2024/02/28

家族への告白

 私設図書館を作りたいという、ささやかなのか、遠大なのかよくわからない妄想を実現していくために、最初に越えなければならないのは、妻の理解を得ることです。自宅でするというのでなくても、どこか場所を借りるとなれば家賃を払わないといけません。改装費そのた開業資金も必要です。わが家では、おカネのことは妻に任せっぱなしでしたから、私の自由になるおカネは月々のわずかな小遣いだけ。とてもカフェを開業することはできません。おカネのことを脇に置いても、いまの会社を辞めて(定年なのだから辞めさせられるのですが)他の仕事を始めようというのですから、妻に黙ってするわけにはいきません。

 それで、妻に話す前に娘に話してみました。私の勤める大学のオープンキャンパスで学生が下を向いて話していたからという理由で別の大学に進学した娘です。

私 : お父さん、定年なったらカフェしようかなって思ってんねん

娘 : いいやん!

この一言がどれほど背中を押してくれたことか。いつか自分も娘の背中もこうして押してやりたいものです。

  • 1日の売り上げをこれぐらいにしたら粗利はこれだけ、家賃と水光熱費を払ったら…
  • 来店数がこれぐらいとしたら、客単価はこれぐらい必要だから、それを取れるメニューとしては…
  • パンでも売ったらある程度の売り上げは作れるけど、設備投資がたいへんだし…

さすが商学部。そういえば、高校の推薦状をもらうときの志望理由書に、いろんな商売をしている人を支えられるような人になりたい、などという趣旨のことを書いていたなぁ、なんてことも思い出します。まさか自分が支えてもらえるとは思ってもいませんでしたけれど、こんな話をしていること自体が支えになっていると実感。そしていよいよ本題です。

私 : お母さん、どう言うかなぁ

娘 : お母さん、カフェ作りの本、持ってたでぇ

妻がどういう動機でそんな本を手にしたのかは推し量れませんが、カフェのオーナーという選択肢が妻の中にあったということのようです。それなら、頭ごなしに「ダメ」というわけでもないかもしれません。

 娘に背中を押してもらった私は、妻の機嫌がいいときを見計らい…、と言いたいのですが、やはり私はコミュ障なのでしょう。そうやって妻の顔色を窺うことがいつも上手く出来ないのですが、とにかく意を決して「Cafe & Library」構想について、妻に話しました。本がいっぱい並んでいるお気に入りのカフェの話、転職サイトの話、娘とした損益計算の話、聞きかじり(というかネットで調べた)開業資金の話などです。妻は

まぁええやん。

という反応。もっと否定的な反応も覚悟していたので、これはまずは上首尾にいったと言えます。

 家族に話したことで、いっきに現実味が増してきました。ただ、自宅を図書館にするのとはわけが違って、考えなければいけないことは本当に多岐に渡ります。いったい何から片付けていけばいいのか。ここまでいろいろ考えてはいるのですが、まだ、構想実現に向けた出発点にすら立てていないような状況なのです。




岩崎夏海. 2015. 『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら. 新潮社.

商学部ってどんなことを学ぶのか?
高校生に訊かれたらこの本を紹介するのが良いかもしれません。商売をする=店や工場を経営する=マネジメントする とはどういうことなのかを、とても身近な題材をもとに分かりやすく示していると思いますし、経営学に興味や関心を持つ入口として、とてもいい本だと思います。娘が大学進学を考えているときにも勧めたのですが、たぶん読んでいないだろうなあ。でも、商学部に通ってちゃんと勉強しているようだからいいのですが。

2024/02/27

お気に入りのカフェ

  こうして自分のカフェを作ろう、いや、自分が作ろうとしている図書館をカフェにしよう、いや、カフェを作ってそこで図書館をやろう、いやその辺りはまだどの言い方がいちばん自分の思いに近いのか、まだはっきりしないのですが、とにかくそんなことを考えたときにモデルになったカフェがあります。

 そこは、100万都市・京都のどまんなか。とはいっても高層ビルはなく、古い民家や商店に比較的小さなマンションや雑居ビルなどが立ち並ぶ地域。そのカフェは、そんな地域にある古い雑居ビルの2階に、人知れず営業している店です。「人知れず」などというと失礼かもしれませんが、どうやら、マスターの方針がそうらしいのです。目立った看板もなく、クルマがすれ違うことが出来ない狭い通りから、暗い階段を2階に上がり、本当に入ってもいいのかと思うような鉄扉に小さな看板というか掲示のようなものがあって、会員様以外はお断り、みたいなことが書いてあるのです。

 私が初めて行ったときは、会員云々という看板はなくて、そのあと2度ばかり訪れたことがあります。2~3ヶ月ぐらいは間があいていたと思います。そして何度目に行くとそんなことが書いてあったのです。「えい、まあ、入ってみよう」と扉を開けて、「会員じゃないですけど、今日、会員になれますか」と告げると、マスターは私のことを覚えてくださっている様子で、「もちろんです」と仰ってくださる。誤解されると困るので断っておきますが、前に訪ねたときになにかトラブルを起こしたとか、変な人だと印象に残るようなことをしたわけではありません。それなら、会員になることをやんわりと断られていたかもしれませんから。

