奈良県東吉野村で私設図書館を運営されている青木真兵さんの著書『手づくりのアジール:「土着の知」が生まれるところ』(青木真兵著. 晶文社, 2021)から(以前の記事から再掲)。
ぼくが「彼岸」という言葉を使っているのは、すべてが数値化の結果を受けて序列化され、それに基づいて価値付けが行われてしまうような現代社会を「此岸」としたときに、そうではない世界としての「彼岸」が必要なのではないかという思いがあったからです。(p.3)
そして、島根県隠岐郡海士町の図書館で拝聴した青木さんの講演では、おカネを得るためにしている仕事と、自分が自分らしくあるための活動のそれぞれを「此岸」と「彼岸」に例えながら、それを行ったり来たりすることを提唱されていました(これも以前の記事で紹介しています)。この「此岸」と「彼岸」という考え方を取り入れることで、「主体性」とか「主体的」という悩ましい問題に、解決の糸口を見いだすことが出来るのではないかと思っています。
最近の記事で、会社という組織あるいは社会全体に蔓延している似非「主体性」が、良識のある人を苦しめているのではないかということを述べました。役職には就いていなくても、身分と待遇が保証された正社員ならば、立場上は非正規で働く人よりも強い立場にいます。非正規雇用の人たちと同様に立場の弱い業務の委託先や取引先からすれば、正社員は「お客様」ですので、いつも大切にされます。周囲にそういった立場の弱い人がいれば、上司からの指示に含まれている矛盾を、その人たちに転嫁する場合も少なくありません。傍で見ていると、そういう社員は、自分が責任を転嫁していることに気が付いていないのです。しかし、それは責任転嫁だと気づいている人にとっては、自分の良識がそんな責任転嫁を許さないのです。そうやって逡巡していると、上司は平気で「そんなの派遣さんにやってもらったらええんや」などといいます。
会社というところに勤めていて、そういうことにはほとほと疲れました。定年を迎えたら、もうこんなことで悩みたくない。こんな会社はさっさと辞めて、言われたことを言われた通りにすればいい仕事を黙々とやって僅かなお給料をもらって生活の糧を得る。夢も何もない世界ですが、それこそが私にとっては「此岸」なのです。そこに「やり甲斐」などというものは求めない。自分の労働力を売って、あるいは自分の時間を売って対価を得る。労働力や人格、「やる気」さえも商品として流通する「現代社会」の中でも、売るのは労働力だけ。けっして人格は売らない。そこに「やる気」だとか「やり甲斐」だとかを持ち込まない。ある意味で「此岸」の中にあるユートピアのような世界だと言えます。
これに対する「彼岸」が Cafe & Library だと思うのです。そこはすべてを「主体的」に考えていかなければいけない世界なのです。似非「主体性」とは違って、答えは自分の中にしかない。その答えを求めて悩み苦しむのだけれど、そこには生きる価値だとか意味だとかがあって、自分が悩み苦しむ必然性があって、そしてそうやって悩み苦しんだことが何かの形で報われるかもしれないという希望がある。そういう「彼岸」の世界があるならば、「此岸」もまた希望のある世界かもしれません。
カフェの収入で生計を立てるのはどれだけたいへんかは、カフェオーナーの育成を謳う通信教育でもよく分かりました。ひとりで運営する店で1日1万円を売り上げるところまで店を育てていくのに何年かかることか。そして、そこまで育てることが出来ずに廃業する店がどれだけ多いことか。それに、私が本当にやりたいのはカフェではなくて私設図書館なのですから、そもそも儲かるはずがありません。Cafe & Library を週3日開けて、1日はお休みにし、残りの3日間はアルバイトのような仕事に出て、黙々と言われたことだけをやっておカネを稼ぐ。いまや最低賃金でも8時間働けば1万円近い収入になります。けれどその仕事に身を捧げることはしない。本業は私設図書館の館長。副業はカフェのオーナー。アルバイトはカネを稼ぐだけのためにやっている。けれど、収入の大半はアルバイト。カフェも少し収入になるけれど、私設図書館はおカネが出ていくばかり。でもいいじゃないですか。それがやりたいことなんですから。まるで、役者を目指して専門学校に通うためのおカネを稼ぐために、アルバイトに精を出す若者みたいなものです。
そう思うと、少し気が楽になってきました。いろんな意味で。