2024/05/18

手づくりのアジール

 このブログで「彼岸の図書館」として何度かご紹介している奈良県東吉野村の私設図書館を運営されておられるご夫婦のうち、夫さんの著書『手づくりのアジール:「土着の知」が生まれるところ』(青木真兵著. 晶文社, 2021)に、これまでこのブログに、ああでもない、こうでもないと、つらつら書いてきたことが、研究者の言葉で見事に文書化されていました。最近、読んだ本の内容をほとんど覚えていないことを「惜しい」と思うようになり、少しでも心に留まるように、努めて感想文を残しているのですが、本を書かれる方の文章はどれも見事で、自分の拙い感想文で読後感を上書きすることが却って惜しく、印象に残った文章をただ書き出すだけで感想を書いたつもりになっている場合もたくさんあります。この本もそんな本になりました。巻頭の「はじめに」から、ドストライクな文章の連続です。

ぼくが「彼岸」という言葉を使っているのは、すべてが数値化の結果を受けて序列化され、それに基づいて価値付けが行われてしまうような現代社会を「此岸」としたときに、そうではない世界としての「彼岸」が必要なのではないかという思いがあったからです。(p.3)

ぼくは、彼岸とアジールを同じような意味で使っています。そして自宅を開いて図書館を運営する活動自体が、アジールを手作りすることを意味しているのではないか」(p.5)

もし、今いる場所が自分に合っていないなら、つまり自分の「土着の知」と社会の折り合いが悪いなら、なんらかの形でそこから立ち去る準備をしなければなりません。…「逃げる」ことも「地に足をつける」ことも、自分の中の生き物の部分に気づくことを意味しています。それはつまり「土着の知」の存在に気づくことなのです。(p.7)

 前段のところは、現代社会は「人」を数値化する社会で、自分がその中で息苦しさを感じていて、同じように息苦しさを感じている人に、ひとときそこから逃れられる空間と時間を提供したい、という、このブログに私が書き連ねてきたことと本当にいっしょだと思いました。この方は「土着」「手づくり」というところに、その解決を見出しておられます。

手づくりとは、誰もが対価を払えば手に入れられる商品とは異なり、自身の個別性、身体性を手がかりに行う行為です。そして、個別性や身体性に触れるためには、コントロールできない社会の外部が自分の中にもあることを認める必要があります。(p.176)

社会の近代化に伴い、人はどこにでも住めるようになり、土地性が喪失した。…そのせいで社会が想定する人間像もどんどんヴァーチャルになり、誰にとっても生きやすい社会を目指すはずが、誰にとっても生きにくい社会になってしまうのではないか…だから、抽象的になってしまった人類を、再び土着化させ、土地に結び付けて具体的な存在として考えなおしたい。(p.182)

 彼岸の図書館も、以前にこのブログで紹介した島根県隠岐郡海士町も、商品で満たされた都会から離れているという意味で、とても不便なところです。地理的な制約が多く「こうしたい」と思うように自分の環境をコントロールすることが難しい。そういうところでその制約を受け入れながら生活することを「土着」と仰っておられるのだと思います。

これからは「みんなのため」ではなく「自分のため」に生きていくべきだと思います。それは自分たちや身の回りの物を「商品として見ない」ということです。…世の中が教えてくれる「みんな」基準の人生から、「自分」のための人生へ。この転換は、ぼくたちが幼少期から信じてきたものを、ポイっと捨てることを意味します。…ぼくたちはさまざまな可能性を信じるように、夢に向かって自己実現するように…つまり人気商品としての「自分」の形成に日々努力してきたのです。(pp.160-161)

 ここでいう「みんなのため」というのは、おカネを支払えば誰もが購入できる「商品」を提供することを意味していますから、「おカネのため」というのと同義語です。

何かを成し遂げようとすることは、商品的人間として「みんなのため」に生きていくということです。一方、手づくり的人間は「自分のために」生きていきます。「自分らしく」とか「自分らしくない」とか、そういうことは気にしません。「自分らしく」生きていくとは、実は商品的人間として生きていくことを意味します。商品的人間の特徴は、他社の眼差しが内面化されているということです。社会的評価を気にしてしまうとも言い換えられます。決して気負う必要はありません。むしろ、ただこの世界を「自分のために」生き延びること。それが結果として誰かのためになるかもしれないし、ならないかもしれない。(pp.164-165)

 そうそう。そういう生き方なんです。草径庵の庵主さんが「人など来るはずもなく、正直、来なくてもよい」と割り切っておられることにも通じます。

 このブログを始めてから何度か「背中を押される」思いをしているのですが、この本との出会いも、私にとっては大きな励みになりました。

2024/05/17

収益性再考

  実際に訪れてはいないのですが、横浜で週1日か2日だけ開いておられる読書カフェ「草径庵」を知って、カフェの収益性についての考え方は大きく変わりました。草径庵を知るまでは、図書館をやりたいという希望を叶えるために必要な費用を捻出する手段としてカフェを「経営」しようとしていたのですが、草径庵を知ってからは、カフェも図書館も一体のものとして、自分にとって居心地のいい空間であることが最優先事項で、儲かるかどうかは二の次。儲かれば儲かったでいいけれど、儲けようとしてやっているわけではなくて、儲からなくても続けていける仕組みを、定年後の生活全体の中で作っていけばいい、という考えに大きくシフトしました。

