2025/12/12

自己肯定感

 NHKで『舟を編む』というドラマが放送されていたので、気になって、最近『広辞苑』を買いました。なぜドラマが『広辞苑』に結びついたのか、その経緯はずいぶん省略してしまいますが、ここでは気にしないでください。今日は『広辞苑』とドラマを切っ掛けに「自己肯定感」について考えてみようと思います。

 「自己肯定感」という言葉が気になったのは些細な切っ掛けなのですが、『広辞苑』には「自己肯定感」は立項されていません。『三省堂国語辞典』にもありません。会社で契約しているJapanKnowledgeというデータベースで調べてみると『現代用語の基礎知識』には「ひきこもり」との関係で立項されているようです。『日本国語大辞典』には「自己肯定」が立項されていて、阿部次郎『三太郎の日記』(1914-18)の「内省の根柢を欠く無鉄砲な自己肯定は更に更に無意味である」などの用例が採取されています。

 それに対して「自己否定」は『広辞苑』にも立項されています。しかし「自己否定感」という言い方はあまり聞きません。Wikipediaには「自己肯定感」が立項されていて、誰がどのような定義をしているのかや、いつごろからどういう経緯で使われるようになったのかなどを知ることができます。ここではその整理を一応は理解したうえで、この「自己肯定感」という言葉と、私なりに向き合ってみようと思います。

 まず『広辞苑』に立項されている言葉のうち「自己肯定感」にいちばん近そうな言葉は「自己否定」じゃないかと思います。その「自己否定」の対義語として「自己肯定感」という言葉を理解するのは自然な流れだと思うのですが、先述のように「否定」には「感」が付くことがないのに「肯定」にはほとんどの場合「感」が付きます。この非対称性は気になるところです。

 「自己」の対義語は「他者」ですので、「自己否定」の対義語は「他者否定」かもしれませんが、そんな言葉は聞いたことがありません。

 たぶん「他者」というのは「他人」とも意味が違うと思うのです。例えば馬締光也という人物がいたとします。彼にとって「自分」とは馬締光也その人です。林香具矢という人物も、岸辺みどりという人物も、彼にとっては「他人」です。『舟を編む』では、林香具矢は馬締光也の配偶者なのですが、ここはちょっと哲学的に、配偶者であっても「自分」以外の人物はすべて「他人」とします。「他人」は複数存在していて、林香具矢も岸辺みどりも、それぞれ単独で「他人」という地位にいます。

 社会生活をするうえで、「他人」を否定したり、「他人」から否定されたりということはよくあることです。口に出して罵倒することはなくても、心の中で「他人」の存在そのものを否定するようなことはなくはありません。

 それに対して「他者」というのは、「自己」を取り巻いているものすべての総体です。配偶者を含む自分の周りにいる他人、自分の置かれている立場、自分を取り巻く環境、自分の生い立ちやそれまでの経験などのすべてがひとまとまりになって「他者」です。だから「他者」の存在を否定することはできません。「自己」と「他者」の折り合いがわるく、双方の存在が互いに矛盾するような事態になったときには、「他者」ではなく「自己」を否定するしかなくなるのです。

私なんて…

ドラマの中で岸辺みどりが言うこのセリフは、自分の存在を、取るに足りないもの、どうでもいいものと捉え、存在する価値を否定する、まさに「自己否定」の言葉です。彼女は周囲の人々に支えられて次第に自分を取り戻していきますが、現実はドラマのようにいつもハッピーエンドとはなりません。自分を取り巻く環境の中のどこにも自分の居場所を見出せず、自分の存在価値を見出すことができない状態。つまり深刻な「自己否定」の状態の中で、微かに光を放つ灯りのように、自分がこの世に存在してもいいのだと思わせてくれるもの。それが「自己肯定感」だと思うのです。

 書店のビジネス書コーナーに行くと、「自己肯定感」をいかに高めるか、といったテーマの本が溢れています。しかし前述のように考えると「自己肯定感」というものは、高いとか低いとかを論じるものではなく、「在る」か「ない」かしかないと思うのです。そして「在る」といっても、いつも微かな存在でしかありません。その微かな「自己肯定感」を足掛かりにして、深い「自己否定」の状態から「自我」を取り戻していく。この過程のことを、ビジネス書では「自己肯定感を高める」と言っているのではないかと思うのです。

