2024/03/19

覚悟

  彼岸の図書館のような施設を運営するにもいろいろな覚悟が必要だと思うのですが、読書カフェを作りにも、やはりいろいろな覚悟が必要だと思うのです。図書館に来る人と違って、読書カフェに来る人はおカネを払います。おカネを払えば、その対価に見合ったサービスが得られたかということを値踏みします。おカネの多寡には関係ありません。自分が提供するサービスも、自分が作り出した空間も、そして自分自身も、そういう評価に晒されるのです。その評価はシビアです。そして常に減点法です。嫌なことがあれば二度と行こうとは思いません。
雰囲気も良かったし、コーヒーも美味しかったけれど、BGMが煩くて落ち着かなかったな
と思えば、もうその人は来ないと思っていた方がいいでしょう。「BGMは煩くて落ち着かなかったけど、雰囲気も良かったし、コーヒーの美味しかったから、また行こう」と好意的に評価してくれるとは、あまり期待しない方がいい。そうなるのは、常に来訪者の方が立場が上だからです。来訪者は、たとえ少額であったとしても、自分はおカネを払っているんだという意識でそこに来ます。それに見合うサービスが提供されるのは当然のことなのです。
そういう世界から離れるために Cafe & Library を作りたいのに
でも、ここは自分で覚悟を決めないといけない。おカネ儲けのためにカフェをやるのではないという確信と、こういう場所を作りたいんだという明確なヴィジョンを持っていれば、だれも来てくれなくて売り上げが伸びないからといって、もともとのヴィジョンを捨てて、万人受けするような、つまりは何処にでもあるようなカフェを作ることもないと思うのです。

 ひとつのカギとなる考え方は、なにか「成功する」ことを考えるのではなく、「失敗しない」道を、ゆっくりといつまでも歩いていく、ということではないか。例えば、このカフェのために借金を重ねて老後の生活がままならなくなるというのは「失敗」ですが、このカフェで何百万も稼ぐとか、カフェの規模を大きくするとか、人を雇って事業を拡大するとか、そういう「成功」を考える必要なんてないのだと思うのです。人間は欲が深いですから、ちょっと軌道に乗ってきて稼ぎが出てくると、もっと稼ごうと思ってしまう。そうなると、最初のヴィジョンなんてどうでもよくなって、稼ぐためにはどうしたらいいか、ということばかりを考えてしまうんです。そうすると、おカネを払う来評者に迎合することになる。インスタ映えするメニューを作るなんてことを考えたりしてしまう。
そうじゃないんだ。
自分が提供したい時間と空間を作り出すための能力と機会を、この市場経済の中で手に入れていく。けれど、その市場経済の中に身を投じるのではなく、その市場経済から離れることが出来る時間と空間を作るのだ。カッコよく言えばそういう覚悟かも知れません。もっとベタに言えば「成功しない覚悟」かも。

 いや、それ以上に、自分の思いとは関係なく、カネ勘定と他人の評価に、学校や会社というクッションなしに、直接自分が晒されるという覚悟。その中にあっても自分を見失わないという覚悟。妄想から始まって、やっとそんなことが分かってきたように思います。




和田竜 著. 2010. 『のぼうの城』. 小学館.

石田三成率いる2万人を超える豊臣軍を前に、わずか3千人で忍城に籠城する成田長親。成田家は、北条に味方すると見せかけて、裏では豊臣に内通している。

「戦いまする」


和戦いずれかを問う光成の使者に、決定的な一言を発する長親。唖然とする家臣。

「強者の侮辱にへつらい顔で臨むなら、その者はすでに男ではない。強者の侮辱と不当な要求に断固、否と叫ぶ者を勇者と呼ぶなら、紛れもなくこの男は、満座の中でただ一人の勇者であった。(上pp.181-182)

しかし、この一言によって、領地も領民も地獄の戦いに巻き込まれていく。領主たるもの、このような私情で軽はずみに戦いをしてはならぬもの。ところが、この領主は、とにかく人に愛されている。

「のぼう様が戦するってえならよう、我ら百姓が助けてやんなきゃどうしようもあんめえよ。」(上p.212)

こうして、関東平野の小さな城で戦国史に残る戦が始まる。

時代小説というのは、残されている史料をもとに作者が創作したフィクションです。この小説には、その時代を支配する論理に一矢報いようとすることに対する作者の共感が込められているのだと思います。






