2024/06/24

蔵書とアイデンティティ

 島根県隠岐郡海士町の海士町中央図書館で開催された青木真兵さんのトークイベントから、いろいろと書いてきましたが、いちおう今日が最終回です。

 島には2泊したのですが、最初の1泊は青木さんと同じ旅館でした。旅館のご主人はなかなかの男前。あまりお話しする機会がなかったのですが、見た目は海とTシャツ、アウトドアが似合う感じ。食堂が居酒屋にもなっていて、おいしそうな酒が並んでいたのですが、残念ながら営業時間がイベントの時間と重なったりして、ここで一献傾ける機会はありませんでした。居酒屋の中にステージがあって、ドラムセットが置いてあったり、玄関の手前にバーベキューができるようなところがあったり、なかなかこれもいい感じの宿でしたので、次はここを堪能したいものです。

 そうそう、図書館でしたね。

 3年前に来た時はあまり気づかなかったのですが、ここの蔵書、なんとなく「彼岸の図書館」と重なるところが多いように思いました。利用者のリクエストに応えていると、哲学だとか社会学だとか、それも青木さんの言説と重なるようなものが増えていくのかも知れません。海士町は人口の約1割が移住者。そして、図書館が移住者を惹きつける役割も果たしているのではないかと思うのです。移住されてきた方にとって、自分がなぜこの島に移住してきたのかというテーマはアイデンティティに関わる重大な関心事だと思うのです。たぶん、それぞれ一言ではいえないような思いがあって来られていて、その思いを代弁してくれるような本があって、そこがコミュニケーションの拠点になっている。そんな構造が蔵書にもよく表れているように思うのです。ここに来ると自己肯定感で満たされる図書館。そんな図書館、全国を探してもそんなにある訳じゃないですよね。

 でも。もともと島に住んでおられた方にとっては、そこはそんなに重要な問題ではないかもしれません。そんな単純ではないかもしれませんが、究極的には、自分で島に住むことを選択したのではなく、島で生まれ育ったから島に住んでいるだけ。移住してこられた方が移住してきた理由を言語化しようとするのとは対照的で、そういうことを面倒に思うこともあるかもしれません。

 青木さんのトークイベントの参加者は、移住されてこられた方が多いように見受けました。一方で、私が泊まった宿のご主人は、私がわざわざ島外からこのイベントに参加するために来たということが、どうも腑に落ちない様子。小さな町とはいっても2,000人も人がいる訳ですから(学校に例えるなら1学年10クラスを超えるマンモス校ですね)、いろんな人がいるのは当たり前です。そしてその暮らしの中には、東京と同じ基準で豊かな生活をしたいという、これも当たり前の思いがある。移住者の方ももともと島にいた方も、その両方の面を持っていて、その間を行ったり来たりできるといいのですが、現代社会で支配的な価値観と異なる目線で自分の周りを見ることは、そう簡単ではありません。私のような者が浮ついた気持ちでふわふわと移住したのでは、きっと相当厳しい感じになりそうな気もしました。

 トークイベントの翌日、館長さんが、島に最近出来たラグジュアリーホテルにある分館を案内してくださいました。海を一望できるラウンジのようなところに、1万冊ぐらい入りそうな書架があって、そこが図書館の分館になっている。別のフロアにも、それよりは小さいですが、書架がある。そして別の棟にも。もう一人、関西のとある大都市の図書館に勤めておられる方といっしょに拝見したのですが、

お二人ならどんな本を並べますか

なんてことを聞かれて、俄然、身を乗り出してあれこれ考えてみる。これは楽しいですね。全国の図書館のいったいどれだけで、こんな経験ができるでしょう。でも、そこは既に館長さんや司書さんが本を並べておられるので、自分としては、もしあの宿に分館を作るなら、なんてことを考えました。まずは「全国地酒図鑑」だとか「江戸前寿司職人物語」だとか(いずれも架空のタイトルです)、宿にある居酒屋で一献傾けたくなるような本。矢沢永吉の生き様をカッコよく書いた本やロックバンドのクイーンズの本。アウトドアの本。釣りに来るような人もいそうなので、釣りや魚の本。他には・・・

