2024/06/23

図書館を巡る

 図書館の蔵書をどのように評価するのかってとても難しい問題なのです。私が勤めていた図書館では、その年のうちに買った本が、その年のうちに貸出や閲覧に供されたかどうかで評価をしていました。一度それを徹底してやろうとしたときにはとても疎まれました。官僚的な組織の中では、そういうことはあまり好まれず、「上手く選書されています」という結論が先にあって、それをどう導き出すのかが大事なのです。

 今回の旅では、海士町中央図書館のほかに、隣の島にある西ノ島町コミュニティ図書館「いかあ屋」と、海士町へのフェリーが出る街にある境港市民図書館を拝見しました。海士町以外は、勝手にいろいろ見させてもらっただけなのですが、この3つがそれぞれ特徴があって面白い。

 まず、最近の図書館のトレンドも追いつつ、伝統的な図書館の蔵書評価でもたぶん高く評価されると思われるのは境港市民図書館。私の場合、図書館を見るときは、まずレファレンスブックを見るのですが、ここは本当にしっかりしていました。平凡社の『世界大百科事典』、小学館の『日本大百科全書(ニッポニカ)』『国史大事典』『角川日本地名大辞典』『大漢和辞典』、県史や市史、町史、村史など、あって当たり前と思っているものが本当にある。最近、市町村レベルの図書館では、なかなかこういうコレクションにお目に掛かれません。それと児童書の豊富さ。特に小学校の高学年ぐらいを対象にした本が豊富な印象。十進分類で配架されているのですが、たとえば「140」の書架には「こころ」などといった、小学生でもわかりやすいタグが付けられていて、これもなかなか好印象でした。あれ、と思ったのは一般図書の配架順で、例えば日本史ならば、普通は十進分類で古代→中世→近世→近代と並ぶべきところ、全部ひっくるめて著者順だか署名順だかに並べているところ。これはちょっと探しにくそうでした。新書はいくつかのレーベルを継続収集されているようで、相当な量があるのですが、分類配架されていないのは残念。配架場所もちょっと手に取りにくい高い場所で、なんとなく本が飾りになっているような感じ。これは他の図書館でもよくあることなのですが、新書は大学の先生のような専門家が一般の読者向けに書かれていることが多いので、入門書や教養書としてとてもいいと思うのです。レーベルごとにまとめるのではなく、主題別に分類配架すれば、同じ主題の本が1か所にまとまって、とても手に取りやすい。昔は各図書館で1冊づつ本の目録を作るときに分類をしていたのですが、いまはコンピュータにすぐ入力できるような本の目録情報を、本といっしょに購入するのが普通ですので、主題別分類はそんなに手間ではないはずなのですが。と、ちょっと意地悪な目で見てしまいましたが、学習室やミーティングができるような部屋もあって、施設も立派。まずまず申し分のない図書館でした。

 西ノ島町コミュニティ図書館「いかあ屋」もなかなか今風の図書館でした。ここも、ミーティングルームや学習室、海を見ながらゆっくりと本を読めるスペースなどがあり、「コミュニティ図書館」の名に恥じない施設でした。子育て世代と思われる女性が数名で、本やノートを拡げながらミーティングをしていたり、男性のお年寄りお二人が将棋に興じていたり、施設を作って終わりではなく、ちゃんと利用されているなぁとも思いました。入口を入ってすぐのところに低書架があって、西ノ島→隠岐→島→沖縄・瀬戸内 自然→生き物→漁業・畜産→町おこし みたいな連想で書架が作られていました。これはなかなか魅力的。本を読んでみようかな、という気にさせてくれます。出来て間もないということもあるのかも知れませんが、一般書架の本は総じてきれいでした。つまり、あまり利用されていない。これはもったいないですね。施設だけでなく、本も利用してほしいところです。それと、これも最近の図書館のトレンドなのかもしれませんが、書庫がないんです。「いかあ屋」の場合、いちおう「書庫」という部屋はあったのですが、閲覧室との間仕切りはなく、開架書架(図書館にある普通の本棚)に入りきらない本が普通に並んでいました。図書館の主題分類だと、「歴史」の本は、歴史一般→日本史→東洋史→西洋史…という順番に並ぶのですが、ここでは、歴史一般の次は東洋史で、「日本史の本は書庫にあります」といったことが書かれていました。大学の図書館は古い本でも捨てませんので、数十年前に発行された古い本(それはそれで利用価値があるのですが)だとか、ほとんど利用が見込めないような本は、書庫に仕舞い込んで、利用者からリクエストがあれば出す、というようなことにしています。県立図書館なんかもそうしている。「いかあ屋」の場合、まだ開館して間もないからそんな古い本はないのかも知れませんが、これからどんどん本が増えて並べきれなくなったら、古い本とか利用がない本なんかはどんどん捨てていくんでしょうね。書庫を作るぐらいなら、学習室、ミーティングスペース、ラウンジのような部屋なんかを作る方がいい。そういう思想が最近の図書館のトレンドなんだと思います。それもわるいことではないのですが。

