2025/08/30

飛び出しモードへの転換

 こうして毎日ストレスのシャワーを浴びていると、だんだんと感受性が鈍ってきます。きっと一つ一つのことに敏感に反応していたら精神的に参ってしまうので、それに対する順応反応として、無気力、無感動、無関心という状態に無意識のうちにシフトしていくのだと思うのです。本当なら、定年退職後の「本の庵」の開館に向けて、例えば改装工事のアイデアをまとめるとか、コーヒーの美味しい淹れ方の研究や美味しいフードメニューの開発、食器や什器選びなど、いろいろやらなければいけないことがあるのですが、そんなことを考える気力が湧いてきません。早くこの会社を辞めたい。辞めた後のことを考えて、そこに向けて「飛び出して」いくモードではなく、明らかに「逃げ出しモード」になっています。

 この一連の記事を書き始めたときは、それまで溜まっていた領収書から帳簿を記帳したり、放ったらかしにしていたホームページをそれらしいものに改修したり、改装業者へのコンタクトを試みたり、余裕のない状況から少し前向きな状況に自分をシフトさせて、「飛び出し」モードを作っていこうとしていたところでした。

 しかし、こうして自分の置かれている状況を言語化していくと、自分にとっていま必要なのは「逃げ出す」ことではないのか、とも思えてくるのです。産業医にも「もうケツまくって辞めたらいいやん」と言われる状況なのです。でも、いざ辞めるとなるとそれもなかなか決断ができない。「逃げ出す」のもそう簡単ではありません。青木真兵さん、海青子さんは著書の中で「逃げる」ことの積極的な側面について述べておられますが、お二人はまさにそんなたいへんな思いをして逃げてこられたのだと思います。

 いまの私の状況は殿(しんがり)かもしれません。戦で状況不利と見て兵を退くとき、最後尾で追手から退却する自軍を守る役割。もともと状況不利な状態で、勢いに乗る敵の追撃を受けつつ、しかし味方からの援軍は期待できない。いちばん過酷な役割ともいわれます。でも、そうやって退却することによって、体勢を立て直し、次の攻勢に出ることができる。いまは逃げながら必死で戦っているのですが、それでうまく退却した先に「飛び出し」モードがあるのかもしれません。


2025/08/29

仕事の尊厳

 聞きかじりの孫引きなのですが、哲学者のエマニュエル・カントが次のようなことを著しているそうです。

目的の国においては、すべてのものは、価格をもつか、それとも尊厳をもつか、そのいずれかである。価格をもつものは、何か他のものがその等価物にされる。それに対してあらゆる価格を超えていて、それゆえいかなる等価物も許さないものは尊厳を持つ。

 このごろの居酒屋の店員のほとんどは学生アルバイトです。短期間で入れ替わることを前提に、辞めたら次の人を「補充」すればいいと考えているのであれば、その仕事には「尊厳」なんてありません。時給何円という「価格」のついた仕事で、辞めていった店員の等価物はその時給で雇えるのです。同じアルバイトでも、少しでも長く活躍してもらって、お店の看板になってほしい、他のアルバイトに範を示すような人になってほしい、と手塩にかけて育てた人なら、代わりの人は簡単には見つかりません。そこには時給何円という「価格」を超えた「尊厳」がある。エマニュエル・カントが学生バイトが店員をしているような居酒屋に行ったかどうかは知りませんが、言いたいことはそういうことじゃないかと思うのです。

 非正規雇用の人が辞めるときの後任者の採用を、辞めていく本人もいるみんなの前で「補充人事は始めていますから安心してください」などと言って憚らない私の職場には、もとから「尊厳」などというものはありません。非正規雇用であっても、その人が積み上げてきたノウハウというものがあります。大なり小なり他の人ではすぐには代替できないことをしているのです。そのことに少しでも敬意を持っていれば「補充人事」なんて言葉が出てくるはずがありません。その人が辞めたら同じ給与で募集を掛ければいい。そんな考えが「補充人事」という言葉に如実に出ています。実務の多くを非正規雇用の人に委ねていながらその尊厳を認めない。非正規雇用の人が次々に辞めていく背景には、自分の努力が報われていない、リスペクトが払われていないという不満が少なからずあるはずです。

