2024/09/12

再び此岸と彼岸について

 奈良県東吉野村で私設図書館を運営されている青木真兵さんの著書『手づくりのアジール:「土着の知」が生まれるところ』(青木真兵著. 晶文社, 2021)から(以前の記事から再掲)。

ぼくが「彼岸」という言葉を使っているのは、すべてが数値化の結果を受けて序列化され、それに基づいて価値付けが行われてしまうような現代社会を「此岸」としたときに、そうではない世界としての「彼岸」が必要なのではないかという思いがあったからです。(p.3)

そして、島根県隠岐郡海士町の図書館で拝聴した青木さんの講演では、おカネを得るためにしている仕事と、自分が自分らしくあるための活動のそれぞれを「此岸」と「彼岸」に例えながら、それを行ったり来たりすることを提唱されていました(これも以前の記事で紹介しています)。この「此岸」と「彼岸」という考え方を取り入れることで、「主体性」とか「主体的」という悩ましい問題に、解決の糸口を見いだすことが出来るのではないかと思っています。

 最近の記事で、会社という組織あるいは社会全体に蔓延している似非「主体性」が、良識のある人を苦しめているのではないかということを述べました。役職には就いていなくても、身分と待遇が保証された正社員ならば、立場上は非正規で働く人よりも強い立場にいます。非正規雇用の人たちと同様に立場の弱い業務の委託先や取引先からすれば、正社員は「お客様」ですので、いつも大切にされます。周囲にそういった立場の弱い人がいれば、上司からの指示に含まれている矛盾を、その人たちに転嫁する場合も少なくありません。傍で見ていると、そういう社員は、自分が責任を転嫁していることに気が付いていないのです。しかし、それは責任転嫁だと気づいている人にとっては、自分の良識がそんな責任転嫁を許さないのです。そうやって逡巡していると、上司は平気で「そんなの派遣さんにやってもらったらええんや」などといいます。

 会社というところに勤めていて、そういうことにはほとほと疲れました。定年を迎えたら、もうこんなことで悩みたくない。こんな会社はさっさと辞めて、言われたことを言われた通りにすればいい仕事を黙々とやって僅かなお給料をもらって生活の糧を得る。夢も何もない世界ですが、それこそが私にとっては「此岸」なのです。そこに「やり甲斐」などというものは求めない。自分の労働力を売って、あるいは自分の時間を売って対価を得る。労働力や人格、「やる気」さえも商品として流通する「現代社会」の中でも、売るのは労働力だけ。けっして人格は売らない。そこに「やる気」だとか「やり甲斐」だとかを持ち込まない。ある意味で「此岸」の中にあるユートピアのような世界だと言えます。

 これに対する「彼岸」が Cafe & Library だと思うのです。そこはすべてを「主体的」に考えていかなければいけない世界なのです。似非「主体性」とは違って、答えは自分の中にしかない。その答えを求めて悩み苦しむのだけれど、そこには生きる価値だとか意味だとかがあって、自分が悩み苦しむ必然性があって、そしてそうやって悩み苦しんだことが何かの形で報われるかもしれないという希望がある。そういう「彼岸」の世界があるならば、「此岸」もまた希望のある世界かもしれません。

 カフェの収入で生計を立てるのはどれだけたいへんかは、カフェオーナーの育成を謳う通信教育でもよく分かりました。ひとりで運営する店で1日1万円を売り上げるところまで店を育てていくのに何年かかることか。そして、そこまで育てることが出来ずに廃業する店がどれだけ多いことか。それに、私が本当にやりたいのはカフェではなくて私設図書館なのですから、そもそも儲かるはずがありません。Cafe & Library を週3日開けて、1日はお休みにし、残りの3日間はアルバイトのような仕事に出て、黙々と言われたことだけをやっておカネを稼ぐ。いまや最低賃金でも8時間働けば1万円近い収入になります。けれどその仕事に身を捧げることはしない。本業は私設図書館の館長。副業はカフェのオーナー。アルバイトはカネを稼ぐだけのためにやっている。けれど、収入の大半はアルバイト。カフェも少し収入になるけれど、私設図書館はおカネが出ていくばかり。でもいいじゃないですか。それがやりたいことなんですから。まるで、役者を目指して専門学校に通うためのおカネを稼ぐために、アルバイトに精を出す若者みたいなものです。

