2026/02/15

初めての失業と開館準備

 3月末で定年退職となるところ、貯まりに貯まった有給休暇を消化して、2月中旬に事実上の退職をすることとしました。サラリーマン人生の最後にしては不誠実な辞め方だとは思うのですが、これもいろいろ堪りかねる出来事の帰結。最後は何も振り返ることなく辞めてきました。

 3月まではお給料がもらえるのですが、生活としては事実上の失業者。ただそれではダラダラと過ごすばかりになってしまいますので、いちおうはけじめをつけて、朝9時から夕方5時までは勤務時間。同じダラダラするなら「本の庵」になる予定の「藤ノ木の家」で過ごすこととしました。「藤ノ木の家」は現在改装中。それと水道やガスの開栓、光ファイバーの接続など、毎日訪問者があって、開館に向けたいろいろな作業をしていただいています。

 退職すると、時間の流れだけでなく、物事の決め方だとか考えごとの作法だとか、そういうものがガラリと変わってしまいます。勤めていたころは他者からやることと期日が与えられていましたから、そこから逆算して、自分ができることをプロットしていくというようなことを無意識にしていました。予定調和的に適当なところに落とし込む。初めてやることでもある程度の先は見通せましたし、「ここまでなら出来る」という落しどころも掴むことができました。その感覚が違うのです。

 開業に向けて、あれもやりたい、これもやらなければ、とアイデアは次々に浮かんでくる。でもいざそっちに進めようとすると「本当にそれでいいのか」と自分にブレーキがかかってしまうのです。例えば机の並べ方なのですが、最初は学校の教室のようにみんなが同じ方向を向くように考えていた。けれどそのレイアウトを実現するには改装が大掛かりになるので、工務店さんのアドバイスもあって改装を最小限にできる案を考えた。それで部屋の中央に間仕切り付きの机を並べるレイアウトを考えて、そこに照明が当たるように天井の真ん中にダクトレールを付けてもらった。ところが窓の改装をしてもらうとこれがことのほか良く、それじゃみんな窓の方を向いて一列で座ってもらうレイアウトを考えた。窓に向かって座るということは庭を見て座るということだから、庭をきれいにしないといけない。ウッドデッキと芝生でどうするか考えないといけないと思った。昼間は窓からの明かりで本が読めるけど、日が沈めば暗くなる。ダクトレールは天井の真ん中に付けてしまったから各席に照明を付けないといけない。それじゃ机の天板の下にテーブルタップを隠してそこからクリップライトの電源を取ればいい。机の間仕切りはこんな感じで、読書会をやるときはこんなふうに席を移動させて、、、
もうアイデアだけなら暴走状態なのですが、それが暴走あるいは妄想だという自覚があるので、最初の一歩が踏み出せないのです。窓の方を向いて座ればいいと思いついたときには「よしっ」て思ったのですが、それまでに何度もイメージが変わっているので、これが本当の最終形なのか自分でも確信が持てない状況。勤めているときはそれでも期日があるので進めていかなければいけなかったのですが、期日がないというだけでこんなに決め方や作法が変わってしまうんですね。

 それに、ときどき勤めていた会社のことを思い出して、あれをしておけばよかった、ああ言ってやればよかったと逡巡する時間があります。もちろん考えても仕方のないことなのですが、それだけに思索には限りがありません。これは、本来なら開業に向けて前向きに考えごとをするべき時間を、後ろ向きな後悔で浪費している訳ですし、精神衛生上もよくありません。ただ止まっているだけでも前を向いて止まっているならまだ良いのですが、前が見えないがためについつい後ろを振り返ってしまうという状態なのです。

 先に退職した人の話によると、その人は退職してそのあとの当てがないのですが、「何とでもなるわ」と超楽観的。職がないとマンションを借りることも出来ないので、まだ籍があるうちに退職金を当て込んで新しいマンションへ引っ越したんだそうです。ソファーなどの什器は新しい部屋に合ったもので揃えたい。その他、新しい生活に関わるものはとにかく「こだわり」を以って選んだそうです。別にいつまでにという期日がある訳ではない。時間はいくらでもある。本当に気に入ったものに出会うまでとことん選んだというのです。

 「本の庵」に関して言えば、決めないといけないのは机だけではありません。キッチンのこと。食器のこと。そのまえにメニューのこと。書架のこと。本の並べ方。レジや会計のこと。靴箱や傘立てのこと。看板のこと。何から考えていいのかさえわかりません。この感覚を重圧と呼ぶのか、それとも「こだわりへの自由」と呼ぶのか。退職後の作法に慣れるのにはいま少し時間がかかりそうです。


2025/12/12

自己肯定感

 NHKで『舟を編む』というドラマが放送されていたので、気になって、最近『広辞苑』を買いました。なぜドラマが『広辞苑』に結びついたのか、その経緯はずいぶん省略してしまいますが、ここでは気にしないでください。今日は『広辞苑』とドラマを切っ掛けに「自己肯定感」について考えてみようと思います。