 いや、いかん、いかん。こういうのがふわふわした気持ちっていうんですよね。何も話したことがないのに見た目だけであれやこれやとお節介なことをされるのは、こんな人目につかないブログの中であったとしても迷惑なこと。やるならしっかり地に足を付けてやらないといけません。青木さんの「土着」にはそんな含意もあるのかもしれません。ご著書の中では、田舎の消防団での苦労なんかも語っておられますが、「土着」を実践するのは、そんな簡単なことではない。自分の住む町ですることも大変なのに、住み慣れない、しかも地域の濃密なコミュニティがあるところでするのはもっとたいへん。青木さんも海士町に移住した人たちもそれをしておられるのです。

 それは住み慣れた街でやるにしても同じ。逃げ出すにしても、人類のためにするにしても、こんなふわふわした気持ちではダメだ。しっかり地に足を付けなければ。

 でも、これだけは言えると思います。青木さんにとって、本が並べられている自宅はきっと居心地のいい場所だと思うのです。そして海士町図書館も、今回のイベントに参加された方にとっては、きっと居心地のいい場所なんだと思うのです。自分もそういう場所を作らないといけない。本気になって作らないといけない。それで、そこが居心地がいいと思う人がいれば、人がそこに集まって来るし、それが自己肯定感にもつながる。自信にもなる。テキトーに作ったのでは、自分も居心地は良くないし、人も集まってこない。居心地がいいというのは、楽ができるという意味ではなくて、本気になれるという意味かもしれません。

 海士町からは帰ってきましたが、歳甲斐もない「自分探しの旅」はまだまだ続きそうです。





2024/06/23

図書館を巡る

 図書館の蔵書をどのように評価するのかってとても難しい問題なのです。私が勤めていた図書館では、その年のうちに買った本が、その年のうちに貸出や閲覧に供されたかどうかで評価をしていました。一度それを徹底してやろうとしたときにはとても疎まれました。官僚的な組織の中では、そういうことはあまり好まれず、「上手く選書されています」という結論が先にあって、それをどう導き出すのかが大事なのです。

 今回の旅では、海士町中央図書館のほかに、隣の島にある西ノ島町コミュニティ図書館「いかあ屋」と、海士町へのフェリーが出る街にある境港市民図書館を拝見しました。海士町以外は、勝手にいろいろ見させてもらっただけなのですが、この3つがそれぞれ特徴があって面白い。

 まず、最近の図書館のトレンドも追いつつ、伝統的な図書館の蔵書評価でもたぶん高く評価されると思われるのは境港市民図書館。私の場合、図書館を見るときは、まずレファレンスブックを見るのですが、ここは本当にしっかりしていました。平凡社の『世界大百科事典』、小学館の『日本大百科全書(ニッポニカ)』『国史大事典』『角川日本地名大辞典』『大漢和辞典』、県史や市史、町史、村史など、あって当たり前と思っているものが本当にある。最近、市町村レベルの図書館では、なかなかこういうコレクションにお目に掛かれません。それと児童書の豊富さ。特に小学校の高学年ぐらいを対象にした本が豊富な印象。十進分類で配架されているのですが、たとえば「140」の書架には「こころ」などといった、小学生でもわかりやすいタグが付けられていて、これもなかなか好印象でした。あれ、と思ったのは一般図書の配架順で、例えば日本史ならば、普通は十進分類で古代→中世→近世→近代と並ぶべきところ、全部ひっくるめて著者順だか署名順だかに並べているところ。これはちょっと探しにくそうでした。新書はいくつかのレーベルを継続収集されているようで、相当な量があるのですが、分類配架されていないのは残念。配架場所もちょっと手に取りにくい高い場所で、なんとなく本が飾りになっているような感じ。これは他の図書館でもよくあることなのですが、新書は大学の先生のような専門家が一般の読者向けに書かれていることが多いので、入門書や教養書としてとてもいいと思うのです。レーベルごとにまとめるのではなく、主題別に分類配架すれば、同じ主題の本が1か所にまとまって、とても手に取りやすい。昔は各図書館で1冊づつ本の目録を作るときに分類をしていたのですが、いまはコンピュータにすぐ入力できるような本の目録情報を、本といっしょに購入するのが普通ですので、主題別分類はそんなに手間ではないはずなのですが。と、ちょっと意地悪な目で見てしまいましたが、学習室やミーティングができるような部屋もあって、施設も立派。まずまず申し分のない図書館でした。