 そう思うと、少し気が楽になってきました。いろんな意味で。



2024/09/11

主体的に行動するために

 きのうの記事では、世間でよく言われる「主体性」とか「主体的」ということが、実は「まやかし」ではないのかということを述べましたが、本当の意味での「主体性」とか「主体的」というのは、人間らしく生きていくうえでとても大切なことだと思うのです。いま私が Cafe & Library 構想を実現しようとしていることは、まさに主体的な行動です。誰かから強制されたり、何かに盲従しているわけではありません。衝動的というところは多少あるかもしれませんが、それでも、いままでの人生の中で、いちばん自分の主体性が試されているように思うのです。いまや人生の最終コーナーを駆け抜けようとしているこの段階で、これまでの人生の全体が試されているようなものです。

 人生の前半期には、就職活動という大きな転機がありました。ここでもきっと「主体性」が問われたのだと思いますが、私自身は、就職活動誌の情報に踊らされて、大きな流れの中で就職を決めました。いまの学生さんなら、終活アプリが就職活動を支援してくれますし、恋愛や結婚でさえも、何か決められたレールの上を流されていくように答えが用意されているのかも知れません。「最近の若者は」と言いたいわけではありません。私自身も、大きな流れに盲従して、どこかに用意された答えに安住して生きてきました。人生の最終コーナーも、そうやってレールに乗っかって曲がり切ろうと思ったのです。最初に乗っかろうとしたのは転職サイト、次はカフェ学校でした。でも、どちらも乗り切れない。枠組みそのものに何か違和感がある。それで今日に至る、なのです。

 いま Cafe & Library のことを考えている時間は楽しい。その時間だけは、日ごろの仕事への不満を忘れることが出来ます。それは、その時間が「主体的」に何かに打ち込んでいる時間だからだと思うのです。しかし、本当に主体性を持って主体的に行動するには、自分が意思を持ち判断を下せるだけの知識や能力も必要です。そうした知識や能力に裏打ちされた信念を持って、周囲の人たちを動かし、その理解も得ていかなければいけません。どうすればその Cafe & Library 構想を実現させれるのか。先が見通せないのは不安ですし、苦しく思うときもあります。何をいまさらと思われるかもしれませんが、そういう悩みに年齢は関係ないと思うのです。

 

 


2024/09/10

強いられた主体性

 私たちは、子供の頃から「主体的」に生きることを強いられてきました。小学校の学芸会でクラスの出し物を決めるときもそうでしたし、クラブ活動もそうでした。きのうの記事では、立場の強い人が立場の弱い人の仕事を理解しないまま、仕事の指示を出したり、日々の仕事で生じる問題を解決していく責任を立場の弱い人に転嫁しているという話をしましたが、立場の弱い人からその矛盾を突かれたときの常套手段に用いられるのは、「あなたはどうしたいの」とか「じゃ、どうしてほしいの」というような主客逆転の台詞です。弱い立場で、言われたことを言われるままにしていたところに、いきなり「主体性」が持ち込まれるのです。こういうときは高度なコミュニケーション能力が試されます。言葉通りであれば、自分の意見が求められていて、その意見が取り入れられる余地があるように思えます。しかし、たいていの場合は答えは決まっていて、ただ、それを言っている人が答えを知らないだけなのです。答えを間違えると不興を買い、答えられなければ、それはそれで不興を買う。世の中に主体的にやっていいことなんて、ほとんどないのです。

 そもそも私たちが信奉する「主体的」とか「主体性」という言葉はどういう意味なのでしょうか。ほとんどの大学の図書館には JapanKnowledge という事典や辞書のデータベースがあるので、それで調べてみました。「主体的」とは、「他に強制されたり、盲従したり、また、衝動的に行なったりしないで、自分の意志、判断に基づいて行動するさま。自主的。」※1、「主体性」とは、「(1)行動する際、自分の意志や判断に基づいていて自覚的であること。また、そういう態度や性格をいう。(2)現代哲学で、存在論的に意識と身体をもつ存在者であるとともに、倫理的、実践的に周囲の情況に働きかけていく個体的な行為者であること。自己の意志で行為しながら、真の自己自身を実現していく態度。実存であること。」※2とされています。