 「自己」と「他者」の存在が矛盾するような事態は、往々にして、「自分」と「他人」を比較することから生じます。そこから這い出して「自我」を取り戻していくために必要なこととは。それはきっと「他人」との比較をやめることだと思うのです。ビジネス書などを読めば、部下の自己肯定感を高めるために「褒めてあげましょう」とか「感謝の気持ちを伝えてあげましょう」などと書かれていることがあるのですが、「○○してあげる」というのは、必ず自分が相手よりも上位の立場にあってその行為がなされることが念頭にあります。「他人」との比較によって深く傷ついた心がそれによって癒されるのか、私には疑問です。

 現代社会のコミュニケーションは往々にして、「他人」と比べて「自分」の優位性を確認したり、あるいは「他人」と「自分」の同一性を確認したりする手段に陥りがちです。「本の庵」は、構想の早い段階から「脱・コミュニケーション」をコンセプトに掲げてきました。コミュニケーションから解放される時間と空間こそが「自我」を取り戻していくために必要なのかも知れません。

2025/11/24

負けの美学

 奈良県東吉野村で青木真兵さん・海青子さん夫妻が主宰する私設図書館「ルチャ・リブロ」を訪れたときのことです。

 部屋で本を読んでいると、20代と思しき若い男性4人が来館して、司書席の青木さんに何か話しています。聞くつもりはなかったのですが、自然と耳に入ってくる話から、どうやら彼らは東北地方の中学校の同級生。仕事に疑問を感じていたときに、青木さんの『手づくりのアジール』と出会い、郷里に戻ることを決めたとのことでした。青木さんは、本を読んでいる私に配慮されたのか「外でゆっくり話しましょう」と声をかけられましたが、私は「ぜひ私にも聞かせてください」とお願いし、縁側で一緒に話を聞かせてもらうことになりました。

 話してくれた1人は、不動産リース会社を辞め、郷里で不動産屋を始める準備をしているとのこと。

仕事で悩んでいたときに、こいつからこの本を紹介されたんです

と言って友人を指し、青木真兵さんの著書『手づくりのアジール』を掲げました。4人のうちのひとりがこの本に感銘を受けて、他の3人に次々に奨め、それぞれがこの本に書かれているような、いま現に私たちが生きている世界とは別の価値観を求めて、郷里で新たな人生を歩もうとしているとのこと。それで、著者の青木さんに感想を聞いてもらいつつ、直接、会って話がしたくて、飛行機とレンタカーで遥々とやってきたのだそうです。

 これはすごいことですね。本が何冊売れたということではなく、その本に書いた内容がこんなに深く読者に届いている。そしてその人の人生を変えようとしている。青木さんの語る「オルタネイティブな世界」は、まさにこういう価値観で支えられていると感じました。

 さてその不動産屋さんの彼によると、会社を辞める際、100人ほどに挨拶して回ったそうですが、1人だけこう言われたそうです。

逃げるんだね

悪気なく言った言葉だったようですが、それでも棘のように心に刺さったのでしょう。そして彼はこう続けました。

逃げるって、なんか負けたみたいじゃないですか。

これは私も同感です。青木さんは「逃げる」はけっしてネガティヴな行動ではなく、積極的な意味を持っている行動だと主張されています。不動産屋さんの彼も私もそのことは知っているのですが、言葉が持つニュアンスとしてどうしてもネガティブに響く。なんとか「逃げ出す」ではなく「飛び出す」と言える形にできないか。この間、私はずっとそんなことを考えてきました。

 そんな話をしているときに、彼らのリーダー格の一人が、「負けの美学」という話を始めたのです。

いまの世の中って、勝ったら何をしてもよくて、負けたらすべて終わり、みたいな感じがするんです。総合格闘技みたいに、相手をそこまで叩き潰さなくてもいいのに。だけどプロレスって『負けの美学』があるじゃないですか。技だって掛ける人と掛けられる人がいて初めて成立する。負けたからってもう終わりじゃなくて、それはそれとしてプロレスを続けていられる。負けても勝っても存在が許されていると思うんです。

私には格闘技の知識はありませんが、この説明はまるで、ガードの甘い私の脇腹に不意に入ったボディーブローのように効きました。

 私はこれまで、現代社会を、お金がすべての目的になっている世界、すべてが記号化される世界、地位や学歴といったアイテムをゲットしながらおカネというポイントを稼いでいくロールプレイゲームのような世界、などと捉えてきました。しかし、それの何が嫌なのかをうまく説明できませんでした。でも、