 お店の中では、マスターがオーダーを取る小さな声と、空調やコーヒーミルの音のほかには、ほとんど音がありません。BGMは小さく流れていますが、ときどき外を通るクルマの音や自転車の鈴の音が聞こえてくるような、静かな店内です。席は窓に向かってカウンター形式になっており、そのカウンターに、おそらく1千冊を超えるぐらいの文庫本やそのほかの本が並べられているのです。書架(図書館員は「本棚」のことを「書架」というのですが)があるわけではなく、たまたま座った席の前にある本に手を伸ばして読む。そういう趣向なのです。自分の本を読むときもあるのですが、たいていは目の前にある本を手に取って、パラパラと数ページを読み、気に入った本があれば表紙の写真を撮って、あとで大学の書店で注文する、というような感じで、ひととき、読書に身を投じるんです。私は図書館員のくせにコレクター志向が強く、気に入った本があったら自分のものにしたい、という意思が先に出てしまうので、つい買ってしまうのですが、言ったら貸してもらえるのかもしれません。

 そんな静かな時間が流れる店内で、コーヒーとサンドウィッチだけで(というかそれ以外にあまりメニューがないのですが)ときには2~3時間もいることがあるます。そんなに長い時間いると本当は迷惑なんじゃないかなと、こっちが気を遣うほどマスターは物静かな方です。そしてマスターは、どのお客さんのこともよく覚えておられて、レジのときに二言三言、言葉を交わされています。これは私にはない才能だと思います。マスターに顔を覚えてもらっていると思うと、誰しもまた行きたくなります。

 あぁこんなカフェを作りたい。

 自分はカフェについてはまったくの素人なんですが、本の並べ方ならいろいろ思うところもあります。自分ならこんなふうに並べるかな、とか、また妄想ばかりが拡がっていきます。






サマセット・モーム [著],  厨川圭子 訳. 2009. 『月と六ペンス. 角川書店.

仕事にも家庭にも、何の不満もない男が、すべてを捨てて画家になるのだが、周囲には何も告げずに、突然、失踪するようにパリに旅立ってしまうので、周囲は、浮気ではないかなどと考えて彼を探す。画商から画家になったゴーギャンをモデルにしていると言われる。この小説の主人公は株取引の仕事をしているのだが、画家とはかなり縁遠い仕事だ。もしかすると、画商をしていたころのゴーギャンとっても、画家は、すぐ近くにいながら縁遠い存在だったのかもしれない。

金勘定では測れない幸福。他人からの評価では問うことの出来ない幸福。自分でしか価値を見出すことが出来ない幸福への渇望。そんなことがテーマになっているように思う。この小説が古典として多くの人を魅了するのは、それだけ多くの人が、金勘定と他人の評価の中に生きることに息苦しさを感じているということなのかもしれません。

2024/02/26

読書とコミュニケーション

  「脱・コミュニケーション」をひとつのコンセプトとしながら、私は、この「Cafe & Library」を利用する方が、自分のペースでコミュニケーションを取り戻すことも願っています。「De-Communication」の先に「Re-Communication」を目指そうという人に、その切っ掛けを作ってほしいと思うのです。私自身がそうしたいと思っているから。

 だけど、それはけっして他人から強いられるものであってはいけません。私も、利用者にコミュニケーションを強いることはしないようにしたい。私から利用者に積極的に話しかけたり、何かを教えてあげようとか、紹介しようとか、そういうお節介はできるだけやめようと思うのです。

 唯一のお節介は本を並べること。

 私の図書館の本は、すべて私がこれまでの人生の中で一度は手に取った本です。ほとんどが読んだことのある本です。だからすべてがお勧めなのです。本を並べているだけで、すでに私からの情報は発信されています。

 コミュニケーションというと、1対1で情報が相互に発信されあう双方向のものを想像しがちです。直接会って会話することとか、メールやLINEのやりとり、古くは文通や交換日記など、どれも常に特定の相手がいて、相手の反応を気にしながら情報を発信します。けれど、大勢の前でお話をして相手を惹きつけたり、相手との間に信頼関係を構築したりすることも、コミュニケーションのひとつだと言えます。世間にはユーチューバーと言われる、情報発信能力に極めて長けた人もいます。この人たちの情報発信もコミュニケーションのひとつの形態でしょう。そして、その話を聞いて理解するとか、その動画を見て楽しんだり知見を拡げたりすることも、コミュニケーションの一部だと思うのです。

 そう考えてみれば、読書だってコミュニケーションじゃないかと思うのです。作者が文字として書き記して発信した情報を受け取る。受け取れば自分の中に何かの変化があります。これまで考えていたことが変わる。これまで考えていたことが確信に近付く。これまで考えてもいなかったことに気付く。読書は、読者に様々な変化をもたらしてくれるコミュニケーションだと思うのです。

 そして、この読書には、他のコミュニケーションにはない特徴があります。それは強いられないことです。読者は、誰に強いられるわけでもなく、自分の意志で、そして自分のペースで文字を追うことが出来ます。戻るのも自由。本を閉じて休むのも自由です。現代社会では、こういう落ち着いたコミュニケーションがずいぶん失われているように思います。文通や交換日記は、返事を返さなければいけませんので、その意味では読むことを強いられてはいますが、読むペースは自分の思いのままです。それがメールになると、比較的短期間のうちに返信をすることを強いられます。Lineだと、既読になってすぐに反応がないとコミュニケーションが上手くいかない原因になってしまうこともあります。動画の視聴、テレビやラジオ、映画鑑賞など、どれも情報が相手のペースで送られてきて、その情報を相手のペースに合わせて吸収し分析し解釈していかないといけません。

