2024/06/20

一隅を照らす

  島根県隠岐郡海士町の図書館であった青木真兵さんのトークイベントの雑感です。

 その前に、このブログで吐露してきたことのおさらいなのですが、自分としては、Cafe & Library を、現代社会の問題を解決する場にしたい、ぐらいの意気込みはあるのですが、根底には、そもそも現代社会の縮図ともいえるいまの会社の人間関係に辟易していて、定年でやっとそこから解放されるという思いがあって、それなら、まず、自分にとって居心地のいい空間を作ることが第一で、何かカフェとしての収支を考えて、望んでもいないような(例えばインスタでバズるとか)ことのために力を注ぎたくはなくて、そうやって作った場所が誰かに受け入れられるのならそれでいいし、受け入れられなくても別にいい、なんてことを考えているのです。

 こういうことは、常識的に考えると、なかなか理解しがたいことだと思います。商売をする気がない。現実社会から逃避している。そんなふうに言われても仕方がないかもしれません。本当は現実社会から逃げているのではなく、現実社会から飛び出して新しい世界を創ろうとしているのですが。

 青木さんも同じようなことを仰っていました。「東吉野村のためにやっているのではなくて、人類のためにやっている」と、まあ、すごく大きく出ました。この方ならそれぐらい言ってもいいんですけど、その勇ましさと、「兵庫県の街での生活で体調を崩し、ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込んだ」(青木真兵, 海青子. 2019.『彼岸の図書館』P.6)というギャップをどう埋めるのか。

 本来そんなことは、他人が自分のことをどう思うか、ということに属することで、たいして重要な問題ではないのですが、いろいろな事情から、私にとってはややシビアな問題なのです。わかってくれる人だけわかってくれればいいということでは済まされない。Cafe & Library 構想の成否にかかわる問題なのです。

 と、そんな話を青木さんや島に移住されてこられた方に振っても答えが出る訳でもなく、それで苦し紛れに出てきたのが、標題の「一隅を照らす」。私が住む滋賀県大津市にある比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の重要な教義でです。

一隅(いちぐう)とは、今、あなたがいる、その場所です。あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして照らしてください。あなたが光れば、あなたのお隣も光ります。町や社会が光ります。小さな光が集まって、日本を、世界を、やがて地球を照らします。

あなたの一隅から世界を照らしましょう!一人ひとりが輝きあい、手をつなぐことができれば、みんなが幸せになり、すばらしい世界が生まれます。

天台宗 一隅を照らす運動ホームページ https://ichigu.net/digest/ 2024/6/19アクセス

という意味だそうです。そうそう。これぐらいだったら私にも言えるかも。「人類のためにやっている」なんてことは言えないまでも、自分の周りだけならなんとかなりそうです。まずは自分自身がぼんやり弱い光であっても出せるような場所を作り、その場所に集まってきてくださった方をぼんやり弱い光で照らす。いや、それでいいんですよ。別に革命を起こすわけではないので。

 明日は、青木さんの「土着」思考を語ろうと思います。



2024/06/19

自分探しの旅

  そんな青臭いことを言う歳でもないのですが、自分が何をしたいのかを確かめるために、島根県隠岐郡海士町への旅に出掛けました。

 このブログで何度かご紹介している海士町は、私が私設図書館を作ろうと考えたきっかけを与えてくれた島です。毎年秋に開催される「図書館総合展」で、かつてこの島の「島まるごと図書館」が Library of the Year に選ばれ、当時、図書館の職員をしていた私が興味を持ってこの島を訪れ、個人のご自宅を町の図書館の分館として開放されておられる方に巡り合い、そこから、いつか自分もこんな図書館を作りたい、と考えるようになったのです。この島のことは、つい先日、NHKの有名番組でも取り上げられたのですが、あの番組のストーリーなんかでは説明できない魅力を持っている島なのです。ただ、その魅力が何なのか、当時の自分には理解しきれてはいませんでした。

 定年が近づき、定年後の生活が現実味を帯びてくる中で、転職サイトへの登録などをして、本格的に再就職のことを考えるようになったのですが、どうもしっくりこない。そこで、そうだ、いつか作ろうと思っていた私設図書館を、いま作ろう、と Cafe & Library 構想が始まり、カフェ学校の説明会にも行ったのですが、それも何かが違っていて、とても「しんどい」状態になり、これも何度かこのブログで「彼岸の図書館」として紹介している奈良県の私設図書館を訪ねて、そこで少し展望が開けてきたので、このブログを始めた。←いまここ。というのがこれまでの展開でした。

 さてさて、彼岸の図書館のFacebookをフォローしていると、そこを運営されている青木真兵さんという方が、海士町でトークイベントをされるという記事を見つけました。これは自分にとっては通過儀礼のようなものかもしれない。そう思って、宿をとり、フェリーの予約をし、有給休暇を1日取って、はるばるこの島に渡りました。3年前にお世話になった図書館の館長さんとも、彼岸の図書館を運営されている青木さんとも、イベントに参加された方とも親しくお話をさせていただいたり、あるいは励ましていただいたりして、元気をいただきました。

 金曜日の仕事が終わってから、高速道路を5時間走り、港の手前で1泊。翌朝フェリーにクルマを積んで、お昼を少し回ったところで島に到着。港近くの食堂で昼食をとると、レジのところにトークイベントのフライヤがある。店員さんに「これ聞きに来たんです」というと、「私も聞きに行きます」とのこと。図書館の分館にもなっている島の交流施設で本を読んでいると、館長さんが青木さんをアテンドされて見学に。先にここにおられた方に声を掛けておらるのですが、どうやらその方も今日のイベントに参加される方のよう。行く先々で参加者に合いますね、などと仰っておられる。