勝った人がすべてを取り、負けたら何も残らない世界

という捉え方は、直感的に自分の忌避感の正体を射抜いていると思ったのです。

 勝負を望んでいるわけではないのに、常に何かと競争させられて、それに勝ち続けていないと存在が許されなくなる世界。「負けの美学」が存在しない世界とはそういう世界なのです。そんな世界、たとえ自分がいま「勝ち組」にいたとしても、この先もずっとそこにいたいとは思えないです。

 彼らはその価値観とは違う世界を作ろうとしているのです。それでもなお「逃げる」と言われると後ろめたさが残る。まるで「負けた」みたいだ。自分たちのつくろうとしている世界の方がいいということを、自信と誇りをもって伝えたいし、理解もしてほしい。そう話す彼らを見ながら、私はふと気づいたのです。

勝ち負けじゃない世界を作ろうとしているのに、その世界と勝ち負けの世界を比べて、どちらが勝った/負けたと言うのは、もうすでに勝ち負けの世界に呑み込まれているじゃないか。

他の人の話を聞いていれば分かることなのですが、実は私自身もそうやっていまの世界の価値観に呑み込まれていたのです。「逃げ出すか」「飛び出すか」という言葉の選択にこだわっていたのは、突き詰めれば、いまの社会の価値基準でいう“負けたのか/勝ったのか”を気にしていたからに他なりません。

 結局のところ、「逃げ出す」か「飛び出す」かという二分法そのものが、勝負の世界の発想だったのだと気づきました。ルチャ・リブロはそんな気付きを与えてくれる場所でした。そもそもその問いそのものがルチャ・リブロから発せられたものだったとも言えます。「本の庵」もそんな問いが見つかる場所であってほしい。そしてその問いに対する答えを静かに探す空間であってほしい。「脱コミュニケーション」の先にある「シン・コミュニケーション」がおぼろげに見えてきたような気がしました。


2025/10/18

地位と収入を超えて

 昨日の記事で紹介した娘の言葉をきっかけに、「働くこと」と「おカネ」の関係について考えました。

 私の妻は、結婚と出産を機に会社勤めを辞め、いまはパートタイムで働いています。地位や収入よりも家事や育児を優先した生き方を選んだように見えます。
しかし、自分が家事や育児をしてきたおかげで夫が働けた、という意識が強い。
結局のところ、自分の働き(家庭内労働)も夫の収入とリンクしている。
家庭の中で生きているように見える妻も、「女の人はみんな働きたいと思っている、と思っている人」も、結局、私たちはどこかで“おカネがヒトを回す”世界の中で、息をしているのかもしれません。

 そう考えると、私が定年を機に会社を離れ、「収入」や「地位」とは無縁の生き方をしようとすることに、妻が強く反発する理由も見えてきます。妻にしてみれば、夫の収入によって蓄えられた資金によって約束されるはずの老後の安定した生活に、自分も家事と育児を通して貢献してきた、と思っているのでしょう。そこに全く別の価値観が持ち込まれるわけですから「梯子を外された」ような感覚なのかもしれません。

 私の思いとしては、「働くこと」と「収入を得ること」を切り離して考えてほしいのです。感覚的なことですが、お金と切り離されたところで社会的に意義のある活動をしているのは、女性の方が多いように思います。
たとえば、子ども食堂や地域のボランティアなど。

 一方、男性の多くは「職業=収入」と強く結びついていて、「それでいくら稼げるのか」という尺度から自由になれない。自分の存在意義を地位や収入に関連付けて考える。その枠から出ない限り、自分のしていることの本当の価値が見えにくくなるのです。

 家庭に入った女性もまた、夫の収入を支える形で自分の役割を見いだしている限り、「お金」と無縁ではいられません。だからこそ、夫が定年後に会社勤めを辞め、「お金がヒトを回す構造の外側」で生きたいと言い出すと、違和感を覚えるのだと思うのです。

 おカネには確かに人を幸せにするチカラがあると思います。すべての財貨やサービスが商品としておカネと交換できる社会にあって、おカネなしで幸せになるのは難しいことかもしれません。けれどおカネがあれば幸せになれるのかというと、そうでもないような気がします。そこにオルタネイティブな価値観を示す。「本の庵」でやろうとしていることをカッコよく言えばそういうことかもしれません。