2024/05/29

逃げるは恥だが

  奈良県東吉野村で私設図書館を運営されている青木真兵さんの著書『手づくりのアジール:「土着の知」が生まれるところ』(2021. 晶文社)から、青木さんがされている取り組みと、自分がやろうとしている Cafe & Library や、その切っ掛けになった島根県隠岐郡海士町の「島まるごと図書館」やさまざまな移住政策に通底する「アジール」という考え方について、いろいろ考察しているところです。

 青木さんは、「アジール」という考え方を読者に理解しやすくするためか、「逃げる」という言葉を使われます。「逃げる」という言葉は、私たちが「駆け込み寺」という言葉から連想しやすいという事情もあるかもしれませんし、青木さん自身の経験も、「逃げる」というのに相応しいと考えておられるのだと思います。けれど、どうも「逃げる」という言葉にはネガティヴなイメージがある。Cafe & Library のことを考えるとき、自分としては、現代社会の抱える根本的な課題に対して、自分の周りの小さな世界であったとしても、それに抗って、人間が人間らしく生きることの出来る時間と空間を提供するという、かなり大きなテーマで取り組んでいるつもりなのですが、いまの会社に再雇用されることによって得られる安定的な立場とそこそこの収入を期待する私の妻から見れば、いまの会社のゴタゴタした人間関係から逃げ出すようなイメージに見えるようで、その分、ネガティヴなイメージで捉えられているようなのです。

 青木さんは、奥様との共著『彼岸の図書館:ぼくたちの「移住」のかたち』(2019. 夕書房)の「はじめに」で、「この本は、…ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込んだぼくらが、家を開いて図書館を作ったことで元気になっていった「リカバリーの物語」です」と仰っています。また『手づくりのアジール』では、大きな紙幅を割いて、「逃げる」ことの積極的な側面や必要性を述べておられます。例えば、対談者である栢木清吾さんの言葉を借りて

「逃げる」という行動は、現実と対峙しない、消極的で臆病な反応とみなされがちですが、それは積極的な意思表示でもある…自分が所属している組織なり、共同体なり、社会なりに、自らの行動を通じて「否」を突きつけることですから。(pp.40-41)

と仰っています。奥様の海青子さんは、これに応えるように

私たちが「逃げた」ことは、現代社会はもういられない場所なんだよということを伝える主体的な行動だったのだと、今お話を聞いて思えました。(p.53)

と仰っておられる。これにはとても共感するところがあります。けれど、言葉についている印象というのは、そう簡単には拭えるものではありません。

 ところで、海士町にある島根県立隠岐島前高校には、全国から島留学の青年たちが集まってきます。3年前に海士町を訪れたのは、ちょうどこの高校のオープンスクールの日。フェリーは島に渡航する中学生でいっぱい。島の施設では、先輩高校生が訪れてきた中学生を相手に熱く語る姿を見ましたし、話している高校生も聞いている中学生も、目が輝いているようでした。都会の学校で上手くいかずに島に逃げ込んでくるというよりも、現代社会という枠組みを飛び出して、未知の島のコミュニティに飛び込んでくる、という印象でした。

 同じことをしていても、「逃げ出す」「逃げ込む」というとネガティヴなイメージになり、「飛び出す」「飛び込む」といえば積極的でポジティヴなイメージになります。そんな他人から見たイメージなんてどうでもいいのかも知れませんが、妻を納得させないと開業資金が捻出できない身からすると、小さなこととして捨て置くこともできません。

 ただ、「飛び出す」ことに対しては「逃げ出す」ことよりもより強い勇気が必要です。現代社会の閉塞感の中で息苦しい思いをしている人に対して、「もうそこから逃げ出してもいいですよ」と言うのと「そんな世界からは飛び出してあたらしい世界を作ろう」というのでは、後者は確かに威勢がいいですが、一歩踏み出すのを躊躇しますね。Cafe & Library を運営するにあたって、自分自身は「飛び出す」つもりでいたとしても、利用する方には「逃げ込む」場所であることが、一人でも多くの人の共感を得ることにつながるのかも知れません。