 西ノ島町コミュニティ図書館「いかあ屋」もなかなか今風の図書館でした。ここも、ミーティングルームや学習室、海を見ながらゆっくりと本を読めるスペースなどがあり、「コミュニティ図書館」の名に恥じない施設でした。子育て世代と思われる女性が数名で、本やノートを拡げながらミーティングをしていたり、男性のお年寄りお二人が将棋に興じていたり、施設を作って終わりではなく、ちゃんと利用されているなぁとも思いました。入口を入ってすぐのところに低書架があって、西ノ島→隠岐→島→沖縄・瀬戸内 自然→生き物→漁業・畜産→町おこし みたいな連想で書架が作られていました。これはなかなか魅力的。本を読んでみようかな、という気にさせてくれます。出来て間もないということもあるのかも知れませんが、一般書架の本は総じてきれいでした。つまり、あまり利用されていない。これはもったいないですね。施設だけでなく、本も利用してほしいところです。それと、これも最近の図書館のトレンドなのかもしれませんが、書庫がないんです。「いかあ屋」の場合、いちおう「書庫」という部屋はあったのですが、閲覧室との間仕切りはなく、開架書架(図書館にある普通の本棚)に入りきらない本が普通に並んでいました。図書館の主題分類だと、「歴史」の本は、歴史一般→日本史→東洋史→西洋史…という順番に並ぶのですが、ここでは、歴史一般の次は東洋史で、「日本史の本は書庫にあります」といったことが書かれていました。大学の図書館は古い本でも捨てませんので、数十年前に発行された古い本(それはそれで利用価値があるのですが)だとか、ほとんど利用が見込めないような本は、書庫に仕舞い込んで、利用者からリクエストがあれば出す、というようなことにしています。県立図書館なんかもそうしている。「いかあ屋」の場合、まだ開館して間もないからそんな古い本はないのかも知れませんが、これからどんどん本が増えて並べきれなくなったら、古い本とか利用がない本なんかはどんどん捨てていくんでしょうね。書庫を作るぐらいなら、学習室、ミーティングスペース、ラウンジのような部屋なんかを作る方がいい。そういう思想が最近の図書館のトレンドなんだと思います。それもわるいことではないのですが。

 そしていよいよ海士町なのですが、これは語りだすと長くなりそうですので、明日にします。



2024/06/22

島まるごとアジール

 以前の記事で、青木真兵さんの著書『手づくりのアジール』を引き合いに、島根県隠岐郡海士町は島全体がアジールのようなものという私の考えを披露しましたが、これはちょっと修正が必要かもしれません。

 島にある島根県立隠岐島前高校には、全国から島留学の若者が集まってきます。彼らを見ていると、都会の学校から「逃げ出してきた」というよりも、現代社会という枠組みから「飛び出してきた」ように見える。それと「ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込んだ」(青木真兵, 海青子. 2019.『彼岸の図書館』P.6)という青木さんの言説とのギャップをどう埋めるのか。そこは、海士町まで出掛けて青木さんのお話を聞く動機でもあったのですが、青木さんによれば、アジールというものが何か絶対的な価値観を提供しているのではなくて、それぞれのアジールが社会の多様性の一部で、「アジールとはこうあるべき」といった画一的なものではないということなのです。都会からやってきた高校生にとってこの島の暮らしはアジールかも知れないけれど、都会のように何でもおカネで解決することが出来ないこの島では、周囲との濃密なコミュニケーションが必要になって、ときにはそこから逃れるように、港の売店でソフトクリームを買って人目につかないところで食べる時間が、その人にとってのアジールになるかもしれない。そんな例を挙げておられました。

 トークイベントのあとで、島前高校の先生という方に声を掛けていただいて、親しくお話をさせていただいたのですが、「飛び出してくる」若者と「逃げ出してくる」若者は半々ぐらいというようなことを仰っておられました。それを伺って、本当は一人の人間の中にも「飛び出してくる」要素と「逃げ出してくる」要素があって、ある場面では一方が強く出る、ということなんじゃないかな、と思ったりしました。

