2026/04/20

藤ノ木の家での「仕事」

 きのうの記事でも触れましたが、2月前半に事実上、会社を退職してから、ほぼ毎日、朝の9時から夕方5時までは、「本の庵」になる予定の物件(所在地の旧町名に因んで「藤ノ木の家」と呼んでいる)に詰めています。工務店による改装工事もちょうどその時期に行われました。開業資金が潤沢ではないこちらの都合に気を利かせてくださって、工事は最小限にして、あとはDIYですることになりました。家一軒を丸ごとDIYでリフォームするようなものです。そんな訳でこのところは土日も関係なく毎日、日曜大工に勤しんでいる状態です。

 退職したので毎日が日曜日。そういう意味では「毎日、日曜大工」ということもできるのですが、これが「仕事」だとすると、毎日、休みなしに仕事をしているということもできます。

 きのうの記事で「仕事」の意味を「他のものに作用して、その状態を変化させること。特にその変化が有益である場合に用いられることが多い。」と解釈しました。「本の庵」そのものは、来館される方に「自分を取り戻す」時間を提供しようとしています。これは、来館された方に作用して、その方の状態を有益な方向に変化させることを企図していますので、胸を張って「仕事」といえます。改装工事はそのための準備ですから、やはり他に作用して有益な変化をもたらすための行為として「仕事」といっていいと思います。

 こんな解釈もできます。毎日やっている作業は、藤ノ木の家に作用して、その家を図書館やカフェのサービスが出来る状態に変化させていること。こう解釈しても「仕事」の定義には当てはまります。

 しかし、先述の「仕事」の語釈は、変化が有益であることを念頭に入れています。「本の庵」でやろうとしていることを有益だと思うかどうか。それによっては、私が毎日休みなしにしていることも、これが完成して始めようとしていることも「仕事」になったりならなかったりします。妻が「カフェでも図書館でもいいけど、ちゃっと他で仕事してや」という背景には、収入があるかどうかというだけではなく、「本の庵」でやろうとしていることの有益性そのものに対する懐疑的な見方があるのだと理解することも出来ます。

 夫婦のような身近な関係の中でも、「その仕事が有益かどうか」をめぐって評価が必ず一致するとは限りません。たとえば家事のように、日常の中で繰り返される行為であっても、そのやり方や質については、それぞれの基準があり、他者からは十分に評価されないこともあります。例えば、食事の片づけをしていると、妻から、水の出し過ぎだの洗剤の使い過ぎだの洗った食器の並べ方が乱雑だのと小言ばかりを聞かされる。そんなことはありませんか。自分では有益だと思っていることが、別の人から見るとそうではない。そうしたズレは、特別なことではなく、むしろどこにでもあるものなのかもしれません。

 ある仕事が有益かどうか。多くの場合、自分の仕事は有益だと信じられていますが、それを他人から見たときにその有益性が必ずしも理解されるわけではありません。そこが、仕事に関係する「生き辛さ」「居心地のわるさ」のもとになっているように思えます。


2026/04/19

「仕事」って何?

 先月末で予定通り定年退職をしました。その約2か月前から有給休暇を連続で取得して、事実上の「失業者」にはなっていたのですが、3月末をもって名実ともに「失業者」になりました。毎日、家でダラダラと過ごしてしまわないように、朝の9時から夕方の5時までは勤務時間と考えて、「本の庵」になる予定の藤ノ木の家で過ごしています。最初のうちは思索する時間ばかりが長かったのですが、最近では何かを作るために手を動かしている時間が圧倒的に長くなりました。日が長くなったこともあって5時を過ぎて「残業」することも、土曜日や日曜日に作業をしていることも珍しくはありません。なかなか完成が見通せないのですが、なんとか5月中には図書館として機能するところまでは漕ぎつけ、それからキッチン回りの整備や食器や調理器具の手配を進めていく。正式に開館するまでに「無料見学会」などと称して前宣伝もしていきたい。開館しても儲かる訳ではないので、年金が手に入るまではどこかに勤めに出て生活資金を稼ぐ予定です。

 さて、この生活は「仕事をしている」ことになるのでしょうか。

 「本の庵」は、事業として考えれば儲からないカフェ。DIYでやることにはついついこだわりが出てしまって、費用的に節約ができているのかも怪しいところです。この初期投資が果たして回収できるのか。一方で妻には「ちゃっと仕事してや」と再三言われています。この「仕事」というのはおカネを稼いでくることに他なりません。でも、おカネを稼ぐことと仕事をすることは同義なのでしょうか。それは違うと思うのです。本来は違うのに無意識のうちにそれを同じとみなしてしまっている。それが生き辛さの原因にもなっているんじゃないかと思うのです。

 広辞苑によると「仕事」には三つの語釈が書かれています。

①する事。しなくてはならない事。特に、職業・業務を指す。②事をかまえてすること。また、悪事。③力が働いて物体が移動した時に物体が移動した向きの力の成分と起動した距離との積を、力が物体になした仕事という。単位はジュール。

 広辞苑といえば権威ある辞書ですから、それに異論を唱えるのは勇気のいることですが、なんとなくしっくりこない。「消化酵素の仕事」というときの仕事はどれに該当するのか。普段手にするもの、例えば鋏や包丁などを使ってみて期待以上に使い勝手や良かったときに「いい仕事してるね」などと言ってみたりするのはどれなのか。そういうところが納得できなかったので他の辞書も調べてみました。三笑堂国語辞典によると次の通りです。