 もうお判りでしょう。「主体的」であることをや「主体性」を強いられるというのは、言葉の中に矛盾があるのです。「他に強制されたり、盲従したり、また、衝動的に行なったりしないで、自分の意志、判断に基づいて行動する」ことが「主体的」なのですから。

 そもそも「~性」だとか「~的」という言葉は、ときとして「~のような様」だとか「~のように見えるもの」という曖昧さを持っていて、話し手が都合よく使うことが多い言葉です。そこに、その言葉の話し手と受け手の間の立場の違いがあって、立場の強い側から弱い側に「主体性」を求めるときは、その立場の違いを覆い隠しながら、本来は立場の強い人間が負わなければならない責任を、立場の弱い人に転嫁する危険性をはらんでいます。自分がどうしていいか分からないことに対して、立場の弱い人に答えを求め、自分はその答えに対して諾否を決めるだけでいいという「お気楽」を決め込んでいたり、本来は自分が提示しなければならない解決策を示すことができないゆえに、立場の弱い人に解決策の提示を求めていることが少なくないからです。

 スポーツ系のクラブ活動に例えると、生徒の自主性なんて屁とも思っていない厳しい監督がいたとして、その監督に言われた通りに練習をして、試合でも言われた通りにプレーしているのに、どうしてもライバル校に勝てないという問題に直面した生徒が、その問題をどうやって解決すればいいかを監督に訊くと「自分たちで工夫して練習しろ」と言われる。「自分たちで考えて練習しようとか、試合の中でも、ここで自分はどうするべきかを自分自身で考える主体性がないから勝てないんだ」などと、他人が見れば、どの口が言うかと思うような言葉が出てくる。でも、生徒たちは監督に言われた通りに行動するように仕向けられてきたので、監督が「主体的に考えろ」と言えば、「主体的に考える」ことを強いられる。

 スポーツの試合に勝つか負けるかという問題ならそんなことでもいいですが、例えば、限られたコストの中で、政府や業界団体が決めているさまざまな基準をクリアしなければいけない、といった問題に直面している人がいたとして、その責任を非正規雇用の社員や下請け企業に転嫁したらどうなるでしょう。その人たちにしてみれば、検査の仕方を工夫するしかないのですから、検査の不正といった問題に発展するのは必定です。自動車が衝突などの事故に対して所定の耐性を持っていないとか、建物が地震で簡単に崩れたり火災で簡単に燃えたりするとか、そういうものが社会的に供用されることにつながります。大学の仕事でも、学生の人権や補助金の扱いに関するような不祥事が発生しないとも限らない。そしてそういう問題が発生したとき、立場の強い人はいつも「私は指示していない」と言い逃れをし、責任は立場の弱い人に転嫁されるのです。

 これも「カネ」の論理が行きついた先に生じた矛盾だと思うのです。そして、その矛盾を他に転嫁できる立場の人と、自分で背負い込まなければならない人がいる。そのことを思えば、立場的には他に転嫁することが出来ても、良識がそれをさせない人もいる。いま。会社でいちばん苦しんでいるのは、そんな人かもしれません。


※1("しゅたい‐てき【主体的】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com ,参照 2024-09-05)
※2("しゅたい‐せい【主体性】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, ttps://japanknowledge.com ,参照 2024-09-05)



2024/09/09

お気楽社員

 「サラリーマンは気楽な稼業」といってクレイジー・キャッツをすぐに連想するのは、私よりもひと世代、年配の方でしょう。1962年公開の映画『サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ』のテーマ曲なんですね。私が生まれる前です。当時のサラリーマンがみんなお気楽だったとは思えません。むしろ今よりも「モーレツ社員」が当たり前だったんじゃないかと思いますが、一方で、上司の顔色や自分の出世のことに無頓着な「お気楽社員」を抱えるぐらいの余裕が、会社という組織にも社会全体にもあったのかも知れません。コンピューターが普及して機械化も進んだ現代なら、その頃よりももっと気楽に仕事ができるはずなのに、どうもそういう余裕がなくなったような気がするのは、私の思い過ごしでしょうか。