 けれど、本だけはそうじゃないのです。

 本を通じて情報を発信しているのは、その本の作者だけではありません。私の図書館では、本を並べることが私の情報発信なのですから、私の図書館に並べられた本を手に取ってくださるだけで、あるいは、私がかつて手にしたその本に関心を持ってくださるだけで、私から発信された情報はその方に受け入れられたと言えます。それで無理に感想を求めたりはしません。それだけで十分なのです。さらに言えば「Cafe & Library」という空間だとか、そこで過ごす時間が私の発信している情報なのですから、そこを訪れていただくだけでも、私が発信した情報が受け入れられたことになります。

 図書館やカフェをコミュニケーションの新しい拠点のように語る方もおられます。それはそれで立派な考え方だとは思うのですが、私の「Cafe & Library」にできることは、そんな積極的な意味でのコミュニケーションではありません。ただ本を並べるだけ。私にできることなんて、せいぜいこんなとことです。それよりも、まず、ここに来る方が、抱え込んでいる煩わしいコミュニケーションから解放されて、読書という新しいコミュニケーションの中に逃げ込める場所を作りたい。私の本でなくても、自分で持ってきた本でもいい。そういう場所を作りたいのです。ここでは友達の顔色を窺わなくても構わない。多数派におもねることも、権力を持つ人にすり寄る必要もない。本の中に逃げ込んでしまえば、誰もあなたを追いかけては来ません。そういう場所にしたいのです。




佐藤友則, 島田潤一郎 著. 2022. 『本屋で待つ. 夏葉社.

「ウィー東城店も同じで、本のほかに、文房具、タバコ、化粧品、CDを取り扱っているが、主軸は本だ。…本がもっとも信頼される商品だからだ。…本は人々の生活に根づき読む人にいろんなことを教えた。…問う人がいればだれかがその問いにこたえた。本への信頼とは、つまり、そういう多種多様な問答の積み重ねによって築き上げられたもので、一朝一夕にできあがったものではない。学者や、作家や、マンガ家といった人たちが、長い時間をかけて、その信頼を築いたのだ。毎日レジに立っていると、そうした本への信頼をひしひしと感じる。」(pp.64-65)

これは図書館の目指すところと同じ。図書館情報学では、司書に「指導的立場」を求めるのですが、この本を著した本屋の店員さんがしていることは、もっと泥臭くてベタな感じがします。「教えてあげよう」なんていう立場ではなく、ただ頼まれたから断れなくて仕方なくするという感じ。ここに紹介されているのは、けっして「脱・コミュニケーション」ではないのですが、でも、本の可能性について語られていることはごもっとも。これがいいです。

2024/02/25

脱・コミュニケーション

 たまたまこれを書いているのが入学試験の季節だということもあって、入学試験の裏側の話を二つほど紹介しました。

 アルバイトで雇用した人に対して、仕事の意義や目的を説明して、関心や興味を持ってもらい、意欲的に仕事ができるようなガイダンスをする能力も、私は立派なコミュニケーション能力だと思うのです。こんなガイダンスができるという私の優れたコミュニケーション能力は、入学試験の安定的な実施に貢献していますし、受験生が安心して受験に集中できる環境を提供することにも貢献しています。けっして高くはない賃金で雇われているアルバイトの人が仕事に意欲的に取り組んでくれることにも貢献しています。設営作業にやってきたアルバイトの方が高齢の男性であっても、私ならきちんと説明して、間違いのないように仕事をしてもらえます。そんなことの出来ない他の職員から、あいつはコミュニケーション能力がない、と言われて、自分でも「オレ、コミュ障だからなぁ」と自虐しなければならないような立場に追い込まれなければならない理由はないはずなんです。

 こんな経験から私は考えました。現代社会におけるコミュニケーション能力とは、ものすごく単純に言えば「つるむ能力」と言えるのではないかと。仲間を増やす能力と言えば正しいようにも聞こえますが、むしろ、すでにつるんでいる人たちの仲間に入れてもらう能力、という方がより正しいように思えます。人から好かれる能力というのも半分は正しいのかもしれませんが、好かれる相手は立場の強い人でないといけません。いくら立場の弱い人のことを考えていろいろ気を遣っても「コミュニケーション能力が高い」と評価されることは滅多にありません。ましてや正しいことを主張するなんてことをしたら、たちまち嫌われて「コミュ障」のレッテルを貼られてしまいます。現代社会ではコミュニケーションが複雑化していて、それがストレスになっている、などということが言われますが、こう考えていくと、コミュニケーションは「複雑化している」のではなく「歪んでいる」といえます。私は、現代社会以外の社会を知りませんので、もしかすろと古代や中世においても、コミュニケーションとはこういうものだったのかもしれません。ただ、これを「歪んでいる」といわれると都合のわるい人が、いつの社会でもどの組織でも、多数派であったり、権力を持つ中心であったりするわけですから、「複雑化」などというオブラートに包んだ言い方をしているだけなんではないでしょうか。

 私たちは、幼い頃から、「お友達をたくさん作りましょう」とか「お友達を大切にしましょう」などと躾けられてきました。友達が少ないのを不幸だと考えて生きてきました。友達とうまくコミュニケーションが出来ないことを「障害」として捉えるような社会を作ってきました。単純にお友達を増やすなら、既存の派閥に「つるむ」ことは効率的です。自分が独自に派閥を作って、そこで自分を主張し、そこに友達を引き入れていくのは、非効率なだけではなく、既存の社会や組織にとってはリスクであり「和を乱す」行為として激しく排除されることだってあります。多数派に「つるむ」ことは、自分が生きるために必要な資源の分配をより有利にするための必須の条件です。誰もが本能的にこれをやっています。それが出来ないのは「障害」あるいは精神的な「病気」なのです。普通ではないのです。