 これはたぶん、自分がやろうとしている Cafe & Library でも同じで、一面では「世の中を変える」とまでは言わないまでも「一隅を照らす」ぐらいの要素はありつつ、他の面では、現代社会の縮図と言えるいまの会社から逃げ出すという要素もある。どっちか一方という二者択一ではないと思うのです。それは、Cafe & Library の重要なコンセプトである「脱コミュニケーション」も同じかもしれません。これまで私は、会社で求められるコミュニケーション能力というのに辟易としていて、とにかくコミュニケーションから逃れられる時間と空間こそが自分にとって必要だと思っていました。それはいまでもそうなのですが、島に行くと私はいろんな方とお話をして、それなりに自分が受け入れられたように思っている。そういう「二面性」みたいなものはあらゆるところにあるもので、どちらかを「善」、どちらかを「悪」とは決められない。

 青木さんも、「此岸」と「彼岸」を行き来することの大切さを語られる。ふたつの価値観というのは、「都会」の価値観と「山村」の価値観だったり、個人が強調される「近代」の価値観と地縁や血縁などのコミュニティが強調される「前近代」の価値観だったり、いろいろなパターンがある。ただ、いまは資本の原理に基づく価値観が強すぎるので、それとは異なる価値観が提供されないと、異なる価値観の間を往来する自由が得られなくなって、社会が息苦しくなる。資本の原理が届きにくい場所を作って、そこと、今の世の中で支配的な資本の原理が通用する世界を行き来する。そんな思想に「土着」とか「アジール」という言葉を当てておられるのだと思います。

 そんなことで、海士町で開催された青木真兵さんのトークイベントから、あれやこれやと考えてきたのですが、明日は図書館のことを書こうと思います。



2024/06/21

地に足を付ける

 奈良県東吉野村で「彼岸の図書館」を運営されておられる青木真兵さんは、「学者」という顔も持っておられて、博士号もお持ちだし、文筆活動や講演もされています。

 ところで、最近の大学の傾向として、「社会に役立つ」ということを盛んに言うようになったと思うのです。私が大学生の頃は、大学生の4年間は「モラトリアム」などと言われていました。おそらく大学に対する公費助成を削減したいと考える人たちの思惑が背景にあったのだと思います。それに対抗するために「社会に役立つ人材の育成」などという大学の機能をアピールする必要があったのかも知れません。しかしそれは、「大学」という場所を「社会」に従属させることになってしまいました。

いやお前、何言っているんだ。「社会」っていうのは「大学」とか「会社」とか「政府」とか、そういうもので構成されるんだから、「大学」が「社会」の一部なのは当たり前じゃないか。社会の役に立たない大学に税金から助成をするなんて話はありえないよね。

お説ごもっともなんですが、大学で行う「学術」という営みは本来、社会からも個人からも離れたところから、社会のあり様や個人の生き方を観察して、理想的な社会や理想的な生き方を提示するという崇高な役割を持っていると思うのです。社会全体に閉塞感が漂う今日にあっては、本来ならば「社会に役立つ人材」ではなくて「社会を変える人材」を輩出していかないといけないところ。そう思いません? でもそれは、社会に反旗を翻すことであって、社会から自由である代わりに、社会から孤立することにもなります。それじゃ研究助成も運営経費助成も受けられないし、新しい学部を作ったりするときに認可されないし、学生の就職先もないから志願者も集まらない。少子化が進む中で、志願者が確保できなければ学生も減って学費収入も減る。公費の助成も減る。たいへんだ。ということで「社会の役に立つ」アピールが強くなっていく。大学間の競争が煽られ、大学の「生き残り戦略」を前面に出した運営がなされ、大学の商業化が進む。社会のあり方や個人の生き方について理想を語る先生は疎まれ、大学はどんどんつまらない場所になっていったのではないか。そう思うのです。博士号まで取得された青木さんが、大学に就職して安定した収入を得る道を捨てて、東吉野村から「社会のあり様」を発信し「新しい生き方」を提示されている背景には、そんなことがあるのかも知れません。