 そしていよいよ海士町なのですが、これは語りだすと長くなりそうですので、明日にします。



2024/06/22

島まるごとアジール

 以前の記事で、青木真兵さんの著書『手づくりのアジール』を引き合いに、島根県隠岐郡海士町は島全体がアジールのようなものという私の考えを披露しましたが、これはちょっと修正が必要かもしれません。

 島にある島根県立隠岐島前高校には、全国から島留学の若者が集まってきます。彼らを見ていると、都会の学校から「逃げ出してきた」というよりも、現代社会という枠組みから「飛び出してきた」ように見える。それと「ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込んだ」(青木真兵, 海青子. 2019.『彼岸の図書館』P.6)という青木さんの言説とのギャップをどう埋めるのか。そこは、海士町まで出掛けて青木さんのお話を聞く動機でもあったのですが、青木さんによれば、アジールというものが何か絶対的な価値観を提供しているのではなくて、それぞれのアジールが社会の多様性の一部で、「アジールとはこうあるべき」といった画一的なものではないということなのです。都会からやってきた高校生にとってこの島の暮らしはアジールかも知れないけれど、都会のように何でもおカネで解決することが出来ないこの島では、周囲との濃密なコミュニケーションが必要になって、ときにはそこから逃れるように、港の売店でソフトクリームを買って人目につかないところで食べる時間が、その人にとってのアジールになるかもしれない。そんな例を挙げておられました。

 トークイベントのあとで、島前高校の先生という方に声を掛けていただいて、親しくお話をさせていただいたのですが、「飛び出してくる」若者と「逃げ出してくる」若者は半々ぐらいというようなことを仰っておられました。それを伺って、本当は一人の人間の中にも「飛び出してくる」要素と「逃げ出してくる」要素があって、ある場面では一方が強く出る、ということなんじゃないかな、と思ったりしました。

 これはたぶん、自分がやろうとしている Cafe & Library でも同じで、一面では「世の中を変える」とまでは言わないまでも「一隅を照らす」ぐらいの要素はありつつ、他の面では、現代社会の縮図と言えるいまの会社から逃げ出すという要素もある。どっちか一方という二者択一ではないと思うのです。それは、Cafe & Library の重要なコンセプトである「脱コミュニケーション」も同じかもしれません。これまで私は、会社で求められるコミュニケーション能力というのに辟易としていて、とにかくコミュニケーションから逃れられる時間と空間こそが自分にとって必要だと思っていました。それはいまでもそうなのですが、島に行くと私はいろんな方とお話をして、それなりに自分が受け入れられたように思っている。そういう「二面性」みたいなものはあらゆるところにあるもので、どちらかを「善」、どちらかを「悪」とは決められない。

 青木さんも、「此岸」と「彼岸」を行き来することの大切さを語られる。ふたつの価値観というのは、「都会」の価値観と「山村」の価値観だったり、個人が強調される「近代」の価値観と地縁や血縁などのコミュニティが強調される「前近代」の価値観だったり、いろいろなパターンがある。ただ、いまは資本の原理に基づく価値観が強すぎるので、それとは異なる価値観が提供されないと、異なる価値観の間を往来する自由が得られなくなって、社会が息苦しくなる。資本の原理が届きにくい場所を作って、そこと、今の世の中で支配的な資本の原理が通用する世界を行き来する。そんな思想に「土着」とか「アジール」という言葉を当てておられるのだと思います。