 でも、本当にそうでしょうか。
 そうまでしてつるまないといけないのでしょうか。
 つるまない生き方というのはないのでしょうか。

 こういう煩わしいコミュニケーションから解放される「脱・コミュニケーション」は、私が考えている「Cafe & Library」の重要なコンセプトになると思います。カフェや図書館をコミュニケーションの場として捉えることを否定するわけではないのですが、そこに無理にコミュニケーションを持ち込んでくるのではなく、まず「既存のコミュニケーションから解放されたい」と思う人に、誰からもコミュニケーションを強いられることのない時間と空間を提供するのが、この「Cafe & Library」だと私は思っているのです。




松本卓也 著. 2019. 『心の病気ってなんだろう? 平凡社.

著者の「過剰なコミュ社会 あえて「自閉」を」と題する新聞投稿(2022.2.25朝日新聞)を読んで興味を持って手にした本です。過剰なコミュニケーションが求められる社会で、自分を守るためにあえて自閉することを是とする内容です。心の病気で生じる障害を、その人の問題として捉えるのではなく、その人が受け入れられる社会ではないという社会の側の障害として捉える姿勢が貫かれています。心の病気を持つ人の悩みや、その人が置かれるであろう難しい状況にについて、首肯することの多い本でした。

2024/02/23

入試のアルバイト

 オープンキャンパスで高校生に話を聞かせる学生がみんな下を向いて話していたという娘の話を聞いて、思いたる節がありました。

 私が務めているのは大手の私立大学ですから、全国各地で入学試験を実施します。その時期になると、職員は順番に借り出され、通常の業務を離れて入学試験のための業務に携わります。

 入学試験を実施するということは、会場を設営したり、問題を運び込んだり、試験監督をしたり、答案を整理して採点会場に送り届けたりと、いろんな仕事をしなければなりません。全国で実施するとなれば、同時に千人以上の要員が動員されます。職員だけで足りないところは、昔は試験地近くに帰省している自大学の学生に声を掛けて手伝ってもらったりしていたのですが、いまは派遣会社を使って、自大学とは縁もゆかりもない人を雇い、設営だとか、受験生の誘導だとかといった間接的な仕事をしてもらっています。

 こうしたスタッフに対するガイダンスの指針が入学センターとい部局から示されるのですが、服装、持ち物、勤務中の携帯電話の扱いなどということがこと細かく書かれいるのです。書かれている内容は「暖かくて動きやすく清潔感がある服装」といった、細かいわりにどうすればいいのかよく分からない内容なのですが。ほかに「受験生から何か質問されたら必ず担当の職員に伝えて指示通りに回答してください」などと言ったことが書かれていて、私に言わせれば「決められたことだけを決められたとおりにやって、余計なことはするな」というような内容です。入学試験は、全国20か所以上で行いますので、少なくとも20人以上の職員が、私が務める大学とは何の縁もないアルバイトを相手に、こんな指針に基づいてガイダンスをしているのです。失敗したらマスコミネタになって大変だから気を付けるように、などという説明をしている職員もいるようなのですが、アルバイトで雇われる方にとっては知ったことではありません。

 入学試験の会場で受験生がスタッフに何かを質問するのは、ただ分からないことがあるからではなくて、その背景に何か不安があるはずです。スタッフの仕事は、ただ聞かれたことに正しく答えるということではなくて、受験生のその不安を取り除いてあげて、受験に全力で専念できるようにしてあげることだと思うのです。そういう説明をすれば、アルバイトの人だって、自分がどんな服装で来てどんな態度でいればよいのか、しっかり考えてくれるはずです。

 入学試験もオープンキャンパスも、入学センターという部局が中心になって運営します。そこで動員される派遣のアルバイトや現役の学生に対する説明が、言われたことだけを言われたとおりにしてくれていたらいい、という内向きな指向になっていたとすれば、演台で説明する学生が下を向いて話しているのも道理です。もっと言わせてもらうなら、余計なことをせずに言われたことだけを言われたとおりにせよ、という姿勢は、学生スタッフや派遣スタッフだけに向けられているのではなく、私たち現場の職員にも向けられているのではないか。そうだとすれば、再雇用された人が大切に扱われていないように思えるのも道理に適っています。

 入学試験の準備と言えばこんなこともありました。派遣会社が送ってくるアルバイトは、試験を実施する町の大学に通う大学生の場合が多いのですが、ある年、派遣会社が集めてくれたアルバイトの人の中に高齢の方がおられました。腰を痛めておられるのか、階段の昇り降りなどはちょっとたいへんといった感じの方でした。受験生が全力で受験に専念できる雰囲気を作る、という意味では、こういう方がおられるのも有難いことです。受験生へ案内する内容によっては、高齢の方から伝えていただく方が効果的だったり、よりソフトに伝えられたりすることもあります。ただ、会場の設営となると、会場と控室の間を何度も往復したりしないといけませんのでご負担かもしれません。それで、その方には、試験進行本部での準備を手伝っていただくことにしました。