 さて、定年が近づいてきて、定年後の身の振りを考えている私にとって、確かにサラリーマンは気楽だったなあと思うことがあります。サラリーマンは、基本的に、何をすればいいのかが決まっているのです。「決まっているはず」と言った方がいいのかも知れませんが、とにかく言われたことをやっていればいいというのは、確かに気が楽です。自分で何か事業を始めようと思えば、どんな些細な事業であっても、自分で決めなければならないことばかりですし、事業を始めた後も、きっといろいろ決めなければならないことの連続なんだと思います。それに比べれば、サラリーマンは確かに気楽な稼業かも知れません。

 でも、どうもそれも最近、雲行きが変わってきたように思うのです。人事異動だとか係替えなどで新しい仕事をしなければならなくなったときに、引継資料を見てもさっぱり仕事の内容が理解できない。上司に訊いても、上司が仕事の内容を把握していない。私が就職した頃に比べても、そういうことが深刻さを増しているように思うのです。それに、以前は、そんなのは私が勤めている会社だけだと思っていたのですが、どうもいろんなところで大なり小なりそうした傾向があるようなのです。事例を挙げるのは「経営学者」と呼ばれるような人に任せますが、いろいろな企業不祥事やトラブルを見ていると、どうもそんな気がするのです。

 これも「きっと」という話なのですが、その背景には、きっと非正規雇用の拡大があるように思うのです。私の世代までは、自分が新入社員だった時には、契約職員だとか派遣職員だとか業務委託だとか、そういうものはごく例外的なもので、就職して最初のうちは、とにかく新人でも出来るような単純作業だとか、毎日あるいは毎月発生するような定型処理だとか、そういう仕事から教えられたものです。ところが、いまはそういう仕事は非正規雇用の人や業務委託先の人がやってくれますので、自分が知らなくても仕事が回っていきます。それでも最初のうちは、非正規雇用の人が交代するときは、正社員から新しい非正規雇用の人に仕事の説明をしていたので、正社員はある程度、仕事を知っていることが前提でした。それが、正社員の方も世代が交代すると、そういう説明もできなくなって、非正規雇用の人同士の引継ぎに頼ってしまうようになり、それも短期間で人が代わるものだから、引き継ぐ内容がどんどん薄くなって、誰も仕事のことが分からなくなっているのではないかと思われるのです。業務委託も、最初はきちんとした業務仕様書があったのだけれど、新しい制度の運用が始まったり、執務場所や体制の変更などがあったときに、仕事の分からない正社員には業務仕様書の改訂が出来ず、「とりあえず」みたいな指示が慣例化して、仕事がどんどんブラックボックスになっていく。正社員にとっても、そういうところに身ひとつで放り込まれるような人事異動や係替えが増えているのではないかと思えるのです。そういうことが、きっと日本中で起きている。それも名前の知れた有力企業の方が、組織が大きく、非正規雇用の方や業務委託先との関係で、正社員がより強い立場にあるだけに、より深刻な様相にあるのではないかと思うのです。

 年配の社員が仕事を把握しきれないということは昔からあったと思います。コンピューターが導入されて右往左往する上司の図というのは、昭和時代の会社でも見られてことだと思うのです。それが、その時代であれば、新しい仕事に適応していける若手社員と適応できない年配社員という「世代間」の問題として顕われたのですが、現代では、待遇と安定した雇用が保証された正社員と、ワーキングプアと言われる非正規社員の間の問題や、名前の知れた大手企業の社員とその下請けで業務を受託する会社の社員の間の問題という、一種の「階級間」の問題として顕われているのだと思うのです。

 もし日本中でこんな問題が起こっているとするならば、その問題を引き起こしている真の原因は「業務効率化」という「カネ」の論理です。生産性の低い「お気楽社員」を排除し、単純作業や定型作業を給与の安い非正規社員に任せる。それによる利益は「資本」が吸い上げていく一方で、そこで生じる矛盾は、立場の強い方から弱い方に押し付けられていく。非正規社員からすれば、正社員は自分に矛盾を押し付けてくる「支配者」に見えるでしょうし、一般の正社員からすると上司が支配者に見える。けれど本当の支配者は「カネ」であって、上司も役員も資本家も、その「カネ」が仮面を被っているに過ぎない。私たちが生きている社会というのはそういう構造で、それが私たちを日々苦しめているのだと思うのです。