 そんなことで、海士町で開催された青木真兵さんのトークイベントから、あれやこれやと考えてきたのですが、明日は図書館のことを書こうと思います。



2024/06/21

地に足を付ける

 奈良県東吉野村で「彼岸の図書館」を運営されておられる青木真兵さんは、「学者」という顔も持っておられて、博士号もお持ちだし、文筆活動や講演もされています。

 ところで、最近の大学の傾向として、「社会に役立つ」ということを盛んに言うようになったと思うのです。私が大学生の頃は、大学生の4年間は「モラトリアム」などと言われていました。おそらく大学に対する公費助成を削減したいと考える人たちの思惑が背景にあったのだと思います。それに対抗するために「社会に役立つ人材の育成」などという大学の機能をアピールする必要があったのかも知れません。しかしそれは、「大学」という場所を「社会」に従属させることになってしまいました。

いやお前、何言っているんだ。「社会」っていうのは「大学」とか「会社」とか「政府」とか、そういうもので構成されるんだから、「大学」が「社会」の一部なのは当たり前じゃないか。社会の役に立たない大学に税金から助成をするなんて話はありえないよね。

お説ごもっともなんですが、大学で行う「学術」という営みは本来、社会からも個人からも離れたところから、社会のあり様や個人の生き方を観察して、理想的な社会や理想的な生き方を提示するという崇高な役割を持っていると思うのです。社会全体に閉塞感が漂う今日にあっては、本来ならば「社会に役立つ人材」ではなくて「社会を変える人材」を輩出していかないといけないところ。そう思いません? でもそれは、社会に反旗を翻すことであって、社会から自由である代わりに、社会から孤立することにもなります。それじゃ研究助成も運営経費助成も受けられないし、新しい学部を作ったりするときに認可されないし、学生の就職先もないから志願者も集まらない。少子化が進む中で、志願者が確保できなければ学生も減って学費収入も減る。公費の助成も減る。たいへんだ。ということで「社会の役に立つ」アピールが強くなっていく。大学間の競争が煽られ、大学の「生き残り戦略」を前面に出した運営がなされ、大学の商業化が進む。社会のあり方や個人の生き方について理想を語る先生は疎まれ、大学はどんどんつまらない場所になっていったのではないか。そう思うのです。博士号まで取得された青木さんが、大学に就職して安定した収入を得る道を捨てて、東吉野村から「社会のあり様」を発信し「新しい生き方」を提示されている背景には、そんなことがあるのかも知れません。

 さて、ここからは青木さんがトークイベントで語られたお話しからなのですが、青木さんは「人類のために」などという理想を語る一方で、「地に足を付ける」という言い方で、現実との融和を図られているように思いました。その辺が大学の先生とは違う魅力かも知れません。スポンサーに気兼ねすることなく、自分が言いたいこと、言うべきことを言う拠点を作ること。都市、健常者、私有という近代社会の基底に対抗して、田舎、障害、共有を基底とする世界を作ること。それは理想かも知れないけれど、それを「絶対善」としてしまうと、それはそれで閉塞した世界になってしまう。NPO法人の仕事、図書館の仕事、学者としての仕事の割合を円グラフで示しながら、自分の関心が向けられている割合は図書館が半分以上なのだけれど、収入はNPO法人が中心。ふたつの世界を「此岸」と「彼岸」に例えながら、それを行ったり来たりすることが「地に足を付ける」ことなんだ、とか、固定的に物事を考えずに環境に合わせて活動のスタイルも変化させていくことが大事なんだ、とか、当たり前のことかもしれないけれど、それに「土着する」という言葉を割り当てて、その先に「人類のためにやっている」という理想を持ってくる。そうすると、私がやろうとしていることも、もしかして「人類のために」なるかもしれない、なんて「錯覚」が生まれて、俄然、やる気も出てくる。いっしょに拝聴した方の中にもそんなふうに思われた方がいるんじゃないかと思いました。

 明日は、アジールと多様性について考えます。