綾瀬はるか主演の映画『箱の中の羊』を鑑賞しました。是枝裕和監督の映画は、なにか大きな事件が起こるとか、クライマックスに向けて盛り上がっていくとか、そんな主張がはっきりしたタイプではなく、静かに何かと向き合って考えるタイプのものが多いように思います。わるく言うと、何が言いたいのかわからない、というタイプかもしれませんが、そこは観る人が試されているのかもしれません。『箱の中の羊』もそういうタイプだと思うのです。
不幸な事件で子供を失った夫婦。そこに息子そっくりのヒューマノイドがやってきます。「おかえり」と迎え、下にも置かず丁重に扱う妻。自動掃除機のルンバといっしょだという夫。夫が次第に情を傾けていくのに対して、妻は本物の息子とのギャップに違和感を覚え始める。まるで自らの意思を持っているかのように自由を求め始めるヒューマノイド。最後は夫婦とヒューマノイドは離れていく。「捨てられたのは私たちね」。主人公のそんな台詞に、子の親離れと親の子離れが描かれ、家族とは何かを考えさせられる映画です。
あらすじを書いてしまうと「え、それで何が言いたいの」という感じになってしまうかもしれませんが、そのストーリーから得られる示唆はとても深い。それに、観る人によって考えさせられるポイントが違う。その人が普段どういうことに関心を持っているのかが浮き彫りになってくる。そういう意味で、こうして自分の感想めいたことを書き出すということは、自分の価値観や人柄を晒していることになるのかもしれません。
前置きが長くなってしまいましたが、私はこの映画を観て「対話とは何か」ということがとても気になりました。「対話」について考えていると、AIとの対話は対話と言えるのか、という問題に必ず辿り着くように思うのです。この映画では、相手はAIではなくてヒューマノイドなのですが、ヒューマノイドとの対話は対話として成立するのか。私は成立するように思うのですが、あまり詳しく書いてしまうと、これからこの映画をご覧になる方の心を乱してしまうかもしれません。
では少し話を戻して、対話とは何なのか。
これから数回に分けてそんなことを考えていこうと思います。
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