 



2024/05/28

ないものはない

  前回の記事で、奈良県東吉野村で私設図書館を運営されている青木真兵さんの「彼岸」「アジール」という言葉が、自分が Cafe & Library でやろうとしているコンセプトに近いということを書いたのですが、それは、私が「いつか私設図書館をやりたい」と思うようになった直接のきっかけとなった、島根県隠岐郡海士町の「島まるごと図書館」に通じるところがあると思うのです。

 島には大勢の「Iターン」者がおられました。島にはもともと縁のなかった人が、まるで郷里にUターンするように、島に移住してこられているのです。移住まではいかなくても、高校や小中学校に「留学」してくる子どもたちや青年たちもいる。高校に通う3年間というは、あるいは人生のもっとも大切な時間かもしれません。その3年間をこの島で過ごすのですから、よほどの魅力があるはずです。失礼な言い方を許していただくなら、島にはさしたる産業もなければ、観光名所もありません。それでもこの島は、これだけ多くの人を惹きつける魅力を持っています。移住はしていませんが、私もこの島に惹きつけられた一人なんです。その魅力の根幹が「彼岸」あるいは「アジール」という言葉で説明できそうに思うのです。

 島には、私たちの様々な欲求を満たしてくれる商品が十分にはありません。夜中に小腹が空いたからといっておにぎりを買うコンビニもありません。自動販売機もどこにあったか思い出せません(すみません。これは思い違いです。自動販売機はそこそこにありました。2024/6/20)。ニトリも無印良品もありませんから、本棚のようなちょっとした家具ならDIYで作りたいところですが、その材料を売っているホームセンターもありません。映画館もショッピングモールもない。宅配便もたぶん特別料金だと思います(これも思い違いで、ヤマト運輸の営業所があるので普通に届くとのことでした。2024/6/20)。都会にいると気づかないのですが、これらは全部、商品として提供されているものなのです。コンビニで売っているおにぎりも商品ですが、そのおにぎりを24時間いつでも手に入れることが出来るというサービスそのものが商品なのです。都会にいれば当たり前に享受できるこれらのサービスを、海士町では享受することが出来ない。だから海士町では、生きるために必要なものを、商品としてではなく、別の方法で手に入れなければいけません。例えば、どこかに行くために、地下鉄というサービスを利用することが出来ませんから、クルマを持っておられる方にお願いして乗せていってもらう、といったことです。

 都会では、生きていくために必要なサービスはすべて、商品としておカネと引き換えに手に入れることが出来ます。それがスタンダードになると、おカネがなければ生きていくために必要なサービスを受けることができなくなる。そうすると、生きるためにおカネが必要になりますから、そのおカネを得るための「労働」が必要になる。そしてその「労働」が、次第に人生を侵食していく。会社に拘束されている時間はもちろん、それ以外の時間も、自分の労働力としての価値を高めるための行動を強いられる。受験勉強も就職活動も資格取得も、もしかするとジムやネイルサロンに通うことですら、「自分への投資」と位置付けられ、カネ勘定に結びつく。それは知らず知らずのうちに、自分を息苦しいところに追い込んでいきます。その息苦しさに気づかないのは幸せなのですが。