 さて、ここからは青木さんがトークイベントで語られたお話しからなのですが、青木さんは「人類のために」などという理想を語る一方で、「地に足を付ける」という言い方で、現実との融和を図られているように思いました。その辺が大学の先生とは違う魅力かも知れません。スポンサーに気兼ねすることなく、自分が言いたいこと、言うべきことを言う拠点を作ること。都市、健常者、私有という近代社会の基底に対抗して、田舎、障害、共有を基底とする世界を作ること。それは理想かも知れないけれど、それを「絶対善」としてしまうと、それはそれで閉塞した世界になってしまう。NPO法人の仕事、図書館の仕事、学者としての仕事の割合を円グラフで示しながら、自分の関心が向けられている割合は図書館が半分以上なのだけれど、収入はNPO法人が中心。ふたつの世界を「此岸」と「彼岸」に例えながら、それを行ったり来たりすることが「地に足を付ける」ことなんだ、とか、固定的に物事を考えずに環境に合わせて活動のスタイルも変化させていくことが大事なんだ、とか、当たり前のことかもしれないけれど、それに「土着する」という言葉を割り当てて、その先に「人類のためにやっている」という理想を持ってくる。そうすると、私がやろうとしていることも、もしかして「人類のために」なるかもしれない、なんて「錯覚」が生まれて、俄然、やる気も出てくる。いっしょに拝聴した方の中にもそんなふうに思われた方がいるんじゃないかと思いました。

 明日は、アジールと多様性について考えます。




2024/06/20

一隅を照らす

  島根県隠岐郡海士町の図書館であった青木真兵さんのトークイベントの雑感です。

 その前に、このブログで吐露してきたことのおさらいなのですが、自分としては、Cafe & Library を、現代社会の問題を解決する場にしたい、ぐらいの意気込みはあるのですが、根底には、そもそも現代社会の縮図ともいえるいまの会社の人間関係に辟易していて、定年でやっとそこから解放されるという思いがあって、それなら、まず、自分にとって居心地のいい空間を作ることが第一で、何かカフェとしての収支を考えて、望んでもいないような(例えばインスタでバズるとか)ことのために力を注ぎたくはなくて、そうやって作った場所が誰かに受け入れられるのならそれでいいし、受け入れられなくても別にいい、なんてことを考えているのです。

 こういうことは、常識的に考えると、なかなか理解しがたいことだと思います。商売をする気がない。現実社会から逃避している。そんなふうに言われても仕方がないかもしれません。本当は現実社会から逃げているのではなく、現実社会から飛び出して新しい世界を創ろうとしているのですが。

 青木さんも同じようなことを仰っていました。「東吉野村のためにやっているのではなくて、人類のためにやっている」と、まあ、すごく大きく出ました。この方ならそれぐらい言ってもいいんですけど、その勇ましさと、「兵庫県の街での生活で体調を崩し、ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込んだ」(青木真兵, 海青子. 2019.『彼岸の図書館』P.6)というギャップをどう埋めるのか。

 本来そんなことは、他人が自分のことをどう思うか、ということに属することで、たいして重要な問題ではないのですが、いろいろな事情から、私にとってはややシビアな問題なのです。わかってくれる人だけわかってくれればいいということでは済まされない。Cafe & Library 構想の成否にかかわる問題なのです。

 と、そんな話を青木さんや島に移住されてこられた方に振っても答えが出る訳でもなく、それで苦し紛れに出てきたのが、標題の「一隅を照らす」。私が住む滋賀県大津市にある比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の重要な教義でです。

一隅(いちぐう)とは、今、あなたがいる、その場所です。あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして照らしてください。あなたが光れば、あなたのお隣も光ります。町や社会が光ります。小さな光が集まって、日本を、世界を、やがて地球を照らします。

あなたの一隅から世界を照らしましょう!一人ひとりが輝きあい、手をつなぐことができれば、みんなが幸せになり、すばらしい世界が生まれます。

天台宗 一隅を照らす運動ホームページ https://ichigu.net/digest/ 2024/6/19アクセス

という意味だそうです。そうそう。これぐらいだったら私にも言えるかも。「人類のためにやっている」なんてことは言えないまでも、自分の周りだけならなんとかなりそうです。まずは自分自身がぼんやり弱い光であっても出せるような場所を作り、その場所に集まってきてくださった方をぼんやり弱い光で照らす。いや、それでいいんですよ。別に革命を起こすわけではないので。