 ところが、10分ほどするとその方が私のもとにやってきました。その方が言うには、本部の準備で間違われては困るので、私から「間違ってもいい仕事」をもらって来いと、本部担当の職員から言われたというのです。私は言いようもなく腹が立ちました。その方に対してではなく、「間違ってもいい仕事」をもらって来いといった職員に対してです。実際、その方は書類の書き方を間違われたようなのですが、そんなことは関係ありません。大学からやってきた職員が、その方にきっちりと説明して、その方がちゃんと理解したかを確かめて、その上で作業をしていただいて、間違いがないように気を付けなければいけないのです。それをせずに、間違いの原因を一方的にそのアルバイトの方に押し付けることは許されません。試験進行本部には、大学から現地入りした3人の職員がいました。それを言ったのはその3人のうちの1人ですが、残りの2人もその場に居合わせてフォローしていないのだから同罪です。

 私は、3人の中から犯人を探し出して喧嘩口調で捻じ伏せてやりたいのをじっと我慢して、精一杯の「大人の対応」を心掛けたのですが、3人の行動はどんどんエスカレートしていきます。誰かが、派遣会社にクレームを入れた方がいいと言ったようで、3人のうちのリーダーが、派遣会社の担当者に、入試の業務だとわかっているのにこんな高齢者を寄越してくるとはどういうことだ、といった叱責をしているのが聞こえてきました。私に対しても「あんな人を押し付けられてたいへんでしょう」と同意を求めてきます。コミュニケーション能力のある職員ならば、そういうときは曖昧な態度をとるという「大人の対応」が出来るのでしょうけれど、正直な私は、「いえ、そんなことはありません」と言葉を濁さずに返事をしました。相手は困った表情をしていました。たぶん私は相手を睨みつけていたのでしょう。

 そういえば、最近、私もときどき腰痛に悩まされます。もうこの会社では「間違ってもいい仕事」だけを言われた通りにするしかないのかもしれません。




村田沙耶香. 2018. 『コンビニ人間. 文藝春秋.

人とのコミュニケーションが上手くできない主人公が、コミュニケーションを極限まで単純化したコンビニエンスストアに生き場を見出す。仕事は複雑なように見えても、アルバイトだけで回せるように標準化されていて、決められたことを決められたとおりにすればいいようになっている。店員同士のコミュニケーションも、店員と客とのコミュニケーションも、表面的で儀礼的なものばかり。…だったはずなのだが、あるところから主人公を取り巻くコミュニケーションがいっきに複雑化する。


2024/02/22

下を向く学生

 私は大学の職員ですが、自分の娘を自分の大学に進学させたいとは、小指の爪の先ほども思ったことがありません。私自身に、自分が会社から大切に扱われているという実感が乏しいのと、この大学が学生を大切にしているかという点について大きな疑問があったからです。スポーツ競技で優秀な成績を収めるとか、何か社会的なアピールになるような取り組みをするとか、有名企業に就職するとか、そういう方向に学生を導こうとする。それは学生本人にとってもかけがえのない経験になりますから、一見、学生を大切にしているように見えますが、そのうらに、学生がそうやって活躍するところを社会的にアピールすることによって大学のステータスを高めたいという魂胆があるとすれば、学生という「人間」を大学という「組織」の道具にしているに過ぎません。

 とはいうものの、当世の大学ではどこでも大なり小なり同じようなことがあるのかもしれません。ですから、高校生だった娘が、自分の意志で私の勤める大学に進学したいというのであれば、それを止めることはしません。「へぇーそうなの」と聞き流していました。ところが、いくつかの大学のオープンキャンパスに行ってきた娘は、やっぱり別の大学にする、と言い出しました。その理由が的を射ていたのです。

 オープンキャンパスというのは、大学が志願者を集めるために、主に高校生を対象に開催する説明会のようなイベントです。そこに行くと、現役の学生たちが自分の大学の素晴らしさを高校生に向けて説明してくれます。娘によれば、その説明のとき、私の勤めている大学の学生は、ほとんど下を見ていたそうです。別の大学では、演台の学生がしっかり高校生たちの方を見て、自信たっぷりに堂々と説明をしていた。自分もあのようになりたい、というのです。学生を、大学のステータスを高めるための道具にすることは、当世の大学ではどこでも同じと思っていましたが、そうではないようです。少なくともその傾向の大小はあるということのようです。

 オープンキャンパスでは、高校生に対していろいろなものを見せます。模擬授業をしてみたり、ご自慢の施設や実験装置を見せたり、立派な教室や図書館を見せたり。高校生の前で説明をする学生も、そうした「見せもの」のひとつと考えているのかもしれません。たとえそう思っていても、だからこそ活き活きと自由に説明してほしいと思っていれば、学生たちが活き活きと説明できるような状況が整えられるはずです。ところが、担当の職員が彼らに対して、決まったことを決まったとおりに説明してくれればいい、などと思っていれば、真面目な彼らはその期待に応えようと必死になって、メモを見ながら間違いのないように一生懸命に説明するでしょう。うちの大学はそうだったのかもしれません。

 わが娘ながら、なかなか鋭いところを見抜いています。




吉見俊哉. 2021. 『大学は何処へ. 未来への設計. 岩波書店.

