きのうの記事で紹介した映画『箱の中の羊』から、「会話」と「対話」の違いを考えてみようと思います。
なんとなく「会話」というと、当たり障りのない話をしているようで、「対話」というともう少し立派な話をしているように思えます。広辞苑によると「会話」と「対話」の語釈は次のようになっています。
- かい・わ【会話】
二人あるいは少人数で、向かいあって話し合うこと。また、その話。 - たい・わ【対話】
向かい合って話すこと。相対して話すこと。二人の人がことばを交わすこと。会話。対談。
どちらの語釈もそれほど大きな違いはありません。三省堂国語辞典もほぼ同じ語釈です。「会話」はたぶんこれで間違いないと思うのですが、「対話」の語釈はちょっと直感と違うように思いませんか。「会話」は確かに「向かい合って」話すことですが、「対話」は必ずしも「相対して」いることではない。例えば、次のような「対話」の用例はこの語釈から離れていませんか。
- 残された往復書簡から読み取る近代を代表する二人の思想家の対話
- 対立する宗教の指導者がそれぞれの信者に和解を呼び掛けることから始まる対話
- 大芸術家の残した偉大な宗教画の前に立ち、しばし無言の対話をする。
1つめと2つめは、対話の当事者は離れた場所にいますので「相対して」はいません。3つ目の場合。対話の相手は、宗教画を描いた大芸術家なのか、あるいは宗教画の中に描かれている神様や人物なのか。そこも明らかではありません。しかも「無言」というのですから音声や文字としての言葉も用いられていません。これらの用例は「向かいあって話し合う」ことではありませんので「会話」でもありません。「無言の会話」というのは言葉としておかしい。けれど「無言の対話」というのは何となく「あり」のように思える。しかもどこかカッコイイ。そう考えると、「対話」は「会話のうちの特定の様態」ではなく、会話とは全く異なる要素によって定義されるもののように思えます。
広辞苑の「会話」の語釈には3つの要素があります。ひとつ目は、当事者が二人または少人数であること。言い換えると一人ではないこと。相手がいること。ふたつ目は、向かい合っていること。時間と空間の両方を共有していること。3つ目は話し合うこと。つまり音声としての言葉を用いることです。これに対して、さきほど示した「対話」の3つの用例は、会話の要素である、相手、時間と空間の共有、音声としての言葉は、「対話」の要素ではないことを示しています。
それじゃ「対話」を定義する要素は何か。それは「理解」という目的ではないかと思うのです。先に示した往復書簡の用例では、「対話」という言葉から二人の思想家が相手の思想を理解しようとしているようなニュアンスが伝わってきます。宗教指導者の対話も、教義や思想をお互いに理解しあうことを呼び掛けているようなニュアンスになります。大芸術家の用例は、目の前にある宗教画から何百年も前にその絵を描いた人の思想を理解しようとしているニュアンスがあります。
そのように仮定して、今度は次の用例からもういちど「会話」と「対話」の違いを考えてみます。
- 娘さんに必要なのは親子の会話です。
- 娘さんに必要なのは親子の対話です。
「会話」が必要だと言われて思い浮かべるのは、食事の後に娘の気を惹くような話題を提供して楽しげに振舞うことではないでしょうか。親子が時間と空間を共有し、共通の話題で言葉を交わすことによって、親子の間にある緊張関係を解き、嫌なことがあるならそれを忘れて笑顔で過ごせるようにする。深刻な悩みがあっても、とりあえずそれはなかったことにして気楽に過ごせるようにする。そういうことを言われているように思えます。娘が悩んでいることについて話すことは、そういう会話の妨げになるので、避けた方がいいのかもしれません。
一方で「対話」と言われると少し違います。嫌なことや深刻な悩みがあれば、それが解決するかどうかは別にして、とにかくそれを理解しようとすることが求められているように思えます。向き合って話ができないなら、まずは手紙を書いてみるようなことを思い浮かべるかもしれません。
そう思って世の中を見渡すと、会話は溢れるほど過剰なのに、対話というものがほとんどない。コミュニケーションに関するストレスはそこに由来しているように思えます。時間と空間を心地よく共有できるような話題が求められ、常に楽しげに振舞うことを強いられる。本当に必要なのは相手を理解したり自分が理解されたりすることなのだけど、互いが心地よく過ごすためには深刻な話題は避けて当たり障りのない話に終始しなければならない。これをストレスと感じる人がいることには異論はないと思います。
そんなことを思いながら、私なりに「対話」の語釈を考えてみました。
- たい・わ【対話】
相互の主張や意見を理解することを目的に言葉やその他の表現を用いること
そう考えてみたのですが、この語釈では範囲が広すぎる気もします。絵を描くことも歌を歌うことも、誰かを理解しようとする営みであるなら「対話」になってしまうからです。それでも、「理解しようとすること」が対話の中心にあるという考えは捨てがたい。もしそうだとすれば、対話に必要なのは「言葉」ではなく、「理解しようとする意志」なのかもしれません。明日はそこを深めようと思います。
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