 明日は、青木さんの「土着」思考を語ろうと思います。



2024/06/19

自分探しの旅

  そんな青臭いことを言う歳でもないのですが、自分が何をしたいのかを確かめるために、島根県隠岐郡海士町への旅に出掛けました。

 このブログで何度かご紹介している海士町は、私が私設図書館を作ろうと考えたきっかけを与えてくれた島です。毎年秋に開催される「図書館総合展」で、かつてこの島の「島まるごと図書館」が Library of the Year に選ばれ、当時、図書館の職員をしていた私が興味を持ってこの島を訪れ、個人のご自宅を町の図書館の分館として開放されておられる方に巡り合い、そこから、いつか自分もこんな図書館を作りたい、と考えるようになったのです。この島のことは、つい先日、NHKの有名番組でも取り上げられたのですが、あの番組のストーリーなんかでは説明できない魅力を持っている島なのです。ただ、その魅力が何なのか、当時の自分には理解しきれてはいませんでした。

 定年が近づき、定年後の生活が現実味を帯びてくる中で、転職サイトへの登録などをして、本格的に再就職のことを考えるようになったのですが、どうもしっくりこない。そこで、そうだ、いつか作ろうと思っていた私設図書館を、いま作ろう、と Cafe & Library 構想が始まり、カフェ学校の説明会にも行ったのですが、それも何かが違っていて、とても「しんどい」状態になり、これも何度かこのブログで「彼岸の図書館」として紹介している奈良県の私設図書館を訪ねて、そこで少し展望が開けてきたので、このブログを始めた。←いまここ。というのがこれまでの展開でした。

 さてさて、彼岸の図書館のFacebookをフォローしていると、そこを運営されている青木真兵さんという方が、海士町でトークイベントをされるという記事を見つけました。これは自分にとっては通過儀礼のようなものかもしれない。そう思って、宿をとり、フェリーの予約をし、有給休暇を1日取って、はるばるこの島に渡りました。3年前にお世話になった図書館の館長さんとも、彼岸の図書館を運営されている青木さんとも、イベントに参加された方とも親しくお話をさせていただいたり、あるいは励ましていただいたりして、元気をいただきました。

 金曜日の仕事が終わってから、高速道路を5時間走り、港の手前で1泊。翌朝フェリーにクルマを積んで、お昼を少し回ったところで島に到着。港近くの食堂で昼食をとると、レジのところにトークイベントのフライヤがある。店員さんに「これ聞きに来たんです」というと、「私も聞きに行きます」とのこと。図書館の分館にもなっている島の交流施設で本を読んでいると、館長さんが青木さんをアテンドされて見学に。先にここにおられた方に声を掛けておらるのですが、どうやらその方も今日のイベントに参加される方のよう。行く先々で参加者に合いますね、などと仰っておられる。

 初夏の長い日が傾くころに図書館に行くと、次々と参加者が集まってこられる。その数ざっと40人。人口2,000人の島だから、島の人口の2%が集まってきている。人口30万人の大津市に例えたら6千人に相当する人数。びわ湖ホールにも入りきりません。これはすごい。これだけでも、図書館がこの島でどれだけ重要な位置づけかが分かります。

 トークイベントでも話題になったのですが、この島は、島全体がアジール。資本主義の価値観や東京の基準では測れないもので動いているのではないか。それも、もしかすると、島の中でも移住者のコミュニティに限られているのかも知れませんが、移住された方が、何か経済的な成功を夢見てやってくるわけではないように思えるのです。そこが「彼岸の図書館」にも、あるいは自分がやろうとしている Cafe & Library にも共通しているのではないか。そういう意味で、この島で青木さんの話を聞くというのは、自分にとってとても意義があると思うのです。

 青木さんのお話を聞いたり、青木さんの書いた本を読んでいると、自分がなんとなく思っているのだけれどうまく言葉にできないことが言語化されて言い当てられている。きっとここに集まっている人たちの中にそう思っているは大勢いそうなのです。こんなふうに考えるのは自分だけではない。自分が住んでいる街からほぼ1日かけて行った先には、自分と同じように考えている人がこんなに大勢おられる。そんな実感を得られたイベントでした。

 今日から何回かにわけて、海士町のことやら、青木さんのトークイベントのことなんかを書き綴ろうと思います。




2024/06/09

承認欲求 再考

阿比留久美. 2022. 『孤独と居場所の社会学. なんでもない"わたし"で生きるには』. 大和書房.