 海士町には、おカネと引き換えに手に入れることができる「商品」としてのサービスが十分にはない分、商品を得るために必要なおカネを手に入れる「労働」の必然性が小さいと思うのです。それは、働かなくてもいいということではありません。おカネで解決できない分、自分でやらないといけないことは増えるのです。例えば、都会なら24時間いつでも牛丼が食べられるサービスがありますが、海士町にはそれがないから、お弁当を作って出かけないといけない。お弁当を作る時間は必要なのですが、それはおカネを得るための「労働」ではありません。都会にいると、そのお弁当を作る時間をおカネに換えることが出来ます。私のような昭和人の感覚では、朝のひととき新聞を読むのはサラリーマンの嗜みのようなもの。お弁当を作る時間を新聞を読む時間に充て、仕事で会う人との共通の話題を作ったり、新たなビジネスチャンスに結びつけたりすれば、自分の労働力としての価値を高めることができます。すぐに給料は上がりませんが、いつか、新聞を読まない人よりも高給なポジションが得られるかもしれません。そのお給料で、自分以外の誰かが牛丼屋で「労働」して作っているサービスを購入して空腹を満たす。もちろん、新聞を読むことは「労働」の価値を高めるための様々な行為の一部でしかないのですが、そこを単純化すれば、都会では、毎朝新聞を読んで、上司や取引先との会話に気を遣わなければ、空腹を満たすことが出来ない、ということになります。おカネは確かに便利なものですが、一歩間違うと、私たちの人生がおカネによって支配されてしまうことにもなりかねません。たいして関心もないのに「新聞ぐらい読まなきゃ」という義務感から新聞を読むことを強いられる。新聞を読んで感じたこととは別に、上司や取引先に迎合して話題を提供しなければならない。新聞を読んで、本当に憤りを感じて、誰かに聞いてほしい話題に限って、上司や取引先との会話には適さないことが多いものです。こういう新聞の読み方は、「文化的」なようには見えますが、本当の意味ではあまり「文化的」ではないですね。

 海士町の港や役場には「ないものはない」というポスターが掲げられていました。図書館の館長さんからいただいた名刺にも書いてありました。「ないものはないのだから仕方がない。」という意味と、「ないものなんてない。すべてがある。」という二重の意味があるそうです。生きていくために必要なサービスが商品として提供されていて、おカネと引き換えにいつでも入手できるわけではないけれど、必要なものは必ずありますよ、という意味なんだと思います。そういうところが、青木さんの「彼岸」「アジール」という言葉に結びついているように思うのです。


2024/05/18

手づくりのアジール

 このブログで「彼岸の図書館」として何度かご紹介している奈良県東吉野村の私設図書館を運営されておられるご夫婦のうち、夫さんの著書『手づくりのアジール:「土着の知」が生まれるところ』(青木真兵著. 晶文社, 2021)に、これまでこのブログに、ああでもない、こうでもないと、つらつら書いてきたことが、研究者の言葉で見事に文書化されていました。最近、読んだ本の内容をほとんど覚えていないことを「惜しい」と思うようになり、少しでも心に留まるように、努めて感想文を残しているのですが、本を書かれる方の文章はどれも見事で、自分の拙い感想文で読後感を上書きすることが却って惜しく、印象に残った文章をただ書き出すだけで感想を書いたつもりになっている場合もたくさんあります。この本もそんな本になりました。巻頭の「はじめに」から、ドストライクな文章の連続です。

ぼくが「彼岸」という言葉を使っているのは、すべてが数値化の結果を受けて序列化され、それに基づいて価値付けが行われてしまうような現代社会を「此岸」としたときに、そうではない世界としての「彼岸」が必要なのではないかという思いがあったからです。(p.3)

ぼくは、彼岸とアジールを同じような意味で使っています。そして自宅を開いて図書館を運営する活動自体が、アジールを手作りすることを意味しているのではないか」(p.5)

もし、今いる場所が自分に合っていないなら、つまり自分の「土着の知」と社会の折り合いが悪いなら、なんらかの形でそこから立ち去る準備をしなければなりません。…「逃げる」ことも「地に足をつける」ことも、自分の中の生き物の部分に気づくことを意味しています。それはつまり「土着の知」の存在に気づくことなのです。(p.7)

 前段のところは、現代社会は「人」を数値化する社会で、自分がその中で息苦しさを感じていて、同じように息苦しさを感じている人に、ひとときそこから逃れられる空間と時間を提供したい、という、このブログに私が書き連ねてきたことと本当にいっしょだと思いました。この方は「土着」「手づくり」というところに、その解決を見出しておられます。