 尊厳がないのは正社員も同じで、「仕事は誰でもできるようしておかないといけない」という号令の下に、その人にしかできないような専門性は徹底的に排除されていきます。私は、いまの職場で私がいちばん優秀だとは思いませんが、私にしかできない仕事はいくつもあります。しかし、もうあと数か月で私は定年退職する。そのあとは、その仕事が「誰でもできるように」しておかないといけないのです。その責任は、仕事のクオリティを下げることではなく、その仕事の仕組みを誰でも理解できるように説明することで果たさないといけない。私のこの考えは間違っていないと思います。けれどこの会社ではこんな当たり前のことが通じない。

 私と同じような考えを持っていっしょに厳しい勤務を乗り越えてきたもうひとりの正社員は、すでに退職してもういません。上長からも「無駄な仕事」と断じられ、残業することも認められず、ひとり闇残業をして、誰も読んでくれないかもしれない引継資料を作っている。私は何をしているのでしょう。


2025/08/28

左遷

 30年前の話ですが、私は転職していまの会社に勤めるようになりました。前の会社を辞めた理由は、上司が左遷されてきたからです。もちろん辞令に「左遷」と書かれているわけではないのですが、本人が自分は左遷されたと思っていて、それにたいする不満を私たちの前で態度に表すのです。失礼にも程がある。

 こんな事情で以前に勤めていた会社を飛び出して、いま勤めている会社に飛び込んできました。いまの会社で何度か人事異動を経験しましたが、前の会社でこんな経験をしていますから、これまで一度も自分が左遷されたと思ったことはありません。どの職場に行っても、その職場でいちばん仕事に対して情熱を持っている人と同じぐらいの情熱を仕事に注いできました。そうやって30年間勤めてきた最後の職場は、残念ながら左遷先でした。

 いまの職場では、非正規雇用の人が次々に辞めていきます。そのたびに「補充」人事が行われます。私や、私といっしょに厳しい勤務を乗り越えて退職していった正社員はマイノリティで、他の正社員による非正規雇用の人の扱いはとても粗雑です。この間、私は、4月に着任された新しい非正規雇用の人に仕事をしてもらうのに、タイトな説明資料を用意して膝詰めで説明をしたり、毎日やらなければいけない仕事であれば、数日いっしょにやることで、自分が退職したあともその仕事が継続的にできるようにしてきました。しかし、他の正社員は、ある人はだらだらとミーティングをするばかり、ある人はそれすらもなく、周りにいる非正規雇用の人に説明を委ねていて、自分はその内容について一切関知していない、という有様です。つまり、非正規雇用の人を手塩にかけて育てていない。だから、着任から数か月でその人がこの職場に見切りをつけて退職していっても、何も惜しくないのです。だから「補充人事」などということを平気で口にする。せめて「後任の人の採用」と言えないものか。

 非正規雇用の人の採用は、直接雇用であっても派遣であっても、人材派遣会社に頼っています。直接雇用の場合でも、紹介予定派遣という制度を使って、人材派遣会社を通じて募集を行っているのです。いま、どこでも人手不足と言われている中で、会社のニーズと働きたい人のニーズをマッチングさせるのはたいへんなことだと思います。そうやって苦労してマッチングした人が数か月で辞めていく。辞めていった人に問題があったわけではないのです。けれど、うちの会社からは「すぐ辞めるような人をマッチングした」などとクレームを言われ、「こんどはちゃんとした人を」などといわれる。私が人材派遣会社の社員なら、たとえ綺羅星のような人が応募してきたとしても、こんな会社とはマッチングせずに他の会社に紹介すると思います。

 正社員の人事についても、事情は同じだと思うのです。自分に人事権があるとして、前の正社員が中途退職したり病気休職したりしているところに、将来を嘱望される人材を回すでしょうか。むしろ、辞めても惜しくないような人材の左遷先として位置付けるのが落ちではないかと思うのです。自分もそうやって異動してきた。定年退職まであと2年半というところで、これまで何の経験もつながりもない部署に異動させられるというのは、それだけで限りなく左遷人事に近いと考えていいはずです。そこを、そうは考えずに、仕事に情熱を注いできたことが間違いだったのかもしれません。