 先日、彼岸の図書館に行ったときに、たまたま座ったソファーの前のテーブルに置かれていた本です。この本を手掛かりに、あるいは、この本との出会いを手掛かりに、もういちど承認欲求について考えてみようと思います。

 以前の記事で、こんなことを書きました。

この Cafe & Library を利用する人の視点で、その人たちの承認欲求をどう満たしてあげられるのかという視点。でも、これは出来ません。なにせ「脱・コミュニケーション」を掲げているのですから。コミュニケーションなしに承認欲求が満たされることは考えにくい。もしかすると、その空間の雰囲気で「自分が受け入れられている」という印象を得て、そのことによって承認欲求が満たされることがあるかもしれません。

これを蒸し返して、もういちど考えてみます。冒頭に紹介した本のタイトルにもなっている「居場所」という概念は、私が作ろうとしている Cafe & Library のコンセプトにとても近い。「居場所」というのは、自分が承認される「場」だとか「関係」だとか「活動」なんかのことでしょう。それじゃ「自分が承認される」とはどういう状態なのか。究極的には、自分の価値観や考えが受け入れられるということだと思うのですが、その手前にはいくつものハードルがあります。まず、自分の話を聞いてもらわないといけません。そのためには自分に関心を持ってもらわないといけない。相手がいくら自分に関心を持ってくれていても、いざ自分の考えを言おうとするとうまく表現できなかったり、うまく伝えられなかったりします。そもそも自分の考えていることを言語化することはとても難しい。そんなことが出来る人、そんなことが出来る場面は、ごく限られていると思うのです。多くの場合、自分がどうしてこんなモヤモヤした気持ちでいるのか、なぜ最近こんなにイライラするのかというようなことは、自分でもわからなかったりします。いや、「モヤモヤ」「イライラ」「理不尽」「孤独」「疎外」などという言葉ですんなりと説明ができるような場面なんてないのかも知れない。親しい人に対して「あの人は私のことを理解してくれない」などと独白した経験は誰もが持っていると思うのですが、そのときの自分の気持ちを自分で理解できているかと言えば、それはどうなのでしょうか。

 彼岸の図書館で自分が受け入れられているように思えたのは、そこにある本が自分の考えていることを代弁してくれているように思えたからかもしれません。それは承認欲求を満たすための最初のハードルかもしれない。冒頭の本と出合った日も、テーブルの上に「私が読むべき本」としてこれが置かれていました。テーブルの上でなくても、書架を注意深く探せば、自分の考えていることを代弁してくれる本はたくさん見つかると思います

あなたが考えていることはこんなことではないですか。

まるでそう語り掛けてくるようにです。それは本の著者や、その本を私のために用意してくれている司書との間接的なコミュニケーションだと思うのです。自分の持っている本を公開するのは、自分の価値観や考え方を公にするのと同じです。それを見て、「自分もそう思う」とか「この人はこう思うのか」といった感想を持つことは、もはやコミュニケーションの始まり。その本を手に取って読むとなると、さらに深いコミュニケーションだと思うのです。そしていくつかのハードルがクリアされて、そこに承認欲求が満たされた思いが生じることで、そこが自分の居場所となる。

 こういう蔵書構築は、公共図書館ではなかなか出来ません。司書が自分の考えや価値観で選書するのは御法度です。でも私設図書館なら、こういう可能性が拡がると思うのです。彼岸の図書館には、運営されておられるご夫婦が手に取られた本ばかりが並べられています。中立性とか網羅性とか、そういうことは二の次。いやむしろそんなものはない方がいい。偏りがあるからこそ特徴的な蔵書を構築することが出来る。運営されておられる方の価値観や考え方を色濃く反映したコレクションになる。これが私設図書館の魅力だと思うのです。