 草径庵の庵主さんはライターをされているようです。そこで稼いだおカネを草径庵に注ぎ込んでおられるのかもしれません。私の場合、そんなカッコイイ仕事はできませんので、例えば週3日間どこかで雇われて仕事をするとか、朝の時間だけ、スーパーの品出しをするとか、ショッピングモールの清掃をするとか、そんなことで月々わずかな収入を得て、それでカフェをする。もう定年ですから、おカネのためにそんなに働かなくてもいいのではないか。それに、仕事に生き甲斐ややり甲斐を求める必要もありません。自分の居場所は仕事以外のところにあるのですから。収入を得るためにするジョブと、社会に働き掛けてそこにやり甲斐を感じたり、自分の居場所を作ったりするワークをはっきり分ける。雇われてお給料をもらうのはいままでといっしょだけれど、こうすることでコミュニケーションに関わる負担は大きく軽減できると思うのです。

 家賃やリース料といった、月々発生する固定費を出来るだけ小さくして、初期投資については「道楽」と割り切って、回収することを考えない。もし誰も来てくれなくても、カフェ以外にやっていることで、たとえ僅かであっても月々決まったおカネは入ってくる。

 これまではそうはいきませんでした。娘が2人いれば、教育費もかかる。住宅ローンも返済しないといけない。「男性」というジェンダーは外で働いてきて稼いでくるところに価値がある、という伝統的な考え方がありますから(私がそう思っている訳ではないのですが、妻はそう思っているようです)、仕事を辞める訳にもいかず。脱サラするにしても、きちんと家におカネを入れられない仕事なんてできませんでした。「儲からなくてもいいや」と考えられるのは、人生の中でいまだけなのです。

 そうすることで、おカネのことはあまり考えずに、自分の好きなことが出来ます。少しでも多くの方に来店いただくとか、客単価を上げるとか、そういうことを考えて「お客様」に迎合する必要もありません。カフェを成功させるためのテンプレートに乗っかって、どこにでもあるようなカフェを作り、同じようなテンプレートで作られている他のカフェと競争する必要もありません。その結果、どこにもないような自分らしいカフェが出来て、それが受け入れられれば多くの方に来ていただけるし、受け入れられなくても、別に店を閉じる必要もなく、ただ細々と続けていればいい。

 そう考えることで、ものすごく気持ちの余裕ができるのです。

 きっとうまくいくような気がしてきました。




2024/05/01

ブックカフェと読書カフェ

 公的な団体ではないのですが、「日本ブックカフェ協会」という団体があって、ホームページを公開されています。そのホームページに「ブックカフェとは」という記事があって、ブックカフェの定義らしいものが次のように書かれています。

近年おしゃれで個性的なブックカフェが全国的に増えています。一杯のコーヒーと一冊の本から始まる新しいストーリー。ブックカフェとは、そんなストーリーを作り出す空間であり、カフェと本屋が合体したお店のことです。おいしいコーヒーを飲みながら店内の本棚に並ぶ本を自由に手に取り読むことができ、気にいった本は購入できます。

ブックカフェにも様々な業態があり、分類するといくつかのパターンに分けられます。

1.新刊書店とカフェが併設

2.古本屋がカフェを併設

3.閲覧のみのカフェ

 ブックカフェの開店を目指している人の中には、こうして「規格化」されることによって「私がやろうとしていることは変なことじゃないんだ」と安心される方もおられると思います。でも、私の場合、なんだか自分が開こうとしている店が、たくさんあるブックカフェのひとつとして「商品化」されるみたいで、複雑な思いがします。

 もちろん、まったく特異なことをしているわけではないのですが、商品経済の体系の中に組み込まれたくないという思いがありますので、いくつかの基準でパターン化されて、その中で、記号のように扱われるのは、あまり気分が良くありません。

 これまでこのブログでご紹介してきた「お気に入りのカフェ」や、いつか訪問しようと思っている草径庵は、いずれも「読書カフェ」を自称されています。それで、これからはこのブログでも、「ブックカフェ」ではなくて「読書カフェ」ということにします。それも「パターン化」かもしれないのですが、「読書カフェ」を自称されている方のカフェを見て、サービスの「商品化」の一歩手前で踏みとどまっておられるような感じはしますので、自分もそのように、自分自身やお店のサービスを「商品化」する一歩手前で踏み止まりたいと思うのです。

 過去の記事も、いずれ書き換えますが、とりあえずこれからは「読書カフェ」ということにします。