2026/06/13

AIとの対話

 きのうの記事で、「対話」とは相互理解という目的から定義できるという仮説を立てました。この仮説で「対話」の意味を定義しようとすると、AIとの対話は成立しません。AIには主張や意見といった意思がないからです。AIだけでなく、昨日の記事で示した「大芸術家の残した偉大な宗教画の前に立ち、しばし無言の対話をする」という用例も、宗教画の前に立っている「私」がその絵を描いた大芸術家を理解しようとしていることは言えても、その逆はありません。だから「相互」ではないのです。

 おとといの記事で紹介した映画『箱の中の羊』では、子供を失くした夫婦が、息子にそっくりのヒューマノイドとの対話を通じて自分自身と向き合います。そこには確かに「対話」があるように思えます。ヒューマノイドと言葉を交わすことがすべて対話ではありません。例えば、ヒューマノイドが時刻表を検索していまから広島まで今日中に帰着するルートを説明する場面がありますが、これは「対話」というイメージからは遠いと思います。けれど、ヒューマノイドを迎えた夫婦は、ヒューマノイドと言葉を交わす中で、それまで気づかなかった自分自身と向き合うことになっていきます。初めて息子そっくりのヒューマノイドを迎えたとき、夫婦はそれぞれ、いま目の前にあるその機械は何なのかという問いと向き合います。そこから家族とは何か。人間とは何か。生きているとは何か。息子はなぜ死んだのか。心の中に次々に問いが浮かび、そして、息子を死なせてしまった自分と向き合う。その思索にヒューマノイドは触媒のように関わっていきます。

 これは、日常的なAI相手のやりとりにも言えると思います。時刻表を検索したり、用途に応じた商品を検索したりといった、明確な回答のある質問をAIに投げかけて回答を得る。そういうやりとりを「対話」だとは言わないと思います。けれど、AIの言葉から、それまで気づかなかった自分自身に気付くとか、それまでは考えても見なかった新しい問いに向き合うとか、そういうことも少なからずあります。こういうやりとりは「対話」というに相応しいように思えるのです。

 そう考えていくと、対話というのは相手を必要としていないのではないかと思うのです。相手がどのような状態であるかに関係なく、あるいは相手の存在そのものにも関係なく、自分が自分自身と向き合っているのか。そこがいちばん大事なところだと思うのです。そこで、自分との向き合いをより促進するための言葉だったり、それは必ずしも口から発する言葉だけでなく、手紙や本だったり、あるいは言葉ではなく絵や音楽に込められた思想や感情であったり、そういったものが必要となる。それらを切っ掛けにしたり、触媒とすることで、自分自身をより深く理解することができる。そういうことが「対話」ではないかと思えるのです。

 そうするときのうの記事に書いた「対話」の語釈も訂正が必要ですね。

  • たい・わ【対話】
    他人の言葉やそれに準じる意思表示をきっかけに、自分自身と向き合い、自己理解を深める行為。

つまり対話とは、自分と向き合い自分を理解することであって、誰かと言葉を交わすことではない。これはかなり大胆な語釈かもしれませんが、私が直感的に思うところにはかなり近いと思うのです。近くにいる人から発せられる言葉、手紙や本の中にある言葉、AIやヒューマノイドが発する言葉、偉大な芸術作品、そういったものは、自己理解を深めるための触媒の役割を果たしているのに過ぎない。そう考えれば、AIやヒューマノイドとの対話は十分に成立すると言えますし、映画『箱の中の羊』では、主人公夫婦はヒューマノイドと対話していたと言っていいと思います。


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