手づくりとは、誰もが対価を払えば手に入れられる商品とは異なり、自身の個別性、身体性を手がかりに行う行為です。そして、個別性や身体性に触れるためには、コントロールできない社会の外部が自分の中にもあることを認める必要があります。(p.176)

社会の近代化に伴い、人はどこにでも住めるようになり、土地性が喪失した。…そのせいで社会が想定する人間像もどんどんヴァーチャルになり、誰にとっても生きやすい社会を目指すはずが、誰にとっても生きにくい社会になってしまうのではないか…だから、抽象的になってしまった人類を、再び土着化させ、土地に結び付けて具体的な存在として考えなおしたい。(p.182)

 彼岸の図書館も、以前にこのブログで紹介した島根県隠岐郡海士町も、商品で満たされた都会から離れているという意味で、とても不便なところです。地理的な制約が多く「こうしたい」と思うように自分の環境をコントロールすることが難しい。そういうところでその制約を受け入れながら生活することを「土着」と仰っておられるのだと思います。

これからは「みんなのため」ではなく「自分のため」に生きていくべきだと思います。それは自分たちや身の回りの物を「商品として見ない」ということです。…世の中が教えてくれる「みんな」基準の人生から、「自分」のための人生へ。この転換は、ぼくたちが幼少期から信じてきたものを、ポイっと捨てることを意味します。…ぼくたちはさまざまな可能性を信じるように、夢に向かって自己実現するように…つまり人気商品としての「自分」の形成に日々努力してきたのです。(pp.160-161)

 ここでいう「みんなのため」というのは、おカネを支払えば誰もが購入できる「商品」を提供することを意味していますから、「おカネのため」というのと同義語です。

何かを成し遂げようとすることは、商品的人間として「みんなのため」に生きていくということです。一方、手づくり的人間は「自分のために」生きていきます。「自分らしく」とか「自分らしくない」とか、そういうことは気にしません。「自分らしく」生きていくとは、実は商品的人間として生きていくことを意味します。商品的人間の特徴は、他社の眼差しが内面化されているということです。社会的評価を気にしてしまうとも言い換えられます。決して気負う必要はありません。むしろ、ただこの世界を「自分のために」生き延びること。それが結果として誰かのためになるかもしれないし、ならないかもしれない。(pp.164-165)

 そうそう。そういう生き方なんです。草径庵の庵主さんが「人など来るはずもなく、正直、来なくてもよい」と割り切っておられることにも通じます。

 このブログを始めてから何度か「背中を押される」思いをしているのですが、この本との出会いも、私にとっては大きな励みになりました。

2024/05/17

収益性再考

  実際に訪れてはいないのですが、横浜で週1日か2日だけ開いておられる読書カフェ「草径庵」を知って、カフェの収益性についての考え方は大きく変わりました。草径庵を知るまでは、図書館をやりたいという希望を叶えるために必要な費用を捻出する手段としてカフェを「経営」しようとしていたのですが、草径庵を知ってからは、カフェも図書館も一体のものとして、自分にとって居心地のいい空間であることが最優先事項で、儲かるかどうかは二の次。儲かれば儲かったでいいけれど、儲けようとしてやっているわけではなくて、儲からなくても続けていける仕組みを、定年後の生活全体の中で作っていけばいい、という考えに大きくシフトしました。

 草径庵の庵主さんはライターをされているようです。そこで稼いだおカネを草径庵に注ぎ込んでおられるのかもしれません。私の場合、そんなカッコイイ仕事はできませんので、例えば週3日間どこかで雇われて仕事をするとか、朝の時間だけ、スーパーの品出しをするとか、ショッピングモールの清掃をするとか、そんなことで月々わずかな収入を得て、それでカフェをする。もう定年ですから、おカネのためにそんなに働かなくてもいいのではないか。それに、仕事に生き甲斐ややり甲斐を求める必要もありません。自分の居場所は仕事以外のところにあるのですから。収入を得るためにするジョブと、社会に働き掛けてそこにやり甲斐を感じたり、自分の居場所を作ったりするワークをはっきり分ける。雇われてお給料をもらうのはいままでといっしょだけれど、こうすることでコミュニケーションに関わる負担は大きく軽減できると思うのです。