2024/03/17

アジール

  大河ドラマ「どうする家康」で三河一向一揆が描かれたときに、家康が治める三河国の中にあっても大寺院には不輸不入の権利が認められていて、そこに逃げ込んでしまえば、年貢の取り立てからも役務からも逃れられる、アジールのような場所が描かれていました。家康が不用意にそこから年貢を取り立てようとしたことから、家臣団を二分し親子兄弟で戦うような修羅場の戦になっていくというストーリー。現代社会の根底に市場経済と貨幣至上主義があるように、中世は、武力のある者がすべてを支配する世界で、それによって息苦しい思いをしている人もいれば、当時のことですから、精神的な苦しさだけではなくで、物理的に虐げられたり生命さえも危険にさらされたりしている人もいたことでしょう。不輸不入の権利によって守られている大寺院は、そういう現実から逃れられる、まさに「駆け込み寺」だったのかもしれません。

 私が作ろうとしているのは、こういうアジールなのかもしれません。

 近代になっても、農村には古いしきたりが残り、前近代的な息苦しい社会が残っていたのかもしれません。近世にはそれを息苦しいとは感じなかった人も、近代的なものの考え方に触れれば、それを息苦しいと感じたのかもしれません。そういう人にとって、近代的な建物が立ち並び、大きな工場に大勢の工夫が働く都会は、巨大なアジールだったのかもしれません。しかし、中世においても近世においても近代においても、それらのアジールは決して楽園のようなところではなかったのではないか。アジールの中にも厳しい労働があったり、理不尽な戒律があったり、武力が世の中を支配する世界では、アジールもそれに対抗する武力を持ち、貨幣が世の中を支配する世界では、アジールが貨幣の集積場となることで、アジールとしての機能を果たしてきた、といえるのではないでしょうか。そして、そのアジールの中に生まれた新しい息苦しさが、また新しいアジールを必要としている。けれど、そのアジールもまた、貨幣が支配する世の中の外には作れないのではないか。

 カフェを作って運営するには、どこか場所を用意しなければいけません。そのためには月々の家賃が必要です。人を雇う気はないのですが、いろいろな器具は用意しないといけません。調理器具にしても冷蔵庫にしても、ひとつひとつが数十万円。リースにすればそれぞれ月々数万円が必要です。上手く運営していこうとすればするほどおカネが必要になる。すると、それを回収するために売り上げのことを考えないといけなくなって、結局、貨幣と現代社会の論理に支配されたカフェが出来てしまう。それでは、煩わしいコミュニケーションから逃れられる時間と空間を提供するという Cafe & Library のコンセプトは実現できません。

 結局、私の能力と覚悟が試されている。

 私自身が現代社会の息苦しさから逃れたいというだけでは、この構想はいつまでも妄想のままで終わってしまいます。その息苦しい現代社会に自ら飛び込んで、カネ勘定と他人の評価に晒されながらでないと、少なくとも「カフェ」という形式でこんなアジールを作り出すことはできないでしょう。

 そうでないなら… 例えば、彼岸の図書館では地元で山を持っている人に気を切り出してもらって本棚を作ったと言います。そういう市場経済とはまったく違う論理で必要なものを得ていく。本棚だけでなく、食べ物だって、庭の畑でとれた野菜と、飼っている鶏だけで生活する、といった、市場経済とはまったく違うところに飛び込んでいく覚悟が必要です。それこそ妄想の世界。彼岸の図書館でもそこまでは徹底していないでしょうし、そこを目指しているわけでもないでしょう。

 武力にものを言わせて年貢を取り立て役務に借り出される世界に抗うアジールを作ろうと思えば、やはりそのアジールを武力で守らないといけない。市場経済の息苦しさから解放されるアジールも、やはり市場経済の原理で作っていかないと実現しないのです。しかも、これまでのように、自分を守ってくれる現代社会の鎧はない。これまでは、学校で習ったから、先生に言われたから、会社で決められたことだから、上司に言われたから、ということで、ずいぶんいろんなことを免責されてきたと思います。その所為で息苦しい思いもしましたが、そのおかげで気楽な気持ちでいられたこともあります。これからはそうはいかない。そういう覚悟が必要なんだと思います。




網野善彦. 1996. 『無縁・公界・楽. 日本中世の自由と平和 (増補)』. 平凡社.