 「自己肯定感」という言葉が気になったのは些細な切っ掛けなのですが、『広辞苑』には「自己肯定感」は立項されていません。『三省堂国語辞典』にもありません。会社で契約しているJapanKnowledgeというデータベースで調べてみると『現代用語の基礎知識』には「ひきこもり」との関係で立項されているようです。『日本国語大辞典』には「自己肯定」が立項されていて、阿部次郎『三太郎の日記』(1914-18)の「内省の根柢を欠く無鉄砲な自己肯定は更に更に無意味である」などの用例が採取されています。

 それに対して「自己否定」は『広辞苑』にも立項されています。しかし「自己否定感」という言い方はあまり聞きません。Wikipediaには「自己肯定感」が立項されていて、誰がどのような定義をしているのかや、いつごろからどういう経緯で使われるようになったのかなどを知ることができます。ここではその整理を一応は理解したうえで、この「自己肯定感」という言葉と、私なりに向き合ってみようと思います。

 まず『広辞苑』に立項されている言葉のうち「自己肯定感」にいちばん近そうな言葉は「自己否定」じゃないかと思います。その「自己否定」の対義語として「自己肯定感」という言葉を理解するのは自然な流れだと思うのですが、先述のように「否定」には「感」が付くことがないのに「肯定」にはほとんどの場合「感」が付きます。この非対称性は気になるところです。

 「自己」の対義語は「他者」ですので、「自己否定」の対義語は「他者否定」かもしれませんが、そんな言葉は聞いたことがありません。

 たぶん「他者」というのは「他人」とも意味が違うと思うのです。例えば馬締光也という人物がいたとします。彼にとって「自分」とは馬締光也その人です。林香具矢という人物も、岸辺みどりという人物も、彼にとっては「他人」です。『舟を編む』では、林香具矢は馬締光也の配偶者なのですが、ここはちょっと哲学的に、配偶者であっても「自分」以外の人物はすべて「他人」とします。「他人」は複数存在していて、林香具矢も岸辺みどりも、それぞれ単独で「他人」という地位にいます。

 社会生活をするうえで、「他人」を否定したり、「他人」から否定されたりということはよくあることです。口に出して罵倒することはなくても、心の中で「他人」の存在そのものを否定するようなことはなくはありません。

 それに対して「他者」というのは、「自己」を取り巻いているものすべての総体です。配偶者を含む自分の周りにいる他人、自分の置かれている立場、自分を取り巻く環境、自分の生い立ちやそれまでの経験などのすべてがひとまとまりになって「他者」です。だから「他者」の存在を否定することはできません。「自己」と「他者」の折り合いがわるく、双方の存在が互いに矛盾するような事態になったときには、「他者」ではなく「自己」を否定するしかなくなるのです。

私なんて…

ドラマの中で岸辺みどりが言うこのセリフは、自分の存在を、取るに足りないもの、どうでもいいものと捉え、存在する価値を否定する、まさに「自己否定」の言葉です。彼女は周囲の人々に支えられて次第に自分を取り戻していきますが、現実はドラマのようにいつもハッピーエンドとはなりません。自分を取り巻く環境の中のどこにも自分の居場所を見出せず、自分の存在価値を見出すことができない状態。つまり深刻な「自己否定」の状態の中で、微かに光を放つ灯りのように、自分がこの世に存在してもいいのだと思わせてくれるもの。それが「自己肯定感」だと思うのです。

 書店のビジネス書コーナーに行くと、「自己肯定感」をいかに高めるか、といったテーマの本が溢れています。しかし前述のように考えると「自己肯定感」というものは、高いとか低いとかを論じるものではなく、「在る」か「ない」かしかないと思うのです。そして「在る」といっても、いつも微かな存在でしかありません。その微かな「自己肯定感」を足掛かりにして、深い「自己否定」の状態から「自我」を取り戻していく。この過程のことを、ビジネス書では「自己肯定感を高める」と言っているのではないかと思うのです。

 「自己」と「他者」の存在が矛盾するような事態は、往々にして、「自分」と「他人」を比較することから生じます。そこから這い出して「自我」を取り戻していくために必要なこととは。それはきっと「他人」との比較をやめることだと思うのです。ビジネス書などを読めば、部下の自己肯定感を高めるために「褒めてあげましょう」とか「感謝の気持ちを伝えてあげましょう」などと書かれていることがあるのですが、「○○してあげる」というのは、必ず自分が相手よりも上位の立場にあってその行為がなされることが念頭にあります。「他人」との比較によって深く傷ついた心がそれによって癒されるのか、私には疑問です。

 現代社会のコミュニケーションは往々にして、「他人」と比べて「自分」の優位性を確認したり、あるいは「他人」と「自分」の同一性を確認したりする手段に陥りがちです。「本の庵」は、構想の早い段階から「脱・コミュニケーション」をコンセプトに掲げてきました。コミュニケーションから解放される時間と空間こそが「自我」を取り戻していくために必要なのかも知れません。