 家賃やリース料といった、月々発生する固定費を出来るだけ小さくして、初期投資については「道楽」と割り切って、回収することを考えない。もし誰も来てくれなくても、カフェ以外にやっていることで、たとえ僅かであっても月々決まったおカネは入ってくる。

 これまではそうはいきませんでした。娘が2人いれば、教育費もかかる。住宅ローンも返済しないといけない。「男性」というジェンダーは外で働いてきて稼いでくるところに価値がある、という伝統的な考え方がありますから(私がそう思っている訳ではないのですが、妻はそう思っているようです)、仕事を辞める訳にもいかず。脱サラするにしても、きちんと家におカネを入れられない仕事なんてできませんでした。「儲からなくてもいいや」と考えられるのは、人生の中でいまだけなのです。

 そうすることで、おカネのことはあまり考えずに、自分の好きなことが出来ます。少しでも多くの方に来店いただくとか、客単価を上げるとか、そういうことを考えて「お客様」に迎合する必要もありません。カフェを成功させるためのテンプレートに乗っかって、どこにでもあるようなカフェを作り、同じようなテンプレートで作られている他のカフェと競争する必要もありません。その結果、どこにもないような自分らしいカフェが出来て、それが受け入れられれば多くの方に来ていただけるし、受け入れられなくても、別に店を閉じる必要もなく、ただ細々と続けていればいい。

 そう考えることで、ものすごく気持ちの余裕ができるのです。

 きっとうまくいくような気がしてきました。




2024/05/01

ブックカフェと読書カフェ

 公的な団体ではないのですが、「日本ブックカフェ協会」という団体があって、ホームページを公開されています。そのホームページに「ブックカフェとは」という記事があって、ブックカフェの定義らしいものが次のように書かれています。

近年おしゃれで個性的なブックカフェが全国的に増えています。一杯のコーヒーと一冊の本から始まる新しいストーリー。ブックカフェとは、そんなストーリーを作り出す空間であり、カフェと本屋が合体したお店のことです。おいしいコーヒーを飲みながら店内の本棚に並ぶ本を自由に手に取り読むことができ、気にいった本は購入できます。

ブックカフェにも様々な業態があり、分類するといくつかのパターンに分けられます。

1.新刊書店とカフェが併設

2.古本屋がカフェを併設

3.閲覧のみのカフェ

 ブックカフェの開店を目指している人の中には、こうして「規格化」されることによって「私がやろうとしていることは変なことじゃないんだ」と安心される方もおられると思います。でも、私の場合、なんだか自分が開こうとしている店が、たくさんあるブックカフェのひとつとして「商品化」されるみたいで、複雑な思いがします。

 もちろん、まったく特異なことをしているわけではないのですが、商品経済の体系の中に組み込まれたくないという思いがありますので、いくつかの基準でパターン化されて、その中で、記号のように扱われるのは、あまり気分が良くありません。

 これまでこのブログでご紹介してきた「お気に入りのカフェ」や、いつか訪問しようと思っている草径庵は、いずれも「読書カフェ」を自称されています。それで、これからはこのブログでも、「ブックカフェ」ではなくて「読書カフェ」ということにします。それも「パターン化」かもしれないのですが、「読書カフェ」を自称されている方のカフェを見て、サービスの「商品化」の一歩手前で踏みとどまっておられるような感じはしますので、自分もそのように、自分自身やお店のサービスを「商品化」する一歩手前で踏み止まりたいと思うのです。

 過去の記事も、いずれ書き換えますが、とりあえずこれからは「読書カフェ」ということにします。