歴史の中に、学校で教えてもらったこととは違う、何かものすごく大事なことがある。本当に歴史を動かしてきたのは、戦国武将でも勤王の獅子でもなくて、もっとその時代の人々の生活に密接にかかわってきた何かではないか。この著者の本を読んでいるとそんな気がします。そんなことを知ることが、学校でいい成績を、とって友達をたくさん作り、クラブ活動で活躍して、いい大学に行って、いい会社に入って、たくさんお給料をもらうという、既存のルートを離れていくための糧になるような、そんな気がしなくもありません。



2024/03/16

ふりだし

 いったい自分は何がしたいのか。

 それに対する端的な答えは見つからないのですが、彼岸の図書館と同じところを目指しているわけではありません。司書さんの著書を読んで「静かに滔々と流れる大河」を感じたのですが、おそらく彼女の人生の流れは、いろんなところを流れ、いろんな壁に行く手を阻まれながら、流れに流れて、そしてこの彼岸に辿り着いたのでしょう。それを真似ることに意味はありませんし、また真似ることもできないと思うのです。

 その図書館は確かに彼岸にありました。私が息苦しいと思っている此岸ではなく、私を迎え入れてくれる彼岸です。私が思うに、此岸で息苦しい思いをしている人は私だけではなく、いまは気付いていなくてもこれから息苦しく思うかもしれない人も含めれば、けっこう多くの人がそう思っていると思うのです。そして、彼岸の図書館がそれを全部受け入れてくれるわけではないはず。思いはひとりひとり、少しずつ違いますから、此岸で息苦しい思いをしている人すべてが、彼岸の図書館で迎え入れられる訳ではなくて、その図書館が建っている彼岸とは別の彼岸を求めている人もいると思うのです。そこに Cafe & Library を建てたい。それじゃ、それは何処なのか。それは、こうして机上で言葉を引っ搔き回していてもなかなか答えに辿り着けないように思うのです。

 カネ勘定と他人の評価に流されずに、自分のやりたいことをする、というのはとても大変なことだと思います。よほど自分のやりたいことに確信を持っていなければ、必ず流されてしまう。現代社会という枠組みはそれぐらい強固で、そこから逃れて彼岸に行こうとしても、それを此岸に押し戻そうとする大きな力があるように思うのです。それに、自分が行こうとしている彼岸は、ここからは良く見えないし、どこに向かって進めばいいのかもわからない。

 けれど、こうしていろいろ書き連ねる間に、此岸のことは少し見えてきたように思います。普段、地球が丸いことや地球が自転していることを意識している人はあまり多くはいません。それと同じように、この世の中の根本的な仕組みなどというものに対しては、ふつうの人々は無関心で、「世の中はそういうものだ」という一言で分かったようなつもりになっているものなのです。けれど、このブログに書き連ねられた文章や、それにくっつけて紹介している本の紹介文を書くことによって、此岸とはこんな形をしているのではないだろうか、ということが少しずつ分かってきたように思うのです。地球が丸いことを知っていれば月に行ける訳ではありませんが、地球が丸いことを知らなければ月へは行けません。だから、此岸の形を知ることは彼岸への第一歩だと思うのです。

 まるで月に人を送り込むような遠大な計画になってしまいましたが、案外、答えはもっと近くにあるのかもしれません。わざわざ月まで行かなくても、私たちは地上にいながら、この地球が丸いことを知ることも出来ます。彼岸まで行かなくても、此岸の問題を此岸で解決することも出来るのかもしれません。息苦しさの原因がカネ勘定と他人の評価なのだと分かってしまえば、わざわざ彼岸まで出掛けていかなくても、此岸にいながらにしてその息苦しさから解放される時間と場所を提供することが出来るかもしれません。「図書館」という名称に固執せず、いっそうのこと「読書カフェを作る」と言い切ってしまった方が答えに近づくのかもしれない。それはそれで、私にとっては、何千人もの人が関わって月に人を送り込むことと同じぐらいの「ビッグ・プロジェクト」ではあるのですが。




町田そのこ 著. 2020. 『コンビニ兄弟: テンダネス門司港こがね村店』. 新潮社.

現代社会におけるコミュニケーションのあり方をもっとも端的に凝縮したともいえるコンビニエンスストアを舞台に、市場経済とはまったく無関係に「彼岸の人間関係」を描く小説。こんなコンビニはないとわかっていても、「どこかにあったらいいな」と思わせるところが、小説の力、創作の可能性なのかもしれません。コンビニにこれだけの力があるなら、読書カフェだって…。いや、これは創作というより、やはり妄想ですね。