NHKで『舟を編む』というドラマが放送されていたので、気になって、最近『広辞苑』を買いました。なぜドラマが『広辞苑』に結びついたのか、その経緯はずいぶん省略してしまいますが、ここでは気にしないでください。今日は『広辞苑』とドラマを切っ掛けに「自己肯定感」について考えてみようと思います。
「自己肯定感」という言葉が気になったのは些細な切っ掛けなのですが、『広辞苑』には「自己肯定感」は立項されていません。『三省堂国語辞典』にもありません。会社で契約しているJapanKnowledgeというデータベースで調べてみると『現代用語の基礎知識』には「ひきこもり」との関係で立項されているようです。『日本国語大辞典』には「自己肯定」が立項されていて、阿部次郎『三太郎の日記』(1914-18)の「内省の根柢を欠く無鉄砲な自己肯定は更に更に無意味である」などの用例が採取されています。
それに対して「自己否定」は『広辞苑』にも立項されています。しかし「自己否定感」という言い方はあまり聞きません。Wikipediaには「自己肯定感」が立項されていて、誰がどのような定義をしているのかや、いつごろからどういう経緯で使われるようになったのかなどを知ることができます。ここではその整理を一応は理解したうえで、この「自己肯定感」という言葉と、私なりに向き合ってみようと思います。
まず『広辞苑』に立項されている言葉のうち「自己肯定感」にいちばん近そうな言葉は「自己否定」じゃないかと思います。その「自己否定」の対義語として「自己肯定感」という言葉を理解するのは自然な流れだと思うのですが、先述のように「否定」には「感」が付くことがないのに「肯定」にはほとんどの場合「感」が付きます。この非対称性は気になるところです。
「自己」の対義語は「他者」ですので、「自己否定」の対義語は「他者否定」かもしれませんが、そんな言葉は聞いたことがありません。
たぶん「他者」というのは「他人」とも意味が違うと思うのです。例えば馬締光也という人物がいたとします。彼にとって「自分」とは馬締光也その人です。林香具矢という人物も、岸辺みどりという人物も、彼にとっては「他人」です。『舟を編む』では、林香具矢は馬締光也の配偶者なのですが、ここはちょっと哲学的に、配偶者であっても「自分」以外の人物はすべて「他人」とします。「他人」は複数存在していて、林香具矢も岸辺みどりも、それぞれ単独で「他人」という地位にいます。
社会生活をするうえで、「他人」を否定したり、「他人」から否定されたりということはよくあることです。口に出して罵倒することはなくても、心の中で「他人」の存在そのものを否定するようなことはなくはありません。
それに対して「他者」というのは、「自己」を取り巻いているものすべての総体です。配偶者を含む自分の周りにいる他人、自分の置かれている立場、自分を取り巻く環境、自分の生い立ちやそれまでの経験などのすべてがひとまとまりになって「他者」です。だから「他者」の存在を否定することはできません。「自己」と「他者」の折り合いがわるく、双方の存在が互いに矛盾するような事態になったときには、「他者」ではなく「自己」を否定するしかなくなるのです。
私なんて…
ドラマの中で岸辺みどりが言うこのセリフは、自分の存在を、取るに足りないもの、どうでもいいものと捉え、存在する価値を否定する、まさに「自己否定」の言葉です。彼女は周囲の人々に支えられて次第に自分を取り戻していきますが、現実はドラマのようにいつもハッピーエンドとはなりません。自分を取り巻く環境の中のどこにも自分の居場所を見出せず、自分の存在価値を見出すことができない状態。つまり深刻な「自己否定」の状態の中で、微かに光を放つ灯りのように、自分がこの世に存在してもいいのだと思わせてくれるもの。それが「自己肯定感」だと思うのです。
書店のビジネス書コーナーに行くと、「自己肯定感」をいかに高めるか、といったテーマの本が溢れています。しかし前述のように考えると「自己肯定感」というものは、高いとか低いとかを論じるものではなく、「在る」か「ない」かしかないと思うのです。そして「在る」といっても、いつも微かな存在でしかありません。その微かな「自己肯定感」を足掛かりにして、深い「自己否定」の状態から「自我」を取り戻していく。この過程のことを、ビジネス書では「自己肯定感を高める」と言っているのではないかと思うのです。
「自己」と「他者」の存在が矛盾するような事態は、往々にして、「自分」と「他人」を比較することから生じます。そこから這い出して「自我」を取り戻していくために必要なこととは。それはきっと「他人」との比較をやめることだと思うのです。ビジネス書などを読めば、部下の自己肯定感を高めるために「褒めてあげましょう」とか「感謝の気持ちを伝えてあげましょう」などと書かれていることがあるのですが、「○○してあげる」というのは、必ず自分が相手よりも上位の立場にあってその行為がなされることが念頭にあります。「他人」との比較によって深く傷ついた心がそれによって癒されるのか、私には疑問です。
現代社会のコミュニケーションは往々にして、「他人」と比べて「自分」の優位性を確認したり、あるいは「他人」と「自分」の同一性を確認したりする手段に陥りがちです。「本の庵」は、構想の早い段階から「脱・コミュニケーション」をコンセプトに掲げてきました。コミュニケーションから解放される時間と空間こそが「自我」を取り戻していくために必要なのかも知れません。
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