①身体や頭を使って働くこと ②職業 ③報酬を得るために働くこと ④その人の力量が発揮された成果 ⑤調理・細工

私のイメージする「仕事」という言葉の意味に少し近付いたように思うのですが、まだなんとなくしっくりきません。「身体や頭を使って働くこと」「報酬を得るために働くこと」という語釈がありますが、「働くこと」のうち「仕事」に該当しないものは何なのか。そこがしっくりこない理由なのかもしれません。それにこれらの語釈はすべて「人」が主体になっています。「消化酵素の仕事」などという用法は擬人的なものということになります。

 どちらの辞書にも「職業」という語釈が含まれています。おカネを稼ぐことです。おカネを稼がない仕事が否定されている訳ではありませんが、おカネを稼ぐ仕事の背後に隠されてしまっているように思うのです。それで、私なりの語釈を考えてみました。

他のものに作用して、その状態を変化させること。特にその変化が有益である場合に用いられることが多い。

この語釈だと、動作の主体は人に限定されません。「働き」という言葉の語釈にも近いのではないかと思います。主体を人として、有益さが金銭的に測られると想定すると「職業」という語釈につながります。

 この語釈をもとにして、何回かに分けて仕事について考察してみようと思います。


2026/04/18

専門性の罠

仕事も社会も複雑化している。だから、これまで以上に専門的な知識や能力が求められるようになっている

そうした言説を、無批判に受け入れてよいのか迷うところです。本当に仕事や社会は複雑になっているのか。自分が歳をとったので同じことでも複雑に感じるようになっているのかもしれません。加齢とともに複雑な仕事や社会の側面と接する機会が増えたのかもしれません。その前に、そもそも「複雑化」とは何を指すのか。それによって、なぜ専門性が必要になるのか。こうした問いを突き詰めれば一冊の本が書けそうですが、ここではいったん脇に置き、「専門性」そのものについて考えてみます。

 「専門的能力」や「専門的知識」と聞くと、特別な訓練や教育を受けた人だけが持つ強み、というイメージがあります。ところが、その強みが必ずしも報われるわけではありません。

 昨日の記事で触れたように、経理の仕事であっても簿記の知識や経験が求められないことがあります。私自身も、専門的な知識や能力が都合よく使われることはあっても、それが正当に評価されることはほとんどありませんでした。それどころか、「仕事は誰でもできるようにしておかなければならない」と言われ、例えばWordの差込機能を使って仕事を効率化すると、「そんな専門的なやり方をするな」と否定されることすらあります。

 中小企業の社長が大学院を卒業したような優秀な技術者を使いこなせない、というようなことならよくありそうな話です。しかし、私が経験した限りでは実態は深刻です。ひとりひとりの社員がどんな専門性を持っているのかを組織的に把握する仕組みはありませんし、上長も本当のところは把握していません。そして、その職場の仕事を遂行するためにどんな専門性が必要なのかについて、誰も示すことができていません。そしてその「専門性」と言われる内容も、簿記の知識やWORDの差込印字のレベルなのです。

 どうしてこんなことになったのでしょうか。

 「複雑化」という言説には、たしかに一理あるように思えます。新しい商品やサービスが生まれれば、それに伴って新しい知識が必要になります。これまでにはなかった問い合わせやクレームにも対応しなければいけません。非正規雇用や派遣制度の拡大は、労務管理を複雑にしました。補助金や助成金の制度が増えれば、それに対応する業務も増えます。こうして新しい仕事が次々と生まれていくことを「複雑化」と呼ぶことはできるでしょう。

 しかし、この流れは今に始まったことではありません。昔から制度や仕組みは増え続けてきました。ただ、その流れがコンピュータの普及によって加速し、人の対応能力を超えるスピードになっている、という側面はあるかもしれません。

 そして現代では、この「複雑化」に正面から向き合わなくても済む便利な言葉があります。それが「専門性」ではないか、と思うのです。

 「専門性」とは、日常的には扱わなくてもよいが、いざというときに必要になるもの——そんな位置づけで語られることがあります。この「日常的には扱わなくてもよい」という点が重要です。

 1990年代以降、大企業の現場では非正規雇用や業務委託が急速に進みました。その結果、正社員は実務から離れ、日常的に専門的な仕事を担わなくなっていきました。実務の多くは非正規雇用に委ねられ、まとまった仕事は外部に委託される。そうした環境の中で、正社員は専門性を身につける機会そのものを失っていったのです。そして、そんな環境でスポイルされた正社員がいま管理職に就いているのです。

 「専門的能力」や「専門的知識」を基準に人を評価することは、本来とても難しいことです。それを活かすにも、評価するにも、同程度の専門性が必要になるからです。ところが、実務から離れたまま管理職になった人に、それができるはずがありません。

 そこで、いくつかの振る舞いが生まれます。

 第一に、自分が専門的な知識や能力を持っていないことの正当化です。たとえば、異動してきた上長が「自分は素人だから、分かるように説明するのは君の責任だ」と言うような場面です。本来は部下の教育は上司の役割ですから、その意味ではこんなことを言う人は上司として機能していません。

 第二に、自分にできないことを、部下にやらせないことです。「仕事は誰でもできるようにしておいてほしい」と言いながら、自ら学ぼうともせず、育成もしません。その結果、最も能力の低い人や意欲の低い人に合わせて仕事の水準が決まってしまいます。

 そして最後に登場するのが、「コミュニケーション能力」です。しかもそれは、真の意味での対話力ではなく、上長にとって居心地のよい空気をつくれるかどうか、という基準です。これなら、専門性を持たない上長でも評価ができます。

 こうして重用されるのは、能力や意欲よりも、その場の空気に適応する「お調子者」です。その人たちが管理職となり、同じ基準で人を評価していく。いったんこの構造が出来上がると、組織を立て直すことは極めて困難になります。

 昨日述べた「コミュニケーション能力」偏重と同じように、「専門性」が活かされない、あるいは報われないという状況もまた、特定の会社に限った問題ではないように思われます。