コロナ前から社会を覆う閉塞感が、大学の閉塞感にもつながっている。日本独自の社会のあり様が日本独自の大学を作ってしまった。「社会に役立つ人材」は生み出せても「社会を変える人材」は生み出せない。

社会で役に立つという能力や知識、技術を効率的に身に付けさせるための仕組みを高度に作り上げた今の大学は、私が大学生だったころとはずいぶん違ったものです。「まるで専門学校みたいだなあ」と思っていたら、どこの大学ももともとは専門学校だった、というのがひとつのオチ。

この本では、コロナ禍のなかで無理やりに進んだオンライン化と、商業的な意味とは異なるグローバル化が、大学を変えていく起点になるかもしれない、といっていますが、はたしてどうなのでしょう。

2024/02/21

コミュ障

  みなさんは「コミュ障」ってご存知ですか。

 「コミュニケーション障害」のことなんですが、もっと軽い意味で使われるときは、社交性に乏しく他人と上手に接することが出来ない人を揶揄する意味で使われることが多いように思います。世の中には、精神医学的に「コミュニケーション障害」だと診断される方もおられます。その方たちが置かれている立場や、その障害によってもたらされるさまざまな不利益を思うと、そんな軽い意味でこの言葉が使われることにはいろいろな問題があると思うのですが、私自身はそのような問題について語れるような知識もありません。ただ、自分は「コミュ障」じゃないかと思う当事者として、この言葉と向き合っていこうと思います。

 人間は、誰かと協力したり、ときには組織や社会を構成しないと生きていくことが出来ません。ロビンソン・クルーソーのようにひとり絶海の孤島に生きていくなどということは不可能です。いや、ロビンソン・クルーソーにしても、島での生活の初期においては、難破した船からさまざまな生活の糧を得ていました。それは、彼が港を出発する前に彼が暮らしていた社会が生み出した産物ですから、ロビンソン・クルーソーとて社会から完全に切り離されているわけではないのです。だから、人間は、生きていくために、自分が存在している社会や組織の中で自分を位置づけていくために、同じ社会や組織にいる他人とコミュニケーションを交わさないといけません。そういう意味では、コミュニケーション能力というのは、人間に、本能的に備わっている能力なのかもしれません。

 しかし、その社会や組織にいる他人が、常に自分に対して好意的に接してくれるとは限りません。社会や組織が大きくなり構造が複雑になれば、その中での生存競争が生まれます。限られた資源を自分に有利に分配しようと画策する人も現れます。コミュニケーションを誤ると、自分が生きていくために必要な資源を同じ社会や組織にいる他の人に奪われてしまう。特殊詐欺なんてその典型ですよね。そこまでではなくても、コミュニケーションが自分の生存にとってのリスクになることも現われてくる。そうなると、それに対する防御本能だって必要なわけですから、活発なコミュニケーションができることが常に望ましいわけでもありません。

 このように、自分の生存に必要なコミュニケーションと、自分にとってリスクとなるようなコミュニケーションを、本能的に峻別して、前者をより活発にしながら、後者を適切に排除していく。現代社会においては、おそらくこんな複雑なコミュニケーションをやっていかないといけません。こんなことが出来る人は、それはすごい能力を持っていると言えますが、それが出来ないからといって即それがその人の欠陥になるものでもないでしょう。立派なコミュニケーション能力を持っている人たちの中で上手く立ち振る舞うことが出来ない人であっても、その人にしか出来ないことが少なからずあるはずです。しかし、コミュニケーション能力がないと、そういった能力を周りに理解してもらえません。
あいつのやっていることはよく分からない
分かってもらおうと丁寧に説明すると
あいつの話は長い
最後には
あいつは役に立たない、
使えない、
価値のないやつだ
などと断じられてしまう。会社に勤めていれば、他の誰もが気付かないような問題に直面することもあります。誰にでも簡単にできるようなアプローチでは解決できない問題だってあります。専門的な知識と能力がなければできないような仕事だってありますし、簡単には説明できないこともあります。説明が分かりにくかったり長かったりするのは、説明をする側の話が下手だからではなくて、話を聞く側の知識や能力、それに話を理解しようとする忍耐力の不足による場合が多いように思います。あるいは、聞き手の問題意識が話し手のそれに追いついていなければ、その話の価値に気付くこともありません。結果として、その話は「役に立たない」話になってしまい、話し手は「役に立たない人間」とされてしまう。果ては「価値のない」人間だと人格までも否定されてしまうのです。

 そうなると、会社の中でのコミュニケーションは、その人を組織の中に位置づけていくための有益なものではなく、その人が組織から排除されるリスクになっていきます。当然、それは煩わしいものになっていきます。

 最近の「優しい会社」では、そういう人に対して、専門的な病院に行って診察や検査を受けさせて、コミュニケーション障害の有無を調べ、「配慮」という名の「排除」をしていくのがトレンドのようです。
あいつの言っていることはよく分からないと思っていたけど、
やっぱりコミュニケーション障害を持っていたのか
聞き手の側の問題は一切なかったことになって、コミュニケーションが上手く出来なかった原因がすべて話し手の側の「コミュニケーション障害」の所為になって一件落着。その人が、他の誰もが持っていない専門的な知識と能力によって解決しようとしていた問題は、最初からなかったことになって、認識すらされない。

 そんなことを考えたときに、この「コミュ障」という、軽い自虐のニュアンスを含んだ言葉はたいへん便利な言葉かもしれません。会社の中でコミュニケーションを上手く取れないことは、当人にとっては深刻な問題ですが、他人が深刻に捉えても問題は深刻になるばかりです。「オレ、コミュ障だからなぁ」なんて言って軽く受け流す。それがコミュニケーション能力のない人が最後にとる行動なのかもしれません。




カズオ・イシグロ 著, 土屋政雄 訳. 2018. 『日の名残り
. 早川書房.