2025/11/24

負けの美学

 奈良県東吉野村で青木真兵さん・海青子さん夫妻が主宰する私設図書館「ルチャ・リブロ」を訪れたときのことです。

 部屋で本を読んでいると、20代と思しき若い男性4人が来館して、司書席の青木さんに何か話しています。聞くつもりはなかったのですが、自然と耳に入ってくる話から、どうやら彼らは東北地方の中学校の同級生。仕事に疑問を感じていたときに、青木さんの『手づくりのアジール』と出会い、郷里に戻ることを決めたとのことでした。青木さんは、本を読んでいる私に配慮されたのか「外でゆっくり話しましょう」と声をかけられましたが、私は「ぜひ私にも聞かせてください」とお願いし、縁側で一緒に話を聞かせてもらうことになりました。

 話してくれた1人は、不動産リース会社を辞め、郷里で不動産屋を始める準備をしているとのこと。

仕事で悩んでいたときに、こいつからこの本を紹介されたんです

と言って友人を指し、青木真兵さんの著書『手づくりのアジール』を掲げました。4人のうちのひとりがこの本に感銘を受けて、他の3人に次々に奨め、それぞれがこの本に書かれているような、いま現に私たちが生きている世界とは別の価値観を求めて、郷里で新たな人生を歩もうとしているとのこと。それで、著者の青木さんに感想を聞いてもらいつつ、直接、会って話がしたくて、飛行機とレンタカーで遥々とやってきたのだそうです。

 これはすごいことですね。本が何冊売れたということではなく、その本に書いた内容がこんなに深く読者に届いている。そしてその人の人生を変えようとしている。青木さんの語る「オルタネイティブな世界」は、まさにこういう価値観で支えられていると感じました。

 さてその不動産屋さんの彼によると、会社を辞める際、100人ほどに挨拶して回ったそうですが、1人だけこう言われたそうです。

逃げるんだね

悪気なく言った言葉だったようですが、それでも棘のように心に刺さったのでしょう。そして彼はこう続けました。

逃げるって、なんか負けたみたいじゃないですか。

これは私も同感です。青木さんは「逃げる」はけっしてネガティヴな行動ではなく、積極的な意味を持っている行動だと主張されています。不動産屋さんの彼も私もそのことは知っているのですが、言葉が持つニュアンスとしてどうしてもネガティブに響く。なんとか「逃げ出す」ではなく「飛び出す」と言える形にできないか。この間、私はずっとそんなことを考えてきました。

 そんな話をしているときに、彼らのリーダー格の一人が、「負けの美学」という話を始めたのです。

いまの世の中って、勝ったら何をしてもよくて、負けたらすべて終わり、みたいな感じがするんです。総合格闘技みたいに、相手をそこまで叩き潰さなくてもいいのに。だけどプロレスって『負けの美学』があるじゃないですか。技だって掛ける人と掛けられる人がいて初めて成立する。負けたからってもう終わりじゃなくて、それはそれとしてプロレスを続けていられる。負けても勝っても存在が許されていると思うんです。

私には格闘技の知識はありませんが、この説明はまるで、ガードの甘い私の脇腹に不意に入ったボディーブローのように効きました。

 私はこれまで、現代社会を、お金がすべての目的になっている世界、すべてが記号化される世界、地位や学歴といったアイテムをゲットしながらおカネというポイントを稼いでいくロールプレイゲームのような世界、などと捉えてきました。しかし、それの何が嫌なのかをうまく説明できませんでした。でも、

勝った人がすべてを取り、負けたら何も残らない世界

という捉え方は、直感的に自分の忌避感の正体を射抜いていると思ったのです。

 勝負を望んでいるわけではないのに、常に何かと競争させられて、それに勝ち続けていないと存在が許されなくなる世界。「負けの美学」が存在しない世界とはそういう世界なのです。そんな世界、たとえ自分がいま「勝ち組」にいたとしても、この先もずっとそこにいたいとは思えないです。

 彼らはその価値観とは違う世界を作ろうとしているのです。それでもなお「逃げる」と言われると後ろめたさが残る。まるで「負けた」みたいだ。自分たちのつくろうとしている世界の方がいいということを、自信と誇りをもって伝えたいし、理解もしてほしい。そう話す彼らを見ながら、私はふと気づいたのです。

勝ち負けじゃない世界を作ろうとしているのに、その世界と勝ち負けの世界を比べて、どちらが勝った/負けたと言うのは、もうすでに勝ち負けの世界に呑み込まれているじゃないか。

他の人の話を聞いていれば分かることなのですが、実は私自身もそうやっていまの世界の価値観に呑み込まれていたのです。「逃げ出すか」「飛び出すか」という言葉の選択にこだわっていたのは、突き詰めれば、いまの社会の価値基準でいう“負けたのか/勝ったのか”を気にしていたからに他なりません。

 結局のところ、「逃げ出す」か「飛び出す」かという二分法そのものが、勝負の世界の発想だったのだと気づきました。ルチャ・リブロはそんな気付きを与えてくれる場所でした。そもそもその問いそのものがルチャ・リブロから発せられたものだったとも言えます。「本の庵」もそんな問いが見つかる場所であってほしい。そしてその問いに対する答えを静かに探す空間であってほしい。「脱コミュニケーション」の先にある「シン・コミュニケーション」がおぼろげに見えてきたような気がしました。