのですが、どうもそういう「意思」を持った運動体のように見える。そしてその意思の多くは自らの「拡大」という動機から生まれているように見えるのです。そのような運動体が機能するには、雇用される人が地位や収入を求めているという前提がある。その構造から外れる人には息苦しい世界になるのは無理もありません。

 ただ、娘が言うように、まだ女性には地位や収入に無関心な生き方というオプションが残されています。結婚や出産を機に会社を辞めて家庭に入る女性は、以前よりは少なくはなったものの、珍しいことではありません。私の妻のように非正規雇用で働くという選択もあります。会社の中にいたとしても、何かの役職に就くわけでもなく、たぶんお給料もそんなにもらっていないのだろうけれど存在感を放つ人って少なからずいますが、男性よりも女性の方がそういう方が多いように思うのです。

 だけど、男性にはそのオプションはない。法的・制度的にはともかく、妻の出産を機に会社を辞めて家事と育児に専念するという選択をすることはかなり勇気がいりますし、その後も大変な苦労をします。「女性初の管理職」になった方が苦労してきたことよりも、もっと苦労するのではないかと思うのです。

 「女性の働く権利」は大切だと思うのです。だけど、その価値観を女性だからというだけで押し付けられたり、男性が働くのは当たり前という前提で女性にもその権利を与えよという文脈で、暗に男性の価値観を拘束するのもどうかと思うのです。