 初夏の長い日が傾くころに図書館に行くと、次々と参加者が集まってこられる。その数ざっと40人。人口2,000人の島だから、島の人口の2%が集まってきている。人口30万人の大津市に例えたら6千人に相当する人数。びわ湖ホールにも入りきりません。これはすごい。これだけでも、図書館がこの島でどれだけ重要な位置づけかが分かります。

 トークイベントでも話題になったのですが、この島は、島全体がアジール。資本主義の価値観や東京の基準では測れないもので動いているのではないか。それも、もしかすると、島の中でも移住者のコミュニティに限られているのかも知れませんが、移住された方が、何か経済的な成功を夢見てやってくるわけではないように思えるのです。そこが「彼岸の図書館」にも、あるいは自分がやろうとしている Cafe & Library にも共通しているのではないか。そういう意味で、この島で青木さんの話を聞くというのは、自分にとってとても意義があると思うのです。

 青木さんのお話を聞いたり、青木さんの書いた本を読んでいると、自分がなんとなく思っているのだけれどうまく言葉にできないことが言語化されて言い当てられている。きっとここに集まっている人たちの中にそう思っているは大勢いそうなのです。こんなふうに考えるのは自分だけではない。自分が住んでいる街からほぼ1日かけて行った先には、自分と同じように考えている人がこんなに大勢おられる。そんな実感を得られたイベントでした。

 今日から何回かにわけて、海士町のことやら、青木さんのトークイベントのことなんかを書き綴ろうと思います。




2024/06/09

承認欲求 再考

阿比留久美. 2022. 『孤独と居場所の社会学. なんでもない"わたし"で生きるには』. 大和書房.

 先日、彼岸の図書館に行ったときに、たまたま座ったソファーの前のテーブルに置かれていた本です。この本を手掛かりに、あるいは、この本との出会いを手掛かりに、もういちど承認欲求について考えてみようと思います。

 以前の記事で、こんなことを書きました。

この Cafe & Library を利用する人の視点で、その人たちの承認欲求をどう満たしてあげられるのかという視点。でも、これは出来ません。なにせ「脱・コミュニケーション」を掲げているのですから。コミュニケーションなしに承認欲求が満たされることは考えにくい。もしかすると、その空間の雰囲気で「自分が受け入れられている」という印象を得て、そのことによって承認欲求が満たされることがあるかもしれません。

これを蒸し返して、もういちど考えてみます。冒頭に紹介した本のタイトルにもなっている「居場所」という概念は、私が作ろうとしている Cafe & Library のコンセプトにとても近い。「居場所」というのは、自分が承認される「場」だとか「関係」だとか「活動」なんかのことでしょう。それじゃ「自分が承認される」とはどういう状態なのか。究極的には、自分の価値観や考えが受け入れられるということだと思うのですが、その手前にはいくつものハードルがあります。まず、自分の話を聞いてもらわないといけません。そのためには自分に関心を持ってもらわないといけない。相手がいくら自分に関心を持ってくれていても、いざ自分の考えを言おうとするとうまく表現できなかったり、うまく伝えられなかったりします。そもそも自分の考えていることを言語化することはとても難しい。そんなことが出来る人、そんなことが出来る場面は、ごく限られていると思うのです。多くの場合、自分がどうしてこんなモヤモヤした気持ちでいるのか、なぜ最近こんなにイライラするのかというようなことは、自分でもわからなかったりします。いや、「モヤモヤ」「イライラ」「理不尽」「孤独」「疎外」などという言葉ですんなりと説明ができるような場面なんてないのかも知れない。親しい人に対して「あの人は私のことを理解してくれない」などと独白した経験は誰もが持っていると思うのですが、そのときの自分の気持ちを自分で理解できているかと言えば、それはどうなのでしょうか。

 彼岸の図書館で自分が受け入れられているように思えたのは、そこにある本が自分の考えていることを代弁してくれているように思えたからかもしれません。それは承認欲求を満たすための最初のハードルかもしれない。冒頭の本と出合った日も、テーブルの上に「私が読むべき本」としてこれが置かれていました。テーブルの上でなくても、書架を注意深く探せば、自分の考えていることを代弁してくれる本はたくさん見つかると思います

あなたが考えていることはこんなことではないですか。

まるでそう語り掛けてくるようにです。それは本の著者や、その本を私のために用意してくれている司書との間接的なコミュニケーションだと思うのです。自分の持っている本を公開するのは、自分の価値観や考え方を公にするのと同じです。それを見て、「自分もそう思う」とか「この人はこう思うのか」といった感想を持つことは、もはやコミュニケーションの始まり。その本を手に取って読むとなると、さらに深いコミュニケーションだと思うのです。そしていくつかのハードルがクリアされて、そこに承認欲求が満たされた思いが生じることで、そこが自分の居場所となる。

 こういう蔵書構築は、公共図書館ではなかなか出来ません。司書が自分の考えや価値観で選書するのは御法度です。でも私設図書館なら、こういう可能性が拡がると思うのです。彼岸の図書館には、運営されておられるご夫婦が手に取られた本ばかりが並べられています。中立性とか網羅性とか、そういうことは二の次。いやむしろそんなものはない方がいい。偏りがあるからこそ特徴的な蔵書を構築することが出来る。運営されておられる方の価値観や考え方を色濃く反映したコレクションになる。これが私設図書館の魅力だと思うのです。