外交会議が行なわれるほどの由緒ある邸宅の執事が主人公。「コミュ障」の私が読めば、この主人公がいわゆる発達障害を抱えているのは明らかなように思えます。しかし、あえてそうした設定にしないことによって、そうした障害とは無縁の人が読んで、自分の中にもその主人公のような部分があるな、と感じながら読んでいくことが出来ます。作者は、この主人公のこれまでの半生をとても丁寧に描き出していきますが、その先の人生には何の救いも与えないで小説は終わります。そこに読者が主人公の人生を考える余韻がある。そして、それを通じて読者自身の人生を考える余韻も残される本だと思います。

2024/02/19

転職サイト

 いつか私設図書館を作りたいと思いつつ、定年後すぐにそうしようとは考えていませんでした。大学を卒業してこの方、会社に勤める以外の仕事をしたことがありません。仕事のない時期もありませんでした。年金をいただけるのは65歳。定年から5年先です。

 いま勤めている会社では、再雇用を希望すれば、定年から5年間は働き続けることが出来ます。現にその制度で再雇用されている人もいます。これまでずいぶんお世話になった方や、この人はすごいな、と思っていた人で、私より一足早く定年を迎えられた方のうち何人かは再雇用の道を進まれました。けれど、そういう方があまり大切に扱われていないように思えるのです。よくできる人に限って、会社からは粗雑に扱われている。本当なら、いろいろと私たちに助言を与えてくださって、みんなから頼られるであろう人ほど、その口を塞がれ、活躍の場が奪われている。まあ、そんなことは世間一般によくあることかもしれませんが、そんな扱いを受けて会社に居残っても、あまり楽しい思いはできそうにありません。

 私の場合、さいわい、子供たちも成人しましたので、もう、子供の教育費のために嫌な仕事をする必要はありません。どこかの大学の図書館の仕事でもあれば…。そんなことを考えたり、いやもう仕事の内容はどうでもよくて、この間は仕事以外のことで充実した人生を過ごそう、などということを考えたり、いろいろ思いを巡らせていました。

 それで、ご多分に漏れず、いわゆる転職サイトに登録して情報を収集することにしました。世間にはいったいどんな仕事があるのか。まずは情報収集です。ところが、それがあまり魅力的には思えないのです。
年収600万円のハイクラス転職
たしかに魅力的な見出しですが、もうそういう世界が嫌なのです。年収2,000万円でも同じでしょう(いや、それだったら1年だけ勤めたかな?)。年収でいうなら、例えば「年収は200万円だけだけれど、こんなに大切な仕事」というような見出しの方が、中身を見てみようという気になったかも知れません。

 転職サイトに登録したことで、自分がいまいる世界が見えてきました。ちょっと偉そうなことをいいますが、その世界にどっぷり入っていると、その世界は見えないんです。いままで何となく、自分にはコミュニケーション能力がないからダメなんだとか、会社という組織を離れて自分で何かするなんて出来っこないんだとか、他人と比べて「こいつには敵わない」とか「こいつよりはましだ」とか、そんなことを考えているのが当たり前の世界にいた。あまりにも当り前だから、自分がそんなふうに考えていることにすら気付かなかったのです。私たちが普段、地球が丸いことやその地球が自転していることに気付かないのと同じかもしれません。

 私たちが住んでいるのは、何もかもが記号化される世界。自分にどんな職歴があるのか、どんな資格を持っていて、どんな能力があるのか、どんな仕事を希望しているのか。すべてが記号として入力される世界。そして、それが究極的には金額という記号で表記される世界。給料の高い仕事こそが価値のある仕事。そういう仕事に就くにはコミュニケーション能力が必要で、それを欠いている人間にはそれだけの価値がない。私たちは無意識にそんなことを考えているのではないだろうか。人格とはまったく別のところで、まるで機械か何かのようにスペックで他人から評価され値踏みされる。そして、いつの間にか、自分も他人のことをそうやって値踏みしている。転職サイトから見ると、いま自分が生きている世界はこんなふうに見えてきたのです。

 その世界から片足だけでも外の世界に踏み出してみよう。Cafe & Library はそんな世界から一歩を踏み出す挑戦なのかもしれません。




辻村深月. 2022. 『傲慢と善良
. 朝日新聞出版.

男女の出会いさえも、記号同士の照合になってしまった現代社会。婚活で知り合ったハイスペックな彼と世間知らずの彼女。主人公たちの傲慢なところも残念なところも、彼らが自己嫌悪に陥るところも、全部が、自分自身に重なる。読んでいて心を抉られる思いがする。主人公の二人が苦しんでいるところは、まるで自分が苦しんでいるようでもある。なぜそんなに苦しまなければならないのかと理不尽に思い、そして自分もその理不尽の一部であるように思える。

2024/02/17

自宅を図書館にするには

 私設図書館を作っておられる方は大勢おられるようです。「私設図書館」「自分図書館」「マイクロライブラリー」などというキーワードで検索すると、たくさんの事例が出てきます。これらの事例を見ている限り、私設図書館を作ること自体は難しいことではなさそうです。自宅に本を並べて、そこを「図書館です」と言ってしまえばそれで完成。どこかに届け出る必要も何もありません。蔵書検索ができるような仕組みを提供してくれるサービスもあるようです。「リブライズ」というサイトを見ると、自分の近くにこんなにたくさんの私設図書館があるんだということがわかって驚きました。

