奈良県東吉野村で青木真兵さん・海青子さん夫妻が主宰する私設図書館「ルチャ・リブロ」を訪れたときのことです。
部屋で本を読んでいると、20代と思しき若い男性4人が来館して、司書席の青木さんに何か話しています。聞くつもりはなかったのですが、自然と耳に入ってくる話から、どうやら彼らは東北地方の中学校の同級生。仕事に疑問を感じていたときに、青木さんの『手づくりのアジール』と出会い、郷里に戻ることを決めたとのことでした。青木さんは、本を読んでいる私に配慮されたのか「外でゆっくり話しましょう」と声をかけられましたが、私は「ぜひ私にも聞かせてください」とお願いし、縁側で一緒に話を聞かせてもらうことになりました。
話してくれた1人は、不動産リース会社を辞め、郷里で不動産屋を始める準備をしているとのこと。
仕事で悩んでいたときに、こいつからこの本を紹介されたんです
と言って友人を指し、青木真兵さんの著書『手づくりのアジール』を掲げました。4人のうちのひとりがこの本に感銘を受けて、他の3人に次々に奨め、それぞれがこの本に書かれているような、いま現に私たちが生きている世界とは別の価値観を求めて、郷里で新たな人生を歩もうとしているとのこと。それで、著者の青木さんに感想を聞いてもらいつつ、直接、会って話がしたくて、飛行機とレンタカーで遥々とやってきたのだそうです。
これはすごいことですね。本が何冊売れたということではなく、その本に書いた内容がこんなに深く読者に届いている。そしてその人の人生を変えようとしている。青木さんの語る「オルタネイティブな世界」は、まさにこういう価値観で支えられていると感じました。
さてその不動産屋さんの彼によると、会社を辞める際、100人ほどに挨拶して回ったそうですが、1人だけこう言われたそうです。
逃げるんだね
悪気なく言った言葉だったようですが、それでも棘のように心に刺さったのでしょう。そして彼はこう続けました。
逃げるって、なんか負けたみたいじゃないですか。
これは私も同感です。青木さんは「逃げる」はけっしてネガティヴな行動ではなく、積極的な意味を持っている行動だと主張されています。不動産屋さんの彼も私もそのことは知っているのですが、言葉が持つニュアンスとしてどうしてもネガティブに響く。なんとか「逃げ出す」ではなく「飛び出す」と言える形にできないか。この間、私はずっとそんなことを考えてきました。
そんな話をしているときに、彼らのリーダー格の一人が、「負けの美学」という話を始めたのです。
いまの世の中って、勝ったら何をしてもよくて、負けたらすべて終わり、みたいな感じがするんです。総合格闘技みたいに、相手をそこまで叩き潰さなくてもいいのに。だけどプロレスって『負けの美学』があるじゃないですか。技だって掛ける人と掛けられる人がいて初めて成立する。負けたからってもう終わりじゃなくて、それはそれとしてプロレスを続けていられる。負けても勝っても存在が許されていると思うんです。
私には格闘技の知識はありませんが、この説明はまるで、ガードの甘い私の脇腹に不意に入ったボディーブローのように効きました。
私はこれまで、現代社会を、お金がすべての目的になっている世界、すべてが記号化される世界、地位や学歴といったアイテムをゲットしながらおカネというポイントを稼いでいくロールプレイゲームのような世界、などと捉えてきました。しかし、それの何が嫌なのかをうまく説明できませんでした。でも、
勝った人がすべてを取り、負けたら何も残らない世界
という捉え方は、直感的に自分の忌避感の正体を射抜いていると思ったのです。
勝負を望んでいるわけではないのに、常に何かと競争させられて、それに勝ち続けていないと存在が許されなくなる世界。「負けの美学」が存在しない世界とはそういう世界なのです。そんな世界、たとえ自分がいま「勝ち組」にいたとしても、この先もずっとそこにいたいとは思えないです。
彼らはその価値観とは違う世界を作ろうとしているのです。それでもなお「逃げる」と言われると後ろめたさが残る。まるで「負けた」みたいだ。自分たちのつくろうとしている世界の方がいいということを、自信と誇りをもって伝えたいし、理解もしてほしい。そう話す彼らを見ながら、私はふと気づいたのです。
勝ち負けじゃない世界を作ろうとしているのに、その世界と勝ち負けの世界を比べて、どちらが勝った/負けたと言うのは、もうすでに勝ち負けの世界に呑み込まれているじゃないか。
他の人の話を聞いていれば分かることなのですが、実は私自身もそうやっていまの世界の価値観に呑み込まれていたのです。「逃げ出すか」「飛び出すか」という言葉の選択にこだわっていたのは、突き詰めれば、いまの社会の価値基準でいう“負けたのか/勝ったのか”を気にしていたからに他なりません。
結局のところ、「逃げ出す」か「飛び出す」かという二分法そのものが、勝負の世界の発想だったのだと気づきました。ルチャ・リブロはそんな気付きを与えてくれる場所でした。そもそもその問いそのものがルチャ・リブロから発せられたものだったとも言えます。「本の庵」もそんな問いが見つかる場所であってほしい。そしてその問いに対する答えを静かに探す空間であってほしい。「脱コミュニケーション」の先にある「シン・コミュニケーション」がおぼろげに見えてきたような気がしました。
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