 図書館に限らず、本来はプライベートな空間である自宅をパブリックに開放することを「住み開き」というのだそうです。こちらもネットからいくつかの事例を知ることが出来ます。

 ただ、いざ自分がこれをやっていくにはいろいろ問題があります。

 最大の問題は妻の理解が得られないこと。しかし、これは反対することの方が理に適っていて、私がやろうとしていることに少し無理があるのですから、仕方がありません。自宅というのは、本来はプライベートな空間なのです。そこに不特定の方を招き入れることに抵抗を感じるのは当然です。それに、いくら図書館を自称していても、他人の家に上がり込むことに抵抗を感じる来訪者もいるはずです。手土産はいるのか、などといったことに気を遣う方もおられるでしょうし、館長が変な人だったらどうしよう、なんてことも心配になります。使っていない納屋なんかがあれば、妻の反対を押し切ってでも始められるのですが、そんな都合のいい場所もありません。

 そこで考えました。

 それじゃ、まず何かパブリックな場所を作って、そこに図書館を作ろう。これが「Cafe & Library」構想の始まりです。




青木海青子, 青木真兵. 2019. 『彼岸の図書館. ぼくたちの「移住」のかたち. 夕書房.

奈良県東吉野村で私設図書館を営んでおられるご夫婦の本。ここを訪れたことが、このブログを始めるきっかけになりました。新聞の書評で見つけて、この本を読み、いつか行ってみたいと思っていたのですが、この場所に辿り着くまでには、私の中にまだ紆余曲折があります。もしお付き合いいただけるのでしたら、もう少し私の独り言にお付き合いください。


2024/02/15

はじまりは館長の妄想

 このブログは、定年まであと2年となった初期高齢者が、定年後の生活についてあれこれ妄想するブログです。社会のために役立とうとか、誰かを幸せにしようとか、読んだ方に楽しんでいただこうなどといったことはいっさい考えていませんので、お暇な方だけ読んでいってください。

 ブログのタイトルで「館長」を名乗っているのは、いつか私設図書館を運営したいと思っているからです。私が務めているのは、関西のとある大手私立大学。先生ではなく、事務の仕事をやっています。図書館に勤めたこともあります。

 みなさんの図書館のイメージってどんなものでしょう。本を読んだり借りたりするところ。こんな便利な時代に図書館って必要なの? 最近、有名建築家の設計したアミューズメント施設のような図書館がいろんなところに建っていて、そういうのだったら意味あるかも…。

 わたしの印象もそんなところでした。

 しかし、図書館に配属されて、図書館に詳しい方に図書館を案内されて、とにかくびっくりしました。
わぁ、すげぇ
もう、そういうしかありません。何がすごいのか上手く説明できなかったのですが、とにかく「すごい」と思ったのです。以来、その「すごい」と思ったことをどう言えば学生に伝えられるのか、ということばかりを、ことあるごとに考えていました。

 いろいろな図書館も見学しました。大学の図書館も、町の公共図書館も、ちょっと変わった専門図書館も。どこか知らない街に行って、少し時間が空いたら図書館を探しました。個人で運営されておられる小さな図書館にも興味があって、それがいつか、自分もこんな図書館を運営出来たらなぁ、という妄想に発展していきました。

 このブログは、そんな館長の妄想を、問わず語りにぼそぼそとつぶやくものです。館長は、語りだすといつまでも語り続けてしまう癖があります。ただ安心してください。このブログを読んでいる限りでは、本物の館長につかまっていつまでも話を聞かされることはありません。いつでも好きなときに読むのを止めることができます。途中で休むこともできます。ページを閉じようとしてしつこく広告が表示され続けることもだぶんありません。

 そんなことで、ちょっと興味あるな、と思っていただいた方だけ、しばらく妄想にお付き合いください。



2024.4.22 追記

 ブログを書き始めたころは、自分の考えはある程度はまとまっていて、あとは実行に移すのみだと思っていたのですが、そのときそのときに思うことを書いているうちに、考えは右へ左へと大きく揺れ、ときには、先に書いたことと矛盾したことを書いていたり、先に書いたことで解決したはずのことに再び思い悩んだり、といった、行きつ戻りつを繰り返すばかりになってしまいました。

 それでもいつか Cafe & Library は作りたい。

 そのときに、それまで自分が考えたことを振り返って、「そうだ、あのときこんなことを考えていた」とか「あのときはこんなことがしたかったんだ」といった自分の思索を振り返ることは、もしかするととても大事かもしれません。そのためのブログだと思って、このあとも、そのときそのときに思ったことを書いていこうと思います。

 相変わらず自分本位な動機で書き連ねられているブログなのですが、読んでいただいて、もしどこかに興味を持っていただいて、そして、もし本当に Cafe & Library が出来て、そしてもしその Cafe & Library にお越しになるようなことがあれば、お店の中のいろんなところに、このブログに書き連ねた思索の痕跡が見られるかもしれません。




井上真琴. 2004. 『図書館に訊け!』 筑摩書房.

図書館に勤めてすぐに読んだらよかったと思う本。実際に読んだのは図書館から転出する直前だった。私が務めている大学とは違う大手私立大学の図書館職員が書いた本なのだが、こんなすごい職員がいる大学には敵わない。うちの図書館の職員に1冊ずつ買い与えて、ここに書かれていてうちの大学でできていないことを、ひとりひとつずつ実現すれば、この大学に追いつくだろうか。